五 砂の城
秋になり、小坂は人生で最も重要な局面を迎えていた。
役員の椅子がひとつ空く。候補は二人。小坂と、同期入社の営業二部長・日野であった。入社以来三十年近く、二人は同じ階段を、同じ速度で上ってきた。そしてこの最後の一段だけは、二人で上ることができない。
問題は数字だった。この半年、営業一部の業績は伸び悩んでいた。原因は明らかだった。部下たちが萎縮し、新規の提案が出なくなったのである。だが小坂は、その原因に気づいていなかった。彼の頭の中では、自分の指導は完璧だったから、停滞は市場のせいということになっていた。
一方、日野の二部は快調だった。
「二部の実績が伸びていますね」
残業で二人きりになったフロアで、高橋が書類を整理しながら、独り言のように言った。
「今月の数字さえ作れれば、役員会での評価は決まりでしょうに」
小坂は返事をしなかった。ただ、手元のペンの動きが止まった。
「……来期に計上すべき案件を、今期に繰り上げることは、できないものかな」
言ってしまってから、小坂は自分の声の低さに驚いた。高橋は顔を上げず、淡々と答えた。
「手続き上は、いくつか方法があります。部長のご判断であれば、私が伝票を整えます」
「いや、これは不正ではない。あくまで一時的な調整だ。来期には正しい形に戻る」
「もちろんです。論理的に、そうです」
高橋はそう言って、ほんの少し微笑んだ。小坂はその笑みを、自分の理解者の笑みだと受け取った。
翌週から、売上の前倒し計上が始まった。さらに下請け業者へのコストの付け替え、検収前の出荷の売上化。一つ手を染めれば、次の一つは前より軽い。小坂は日ごとに「正当な調整」の数を増やしていった。彼の指示は、いつも口頭ではなく、高橋へのメールか、音声のあるやりとりで行われた。口頭の指示は証拠が残らないが、彼はそこまで用心深くなく、むしろ「部下に丁寧に説明する」自分に満足していたのである。
高橋は、すべての指示を、一語も漏らさず保存していた。
十月の終わりの夜だった。
帰宅した小坂が玄関のポストを開けると、白い封筒が一通、挟まっていた。切手も差出人もない。
居間で封を切ると、ワープロで打たれた数枚の紙が出てきた。目を走らせた小坂の指が止まった。それは、彼が佐々木を追い詰めたあの日の会話の、一言一句違わぬ文字起こしだった。「待つよ。何分でも」という自分の声が、活字になって紙の上に並んでいる。
最後の一枚には、短い一文があった。
『あなたの言葉は人を殺します。ご家族はこれを知っていますか』
背後で、気配がした。台所から出てきた恵子が、夫の手元を覗き込んでいた。そして、読んだ。小坂は紙を隠そうとしたが、もう遅かった。
恵子の目に浮かんでいたのは、驚きではなかった。長いあいだ疑ってきたことが、ようやく裏づけられた者の、冷えた納得であった。
「……あなた、会社でも、家と同じことをしているのね」
「違う。これは教育だ。こんなものは誰かの悪意で――」
「どういう意味?」恵子は静かに言った。「論理的に、説明してみて」
それは、二十四年間、恵子が一度も口にしたことのない問いだった。小坂は言葉に詰まった。自分の口から出たのと同じ質問が、これほど冷たく刺さるものだとは、彼は知らなかった。
小坂は眠れぬ夜を過ごし、翌朝、会社のあらゆる人間の顔を疑いの目で見回した。誰が、いつから、自分を見ていたのか。
その視線の先で、高橋が心配そうに眉を寄せ、「顔色が悪いですよ、部長」と言った。小坂は救われたような気持ちでその手を握りかけた。
正義を口にする者が最も易々と悪徳に手を染めるのは、自らの欲望すら「正当な権利」と錯覚するからである。小坂が積み上げた栄光の数字は、最初から崩れ去る運命にある砂の城に過ぎなかった。




