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四 観察者


高橋隆一の部屋には、家具らしい家具がなかった。

郊外の安アパートの六畳間に、折りたたみの机と、スタンドライトが一つ。壁には何も貼られていない。机の引き出しの奥に、擦り切れた黒い手帳が三冊しまわれていた。

表紙には何も書かれていない。開くと、几帳面な細字で、ひとりの男の記録が綴られている。

『小坂和彦。語尾を上げて質問する時は、まだ余裕がある。声が一段低くなった時は、苛立っている』

『「曖昧な言葉」に過敏。「一応」「概ね」「善処」。使えば必ず食いつく』

『称賛に弱い。「論理的ですね」と言われると、三秒、口元が緩む』

『同期の日野への劣等感。日野の名が出ると、ペンが止まる』

記録は、五年分あった。

高橋は毎晩、帰宅するとまず、ICレコーダーの電源を入れた。昼間、小坂に投げられた質問を、自分の声で再現する。そして答える。三通り。五通り。十通り。小坂が最も嫌う答えは何か。最も安心する答えは何か。

初めのうちは、うまくいかなかった。

小坂の口調をなぞるだけで、胃の底からせり上がるものがあった。受け答えの途中で言葉が詰まり、夜中に洗面所で嘔吐したこともある。それでも彼は、録音を巻き戻した。何度でも、巻き戻した。

 

引き出しの一番奥に、もう一つ、小さな箱がある。

蓋を開けると、古い携帯電話が一台、入っていた。充電は切れている。高橋は月に一度だけ、これを充電器に繋ぐ。そして、一件だけ残された音声を、再生する。

雑音の向こうで、若い男の声が、途切れ途切れに言う。

『……兄さん。ごめん。……うまく、説明できなくて』

それだけだった。三十秒にも満たない。その先は、風の音だけが続いて、切れる。

高橋は再生を終えると、携帯を箱に戻し、蓋を閉める。泣きはしない。五年のあいだに、泣き方は忘れてしまった。

 

一度だけ、揺らいだ夜があった。

不正の伝票を整え終えたあと、小坂が言ったのである。

「高橋くん。君がいてくれて、本当に助かっている。僕は、君のような部下を持てて幸せだ」

声に偽りはなかった。それが分かってしまうことが、高橋には耐え難かった。この男は今、本心から、自分を信じている。信じて、感謝して、そして自分の手で、破滅への判を押している。

その夜、高橋は一睡もしなかった。机の前に座り、手帳を開いたまま、夜明けまで動かなかった。

自分は何をしているのか。これは復讐なのか。それとも、ただ、同じ種類の怪物になるだけなのか。

答えは出なかった。出ないことを、彼は知っていた。出ない問いに時間をかけるのは、小坂のやり方であった。

高橋は手帳を閉じた。引き出しの奥の箱に、静かに触れた。それから立ち上がり、洗面所で顔を洗い、鏡の中の男に、いつものように、控えめな微笑みを向けてみせた。

復讐を決めた者は、ある夜、自分の顔から怒りが消えていることに気づく。怒りが消えたのではない。怒りが、微笑という最も精巧な仮面へ、姿を変えただけなのである。

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