三 毒蜘蛛
営業一部のフロアの端に、古い休憩室がある。小坂の足音が廊下に響くと、そこで談笑していた者たちは、示し合わせたように口をつぐんだ。
「毒蜘蛛が来た」
誰かが小さくそう言ったのは、夏の終わりのことだった。糸を張って待ち、獲物が動けなくなるまで少しずつ毒を回す。部下たちが小坂に与えた名は、そういう意味であった。
小坂の詰問は、彼らにとって叱責ではなかった。叱責ならば、ミスが済めば終わる。しかし小坂の問いは、ミスから始まって、いつしか「お前は何者なのか」「なぜそんな考え方をするのか」という、人格そのものへの問いに変わっていく。それは存在の否定に等しかった。
佐々木は、その休憩室の隅で、紙コップのコーヒーを持ったまま手を震わせていた。
「大丈夫ですか」
声をかけたのは高橋だった。
「……すみません。部長の前だと、頭が真っ白になって」
「無理もないです」高橋は周囲を見回し、声を落とした。「佐々木さん。ひとつだけ、言っていいですか。あれは指導ではありません。拷問です」
佐々木は顔を上げた。それは、彼が誰かに言ってほしかった言葉だった。
「次に面談があるとき、スマホで録音しておいたらいいと思います。何かあったときに、自分を守れるのは記録だけですから」
高橋の声は優しかった。優しく、そして、奇妙に平らだった。
以来、高橋は一人、また一人と、傷ついた部下たちに寄り添っていった。声を荒らげず、誰の悪口も言わず、ただ静かに話を聞いた。そして最後に、決まって同じことを言った。
「記録は、取っておいた方がいい」
沈黙は、ときに最も雄弁な共犯者である。人々は皆、同じ毒を飲まされながら、互いにそれを打ち明けることだけは、長いあいだ恐れ続けていた。




