二 完璧な部下
その年の春、営業一部に中途採用の男が入った。
高橋隆一、三十二歳。前職は同業の中堅商社と履歴書にはあった。細身で物腰が柔らかく、挨拶の声は小さいが、目だけがよく動いた。
着任して十日目、小坂は例によって「一応」の件を高橋にぶつけた。新人いびりの儀式のようなものであった。
「高橋くん、この提案書の『概ね問題ございません』だが、『概ね』とはどの範囲を指す?」
「失礼しました。在庫リスクの三項目のうち二項目が解消済みで、残る一項目は来週水曜に確認が取れます。『概ね』は不適切でした。『三項目中二項目が解消済み』と訂正いたします」
間髪を容れず、澱みのない答えだった。小坂は眼鏡の奥の目を、わずかに見開いた。
「……では、残る一項目の確認が取れなかった場合の代替案は」
「二案あります。第一に――」
高橋は小坂が次に突くであろう急所を、まるで先に知っているかのように答えていった。五つ目の問いが終わったとき、小坂は初めて、自分から質問を打ち切った。
「なるほど。……君は話が通じるね」
その夜、小坂は妻の恵子に、珍しく上機嫌で話した。
「今度来た中途の高橋というのがね、僕と同じ高さで物を考えられる。ああいう部下は初めてだ」
恵子は食器を拭く手を止めずに、「そう」とだけ答えた。結婚して二十四年、夫の話に相槌以外を返すことを、彼女はとうに諦めていた。何を言っても「それはどういう意味?」と問い返される家であった。
そのころから高橋は、小坂の最も近くに座るようになった。昼食に誘われれば応じ、愚痴にも、自慢にも、深く頷いた。小坂は高橋を「唯一の理解者」と呼ぶようになった。
その高橋が、小坂の背を見つめる目の奥に何を溜めているか。気づく者は、まだ誰もいなかった。
人は、己を理解してくれる者を疑わない。最も深く己を知る者が、最も深く己を憎みうるということを、人はいつも、取り返しのつかなくなってから学ぶのである。




