第一章 沈黙の詰問
小坂和彦が部下を怒鳴ったという話を、営業一部の誰も聞いたことがなかった。
五十歳。中堅機械商社の営業一部長である。背筋の伸びた痩身に銀縁の眼鏡、声はいつも低く穏やかで、語尾が荒れることがない。社内での評判は「冷静で切れる管理職」というものだった。怒号の飛び交う旧世代の上司たちを見慣れた者の目には、それは確かに一つの進歩に映ったのである。
だが、営業一部の若手たちは、朝、小坂の席の方角から靴音が近づくたびに、そっと胃のあたりを押さえた。
「佐々木くん。この報告書にある『一応確認しました』というのは、どういう意味かな」
二十五歳の佐々木健太は、背中に冷たいものが這うのを感じながら顔を上げた。小坂は笑っていた。唇の端を、ほんの少しだけ持ち上げて。
「……あの、先方に電話をして、納期の件を」
「うん。『一応』とは、何に対しての『一応』なのかな。確認は、したの? していないの? 僕にわかるように、論理的に説明してごらん」
声に棘はない。むしろ教師のように優しかった。それが佐々木には何より恐ろしかった。
「その、担当の方が不在で、ですから、折り返しを待つ形に……」
「ということは、確認はできていない。では、なぜ『確認しました』と書いたのかな。なぜその言葉を選んだ?」
佐々木は口を開き、何も出てこないまま閉じた。喉が貼りついたように動かない。フロアの誰もがキーボードを叩く手を止めず、そして誰も佐々木の方を見なかった。見れば次は自分だと、全員が知っていたからである。
小坂は椅子の背にゆったりと身を預け、腕を組んだ。
「待つよ。何分でも」
時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。一分、二分。三分を過ぎたころ、佐々木の視界の端がにじんだ。小坂の怒鳴り声ならば、まだ耐えようがあったろう。怒りは人を傷つけるが、同時に人に反発という足場を与える。しかしこの男は、足場をひとつずつ静かに外していくのだった。
小坂はそれを「コーチング」と呼んでいた。部下に自分の頭で考えさせ、言葉に責任を持たせる。それが育成であり、これこそが現代の管理職の務めである――彼は本気でそう信じていた。
己の放つ言葉が相手の心を削り取る毒であることを、小坂は最後まで知らなかった。自らを「光」と信じて疑わぬ者ほど、周囲に濃い影を落としていることに無頓着なものである。




