第9話
領主邸で働き始めて、一ヶ月が経った頃。
休みの日に市場で買った花を飾っていると、オスカーが執務室へ入ってきた。
「エレノア。……お前に届いたものだ」
机の端に、一束の封書が置かれた。
私は花瓶から手を離し、椅子へ腰を下ろした。
見慣れた、嫌悪感すら覚える豪奢な蝋封。クロムウェル伯爵家の家紋と、ローレンス侯爵家の刻印が押された手紙が、合わせて五通。
どうやら、王都から放たれた捜索の手が、ようやくこの辺境の港町まで辿り着いたらしい。
港の酒場で「有能な女性書記官が領主邸に入った」という噂を聞きつけた使者が、手紙を置いていったのだという。
オスカーは封書を置くと、私の顔を見た。
何を聞かれるのかはわかっていた。この家へ来た事情は伝えても、実家での暮らしを詳しく話したことはなかった。
「使者が、お前に会わせろと門前で粘っていた。返事は預かれないと伝えて、帰ってもらった。……家の者が来ても、面会は断っていいんだな?」
「はい。会いたくありません」
「わかった。手紙も、無理に読む必要はない」
差し出しかけた手を、オスカーは止めた。
私が封書へ触れるまで、黙って待ってくれた。
手紙の表書きには、父の乱雑な筆跡で『至急開封せよ』とあり、セディック様の神経質な文字で『君の弁明を聞く用意がある』と書かれていた。
弁明を聞く用意。
思わず、乾いた笑いが零れそうになった。
あれほど私を踏みつけにしておきながら、いざ自分たちの生活が立ち行かなくなると、上から目線で「戻ることを許してやる」と言わんばかりの傲慢さ。
中を開けなくても、何が書かれているかは容易に想像がついた。
「どうする、エレノア」
オスカーが低く尋ねる。
私は静かに立ち上がり、机の上の手紙の束を手にとった。
そして、迷うことなく執務室の暖炉の前へと歩いていく。
赤々と爆ぜる薪の炎が、私の顔を照らしていた。
封には、指をかけなかった。
私は手紙の束を、そのまま暖炉の炎の中へと落とした。
ボッと音を立てて、高級な羊皮紙が瞬く間に黒く焦げ、炎に包まれていく。
父の紋章が溶け、セディック様の文字が端から黒く縮れていった。
振り返ると、オスカーが目を見開いて立ち尽くしていた。
「……読まなくて、よかったのか」
「はい」
私は淡然と頷いた。
「読む必要がございません。私が身を引けば丸く収まるのだと、あの方々がおっしゃったのですから。……私にはもう、何の関係もない方々です」
言い終えると、少し手が震えた。
暖炉の前で握り合わせる。もう一度謝れと言われても、戻るつもりはなかった。
その私の姿を、オスカーはじっと見つめていた。
やがて、彼は深く頷いた。
「……そうか」
オスカーは近づいて、私の手を取った。握り返すと、そっと肩を抱き寄せてくれた。
「……ここにいたいです」
「ああ」
それだけの返事が、ありがたかった。
しばらく彼の胸元へ額を寄せてから、私は少しずつ話した。婚約者を妹に譲ったこと。家督も放棄したこと。書類に署名した夜、屋敷を出たこと。
オスカーは途中で口を挟まなかった。
ただ、私を抱く腕に一度だけ力が入った。
「……身を引けば、丸く収まるそうです」
自分で言って、笑い損ねた。
彼の手が、私の背をゆっくりと撫でた。
「婚約が解消された記録を、貴族院に確認してもいいか。家を離れたことも届けておこう。奴らが後から取り消すと言い出したときのために」
「お願いします。……もう、戻されるのは嫌です」
「戻させない」
短い返事を聞いて、私はようやく息を吐いた。
花瓶の花が少し傾いていた。直しに行こうとして彼から離れかけたけれど、もう少しだけ、と袖を掴んだ。
オスカーは何も言わず、抱き直してくれた。




