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私が身を引けば丸く収まるのでしょう?  作者: 九葉(くずは)


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第10話

それから数週間後、冬の終わりのヴァレンティン領を激しい暴風雨が襲った。

海鳴りが地響きのように轟き、叩きつけるような雨粒が執務室の窓を激しく揺らしている。


「……っ」


執務室で、港の倉庫を避難場所として開ける知らせを清書していた。届けに行く役人へ最後の一枚を渡した途端、窓の外が真っ白に光った。

ペンを置こうとした指先が、ガタガタと震える。

続けざまの雷鳴が、鼓膜を震わせた。


幼い頃、マリアンヌが「雷が怖い」と泣き出すたび、私は一人、屋根裏の物置部屋へ押し込められた。

『お前まで怖いなどと言うな。マリアンヌが余計に怖がるだろう』

そう言われ、鍵をかけられた暗闇の中で、朝まで一人で震えていた記憶。

どんなに耳を塞いでも、雷が落ちるたびに心臓が縮み上がる恐怖が、十数年経った今でも身体から抜けていなかった。


(落ち着いて……ここは王都の屋敷じゃない。私はもう、あの部屋にいなくていいんだから……)


自分に言い聞かせるが、呼吸が浅くなり、視界が滲んでいく。

冷え切った指先から、ぽろりとペンが零れ落ちた。

拾おうと屈んだまま、立ち上がれなくなった。


その時、執務室の重い扉が勢いよく開いた。


「エレノア!」


濡れた外套を脱ぎ捨てたオスカーが、肩で息をしながら飛び込んできた。

港の見回りから戻ったばかりらしい。濡れた髪を額に張りつかせたまま、机の下にいる私へ駆け寄ってきた。


「やはり、ここにいたか」


オスカーは床に膝をつき、私の凍える両手をその大きな掌で包み込んだ。

体温が、皮膚越しに伝わってくる。


「……すまない。海が荒れて戻るのが遅くなった。怖かっただろう」

「お、オスカー様……! 濡れていらっしゃいます、お風邪を召してしまいます……!」

「俺は着替えれば済む。……立てるか」


オスカーは眉をひそめ、私の震える肩を抱き寄せた。


「こんな時まで他人の心配をするな。……怖いなら怖いと言え。お前は頑丈でも、鉄でできているわけでもないだろう」


その一言で、胸の奥で堰き止めていたものが、決壊した。

いつからか、「怖い」と口に出すのをやめていた。言えば「お姉ちゃんのくせにだらしない」と叱られたからだ。


オスカーの胸元に額を押し当てると、彼は力強い腕で私をしっかりと抱きしめてくれた。

トクン、トクンと、厚い胸板の向こうから響く力強い鼓動。

雷が鳴るたびに肩は跳ねた。けれど、そのたびに彼の腕が背を支えてくれた。


「……怖かったです」

「うん」


言っても、叱られなかった。

息が整うまで待ってから、オスカーは私を長椅子へ移して毛布を掛けた。呼ばれた侍女が灯りと温かい飲み物を運んでくる。

その間に彼も濡れた上着を替えてきた。


「港は……大丈夫なのですか」

「ああ。避難は済んだ。お前が用意した知らせが役に立った」


隣へ戻ってきた彼の手を、毛布の下から探した。

もう雷が怖いからだけではなかった。


「エレノア」


隣から呼ばれて、顔を上げた。

オスカーは繋いだ手を一度見て、私へ向き直った。


「俺は、お前にこの街に残ってほしい」

「……書記官として、ですか?」


私が尋ねると、オスカーは首を横に振った。

繋いだ手に力がこもる。普段は迷わず命令を出す人が、言葉を探していた。


「違う。俺の妻としてだ」


息が止まった。


「……返事は急がない。今夜、言うつもりではなかったんだ。だが、先へ延ばしているうちに、お前がここで働く間だけの縁だと思われたら困る」


彼はひとつ息をついた。


「休みの日に、次はどこへ行こうかと考えるようになった。お前に誘われた日は、朝から落ち着かなかった。……こんなことは初めてだ」


オスカーの手が、私の頬に触れる。頬に残った涙を、親指がそっと拭った。


「美味いものを一番に食わせたいのも、笑っていてほしいのも、全部お前だからだ。……役に立つから、ここに置いているんじゃない。お前が好きなんだ。だから――俺のそばにいてくれないか」


私は繋いだ手を見下ろした。

食事をくれた手。書類を一緒に確かめてくれた手。私が嫌だと言えば、そこで止まってくれる手だった。


「私も、お休みが待ち遠しかったです」


オスカーが瞬きをした。


「お好きなお店を教えてもらいたくて。甘いものを無理に召し上がるお顔も、少し、見たくて……」

「それは忘れてくれ」


困った声に、笑いが零れた。

助けてくれる人だからだけではない。この不器用な人が、私の隣で笑ってくれたら嬉しい。


「好きです、オスカー様。私も、あなたのそばにいたいです」


彼の指がぴくりと動いた。


「……それは、返事だと思っていいのか」

「はい。あなたの妻にしてください」


今度は、私から彼の胸へ飛び込んだ。

抱きとめられた拍子に毛布がずり落ちて、二人で慌てて引き上げる。肩を並べて包まり直すと、オスカーが額を寄せてきた。


「明日の朝、もう一度言ってくれ」

「何をですか?」

「今の全部」


恥ずかしくなって顔を伏せた。けれど、明日も言おうと思った。

彼にしか聞こえない声でも、ちゃんと。

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