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私が身を引けば丸く収まるのでしょう?  作者: 九葉(くずは)


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第6話

領主邸での仕事が始まって二週間。

私の生活は、これまでの人生では考えられないほど一変していた。


午前の仕事が終わる頃、オスカーが市場へ誘ってくれた。

「今日は風が弱い。歩かないか」

私が頷くと、彼はすぐに外套を取りに戻った。どうやら、ずっと頃合いを窺っていたらしい。


「エレノア、行くぞ」


領主様が自ら市場を歩く姿は珍しくないらしく、露天商の男たちや買い出しの主婦たちが、親しげに声をかけてくる。


「よう、領主様! 今日も美人な書記官さんのお散歩かい?」

「からかうな。……エレノア、足元が濡れている。こっちを歩け」


オスカーは私を露店寄りへと引き寄せ、水たまりから遠ざけてくれた。

彼の広い背中と頑丈な肩が、周囲の人波から私を守る壁のようになっている。


王都にいた頃、セディック様と歩くときはいつも大変だった。

歩幅を合わせてもらったことなど一度もなかった。「遅い」と苛立たれ、妹のマリアンヌにばかり気を配るセディック様の後ろを、ドレスの裾を踏まないように必死で小走りで追いかけていたのだ。


けれど、オスカーは違う。

彼は大柄で足も長いはずなのに、私のゆっくりとした歩幅に合わせて、驚くほど歩く速度を落としてくれていた。


「あの、オスカー様。本当に私は平気ですから……そんなに過保護にしていただかなくても」

「過保護ではない。お前は少し目を離すと、すぐに無理をして消えてしまいそうだからな」


前を歩いたまま、オスカーが低く呟いた。

その言葉の奥にある響きに、胸がちくりと痛む。

(そんなふうに、見えていたのね)


「今日は、ちゃんと朝ご飯を食べました」

「知っている。俺もいた」


振り向いた彼と目が合って、少しだけ笑ってしまった。


ふと、甘い匂いが鼻先を掠めた。

市場の角にある店で、窯から取り出したばかりの焼き菓子が、店先へ並べられている。甘い林檎とシナモンの香り。


「おや、お嬢さん、いい顔して見てるね! 焼きたての林檎パイはどうだい?」

店主の気さくな声に、私は慌てて視線を逸らした。


「い、いえ! 見ていただけです。結構です!」


妹が「これ食べたい!」とおねだりする横で、私はいつも「甘いものは苦手ですから」と嘘をついて我慢してきた。

自分のためにお金を使うこと、自分の欲望を口にすることへの罪悪感が、未だに抜けない。


だが、私の隣にいた長身の領主様は、立ち止まったまま動かなかった。


「……親父。それを二つくれ」

「はいよ、まいど!」


「えっ、オスカー様!? 私、本当にいりませんから……!」

「俺が食いたいんだ」


オスカーは平然と言い放ち、紙包みを受け取った。


「一つ、手伝ってくれないか」


そこまで言われれば、受け取らないわけにはいかない。差し出された包みを開くと、甘い湯気が立ち上った。

彼は自分の分を大きく齧り、それから、まだ戸惑っている私を見た。


「……美味いぞ」

「は、はい……」

「美味いものは、温かいうちに食うのが礼儀だ。冷めたら味が落ちる」


一口、齧ってみた。

サクッとした生地の中から、とろりとした甘酸っぱい林檎の果肉が広がる。

温かくて、甘くて、泣きたくなるほど美味しかった。


「……美味しい、です」

思わず、本音が口から零れた。


それを見たオスカーの、いつも険しい眉間の皺が、すうっと解けていく。

彼がふっと口元を緩め、本当に微かに、優しく笑ったのを、私は見逃さなかった。


「……そうか」


彼は大きな手のひらを私の頭の上にそっと乗せ、壊れ物に触れるように、優しく撫でた。


「お前が美味そうに笑うと、安心する」


もっと食べたい、と素直に思った。

残りもすっかり食べ終えて隣を見ると、オスカーのパイはまだ半分以上残っていた。


「……甘いものは、お好きではありませんか?」

「嫌いではない」

「お好きでもない?」


彼は返事をせず、もうひと口、律儀に齧った。


「無理をして召し上がらなくても」

「お前が欲しそうだったからな。……一つだけ買って渡しても、また遠慮するだろう」


私は口元を紙包みで隠した。林檎よりも甘いものが、胸いっぱいに広がってしまった。


「では、次はオスカー様のお好きなものを教えてください。私も一緒に食べたいです」


彼はしばらく私を見て、それから、通りの先を指した。


「あそこの、胡椒を利かせた肉の串焼き」

「今日は、もう入りませんね」

「……次だな」


次も一緒に出かける。

その約束を、帰り道で何度も思い返していた。

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