第5話
「――ふむ。信じられんな」
ヴァレンティン領主邸、執務室。
黒檀の大きな机を挟んで、領主オスカーが分厚い帳簿から顔を上げた。帳簿と私を交互に見て、もう一度、指で数字を辿った。
「港湾の荷揚税と、倉庫の賃貸料か。……先月から合わなかった差額が、ここにあったのか」
「……お役に立てたでしょうか」
私が恐る恐る尋ねると、オスカーは大きく息を吐き出し、革張りの背もたれに身体を預けた。
あの日、港の広場で魚のサンドイッチとスープをご馳走になった後、私は宿の女将さんを通じて、領主邸で臨時の代筆や計算係を募集していることを知った。
翌日、宿の仕入れ代を足すのに困っていた女将さんを手伝ったのがきっかけだった。同じ代金が二度書かれていることに気づくと、彼女は帳面を抱えて何度も礼を言ってくれた。
「計算のできる人を探しているんだよ。あんた、行ってみるかい?」
採用の手続きには身分証が必要だった。オスカーと家令には本名を明かし、家を出たこと、戻るつもりはないことを伝えた。
彼は理由を問い詰めず、「実家にはこちらから知らせない」とだけ約束してくれた。
まさか領主様本人が仕事を見てくださるとは思わず、今朝も入口で立ちすくんでしまったけれど。
「十分だ。入金漏れだと思って、商人に問い合わせるところだった。……実家でも、こういう仕事を?」
「はい。……実家で毎日のように処理させられていた量に比べれば、このくらいは」
実家では、父の領地の収支と、セディック様に押しつけられた私的な支払いまで扱っていた。必要な領収書を探すだけで半日潰れることもあった。
ここには、元の伝票が揃っている。
「倉庫料の一部が、荷揚税の欄に入っていました。こちらの控えと照らせば、確かめられます」
「……これか」
オスカーは私が示した二枚を重ね、納得したように頷いた。
「……これ以上を、毎日か」
オスカーの声が、急激に低くなった。
見ると、彼は眉間に深い皺を寄せ、ひどく険しい顔で私の顔を見つめている。
(あ……また、怒らせてしまったかしら)
「で、出しゃばった真似をして申し訳ありませんでした! 勝手に過去の台帳まで引っ張り出して……領主様のやり方に口を挟むつもりはなかったのです。ただ、少しでも早く片付けば、皆様のご負担が減るかと……!」
私が反射的に立ち上がり、深々と頭を下げた瞬間。
トン、と。
机の上に、温かい紅茶の入ったカップが置かれた。
「……誰が出しゃばりだと言った」
顔を上げると、オスカーが仏頂面のまま、私を見下ろしていた。
その大きな手が、私の頭のすぐ横の机につかれている。
「俺は、お前の仕事を褒めたんだ。……ただ、少し根を詰めすぎだ」
「え……?」
「その顔色を見ろ。まだ唇が青い。手も微かに震えているじゃないか」
言われて初めて、自分の指先が冷え切っていることに気づいた。
集中しすぎて、空腹も疲労も忘れていたのだ。
「座れ」
「ですが、まだ午後の分の伝票が……」
「座れと言っている」
太い腕で肩を軽く押され、私は引き戻されるように椅子に腰を下ろした。
オスカーはため息をつきながら、紅茶のカップを私の目の前へ押しやった。立ち上る湯気から、蜂蜜と柑橘の甘い香りがふわりと漂う。
「今日はおしまいだ。伝票は明日やればいい」
「そんな、まだ日は高いですし、お給金をいただく以上は働かないと……!」
「お前は、少しでも役に立たないと自分がここにいてはいけないとでも思っているのか?」
射抜くような言葉に、私は息を詰まらせた。
(……図星、だわ)
役に立たなければ、妹のように愛嬌を振りまけなければ、我慢しなければ、価値がない。
「頑丈で有能なこと」だけが、私が実家で息を吸うことを許されていた唯一の理由だったから。
私の強張った指先を、オスカーの大きな手が、上からそっと覆った。
熱が、じんわりと冷えた肌に伝わってくる。
「いいか。ここでは、病気にならなければ休めないなんてことはない。無理をして役に立とうとしなくていい」
オスカーは視線を逸らし、ぶっきらぼうに続けた。
「まずは体を戻せ。今日は半日分の仕事を頼んだ。給金も約束どおり払う。……俺のほうが約束を破ったことになるだろうが」
私は湯気の立つカップを両手で包み、小さく頷いた。
それから、もうひとつ仕事の話をした。
臨時の計算係として数日働き、互いに不都合がなければ書記官として雇ってもらう。住まいは宿のままでも、領主邸の職員用の部屋でもよいという。
「……部屋代も、教えていただけますか」
遠慮がちに尋ねると、オスカーは家令を呼び、給金と部屋代、食費を紙に書かせてくれた。
それを見てから、領主邸へ移ると決めた。
紅茶を半分ほど飲んだ頃、隣から小さな音がした。
オスカーの腹だった。
「……俺も、昼を忘れていた」
さっきまであんなに私を叱っていたのに。
笑ってはいけないと思うほど、口元が緩んでしまう。
彼は困ったように頭を掻き、扉へ向かった。
「一緒に食うか」
「はい。……今度は、オスカー様も」




