第4話
エレノアが姿を消した翌朝、クロムウェル伯爵邸の朝食会は、どこか浮かれた空気に包まれていた。
「ふふ、お姉様ったら、あんなに強がって出ていくなんて」
レースを贅沢にあしらったネグリジェ姿のマリアンヌが、トーストに蜂蜜をたっぷりと塗りながらくすくすと笑う。
その向かいには、昨夜から泊まり込んでいたセディックが、優雅に紅茶のカップを傾けていた。
「どうせ今頃、王都の安宿で泣きながら後悔しているさ。あの女は頑固でプライドが高いからな。数日頭を冷やさせれば、青い顔をして『私が間違っていました』と縋り付いてくるに決まっている」
「ええ、そうですわね。その時は、優しく許してあげましょう。お姉様には、私の結婚式の準備を裏で手伝っていただかなくてはなりませんもの」
伯爵も満足そうにパイプを燻らせていた。
「うむ。エレノアも少し灸を据えられれば、己の立場を弁えるだろう。マリアンヌ、お前は身体を大事にしていればいい。婚約の変更と継承権の放棄は、今朝、貴族院へ届けさせた。残りの実務など、適当に片付けておけば済む話だ」
伯爵は、食卓の端に置かれた決裁書類を見もしなかった。
いつもなら、朝食が終わる頃にエレノアが来る。戻ればまとめて説明させればいい。
三時間後、その束を抱えた老執事が執務室へ駆け込んできた。
「だ、旦那様! 本日正午までの銀行の書類ですが……!」
老執事は書類と一緒に、小さく畳まれた紙を差し出した。
「なんだ、騒々しい。エレノアからの詫び状か?」
伯爵が不機嫌そうに眉を寄せると、執事は首を激しく横に振った。
「い、いえ……! お嬢様がお部屋にもいらっしゃいません。旅用の鞄がなく、机にはこちらの置手紙が……!」
紙をひったくった伯爵が、乱暴に広げる。
それは上質な便箋でもない、ただのメモ用紙だった。
そこには、流麗で見慣れたエレノアの筆跡で、短く記されていた。
『引き継ぎ書はありません。すべての業務と権限は、優秀な皆様にお譲りいたします』
「な……っ!?」
伯爵の手が震えた。
「ど、どういうことだ!? 今週決済予定だった、王立銀行への融資延長申請書はどこだ!? 領民からの減税嘆願の取りまとめは!? 来月の社交界の予算配分はどこにある!?」
老執事は、震える指で束の一番上を示した。
「申請書はこちらです。お嬢様が先週から、ご決裁をお願いしていた……」
「なら、それを出せばいいだろう!」
「追加の担保をお決めいただかないと、銀行が受け付けないそうです」
伯爵は紙を引き寄せた。欄外には、候補となる所有地と収益が、エレノアの細い字で書き添えてある。
だが、どの土地を手放してよく、どれを残すべきなのか、伯爵にはわからなかった。
「帳簿は! 帳簿を持ってこい!」
書架から運ばれた帳簿を開く。日付も収支もきちんと記されている。
それでも、読み比べるだけで額に汗が浮いた。
いつもなら、エレノアが要点を説明した。伯爵が話を聞かずに追い払えば、期限前にもう一度やってきた。銀行へ出向いて猶予を願い出るのも、彼女だった。
書類は残っている。だが、父親の気が向くまで、何度でも頭を下げにくる娘はいなかった。
そこへ、廊下から血相を変えたセディックが駆け込んできた。
「伯爵! どうなっているんですか!?」
「セディック殿……?」
「先ほど、我が侯爵家の財務官から早馬が来ました! 『本日中に、伯爵家への貸付の返済計画を確定せよ』と! 父からの厳命です! エレノアが案を作っていたはずだ!」
「そ、そんなものは知らん! 金のことならすべてエレノアに任せてあったのだ!」
「任せてあったって……貴方は実の娘の仕事すら把握していなかったのですか!?」
老執事が、束の中からもう一枚抜き出した。
「こちらも、セディック様のご確認をお待ちしていたものですが……」
セディックは口を閉じた。昨夜の話し合いの前に、エレノアが持ってきた紙だった。金の話など後にしろ、と追い返したことを思い出す。
昨日まで「エレノアなど頑丈なだけで代わりはいくらでもいる」と嘲笑い合っていた二人が、互いに唾を飛ばして罵り合い始める。
騒ぎを聞きつけたマリアンヌが、おろおろと執務室に顔を出した。
「あ、あの……皆様、どうなさったの? 大きな声を出すと、私の胸が……」
いつもならセディックが血相を変えて抱きとめるはずだった。
だが今のセディックの目は、怒りと焦燥で血走っていた。
「マリアンヌ! お前も「お姉様がいなくても平気だ」と言ったな!? だったら今すぐこの返済計画を読んで、どこを直せばいいか説明しろ!」
書類の束を顔の前に突きつけられ、マリアンヌは息を呑んだ。
「え……? で、でも、私、数字の並んだ難しい書類なんて読めませんわ……。セディック様、そんな怖い顔をしないで……」
ポロポロと涙をこぼすマリアンヌ。
普段なら「なんて可憐で守ってあげたい女なんだ」と映ったその涙が、今のセディックにはただの役立たずの甘えにしか見えなかった。
セディックは舌打ちをし、吐き捨てるように言った。
「……泣いて済むなら、誰でも苦労はしない! おい、すぐに使いを出せ! 宿屋を探せ、馬車の御者にも聞け! エレノアを連れ戻すんだ!!」
伯爵は目の前の書類を押しやった。
セディックも、ペンを取ろうとはしなかった。
誰が捜しに行くかで揉めているうちに、正午を告げる鐘が鳴った。




