第3話
目が覚めたのは、翌日の昼過ぎだった。
全身が鉛のように重い。空腹を通り越して、胃のあたりが引き攣るように痛んでいた。
「……何か、お腹に入れないと」
顔を洗い、ボサボサになった髪を簡単に一つに結んで階下へ降りた。
昼の混雑はとうに過ぎており、食堂には誰もいなかった。女将さんが厨房の奥で魚を捌いている音がする。
「あの、女将さん……」
「おや、起きたかい。えらい顔色だよ、あんた。昨日の夜も飯を食わずに倒れるように寝てたからね。今、残り物でよければ温め直してやるよ」
「ありがとうございます。表のベンチでお待ちしていてもいいですか。少し風に当たりたくて」
「いいよ。できたら呼ぶから、遠くへ行くんじゃないよ」
宿のすぐ前にあるベンチへ向かった。
入口の段差を降りたあたりで、足元がふわふわし始めた。
港の広場は、昼の活気で溢れていた。水揚げされたばかりの魚を威勢のいい声で売り捌く男たち、籠いっぱいに野菜を並べる露天商。
王都の貴族街にはない、生々しい生命の熱気。
冷たい海風を肺いっぱいに吸い込もうとした瞬間、激しい立ち眩みが視界を真っ暗に染めた。
(あ……まずい)
壁に手をつこうとしたが、指先が空を切った。
膝の力が抜け、石畳が急速に迫ってくる――。
ガシッ、と。
強い力で、右腕を抱え上げられた。
地面に激突する寸前、厚い革の手袋越しに、鉄のような硬い腕が私の身体を抱きとめていた。
「おい。大丈夫か」
低く、地響きのような掠れた声。
顔を上げると、影が差していた。
背の高い男だった。仕立ての良い黒い騎士服の上に、潮風で色褪せた頑丈な外套を羽織っている。
黒髪は短く刈り込まれ、頬には浅い古傷。何より、射抜くような鋭い金色の瞳が、酷く険しい光を宿して私を見下ろしていた。
その圧倒的な威圧感に、私は反射的に身を竦めた。
怒られる、と思った。
「邪魔だ」「だらしない」「みっともない真似をするな」――実家で父やセディック様に言われ続けた言葉が、頭を過る。
「も、申し訳ございません……! すぐに、どきますので……!」
私は必死に謝罪の言葉を紡ぎ、男の腕から逃れようと身を引いた。
しかし、男の太い指は私の腕を離さなかった。それどころか、骨の形が浮き出た私の手首を、痛ましそうにじっと見つめている。
男は私をベンチに座らせ、背が壁に預けられるのを確かめてから、手を離した。
そして、すぐ隣にあった露店へ大股で歩いていく。
「親父。それと、それを出せ」
「へい、領主様! まいど!」
領主様?
混乱する私の前に、男が戻ってきた。
片手に、湯気を立てる焼き魚のサンドイッチを持っている。露店の親父さんが、貝のスープと匙を載せた盆を持って続いていた。
「持てるか」
頷くと、男は私の膝へ盆を置き、スープの横に温かい包みを添えた。
「食え」
「え……?」
「腹が減って倒れかけたんだろう。まずは一口だ」
命令口調だったが、そこには怒りも侮蔑もなかった。ただ純粋な、呆れと気遣いが混ざり合った響き。
「い、いただけません! お金も払っていませんし、私のような見ず知らずの者が、領主様から施しを受けるわけには……!」
「断るな。冷める」
「ですが……!」
「代金なら払った。礼は腹に入れてからでいい」
男は眉間に深い皺を寄せ、私の膝から滑りかけた盆を押さえた。
これ以上断るのも申し訳なくて、私は温かい包みを手に取った。
手のひらに伝わる、確かな熱。香ばしい焼き魚の匂いと、磯の香りがするスープの湯気が、限界を迎えていた私の理性を揺さぶる。
「……なぜ、私などに」
思わず、喉から本音が零れ落ちていた。
「私など」に構う人間はいなかった。食事の途中でも、父に呼ばれれば席を立った。戻ると皿は下げられ、厨房に残った冷たいスープで済ませる夜も珍しくなかった。
「私より、もっとお腹を空かせた子供や……病気の方に差し上げるべきです。私は、我慢できますから」
染み付いた呪いの言葉を口にした瞬間。
男の金色の瞳が、微かに揺れた。
男は私の隣へどっかりと腰を下ろした。
「俺は他の奴の腹など聞いていない。今、目の前で倒れそうなお前に食わせたいから買ったんだ」
「っ……」
「いいから食え。お前が一番に食っていい」
お前が、一番に。
匙を握り、スープをひと口飲んだ。貝の旨味が、ひりついていた胃へ落ちていく。
もうひと口、と匙を動かしたところで、宿から女将さんが顔を出した。
「おや、領主様が先に食べさせてくださったか。よかったよ。あんた、昨日からほとんど食べてないだろう」
私は答えようとして、うまく声が出なかった。
隣の男は何も聞かず、私が盆を持つ手から力を抜くまで、端を支えていてくれた。




