第2話
夜明け前の乗合馬車に揺られること、丸三日。
貴族用の豪奢な馬車とは違い、分厚い木の板がそのまま尻に当たる粗末な席だったが、私の心は驚くほど軽かった。
ガタガタと軋む車輪の音を聞きながら、私は窓の外を流れる景色を見つめていた。
誰の機嫌を取る必要もない。
「妹が熱を出した」という呼び出しに怯えることもない。
机の上に山積みにされた、父やセディック様のサイン待ちの書類に追われることもない。
ただそれだけのことが、強張っていた胸の奥をじんわりと温めていた。
馬車が最後に停車したのは、王都から遥か南西、切り立った断崖と荒々しい波が広がる港町――ヴァレンティン領の玄関口だった。
乗降口から地面に降り立った瞬間、冷たく湿った海風が頬を打った。
潮の香りが鼻腔をくすぐる。
王都の煤煙と香水の匂いに慣れていた肺に、粗削りな潮風が染み渡っていく。
「……海」
生まれて初めて見る、本物の海だった。
クロムウェル家では、「遠出はマリアンヌの身体に毒だから」という理由で、領外への旅行など一度も許されなかった。
こんなに広くて、青くて、荒々しいものが、この世にあったのだ。
私はトランクを持ち直し、港の広場へと歩き出した。
まずは寝床を確保しなければならない。
へそくりはあるが、贅沢はできない。港の片隅にある、塩風で看板の文字がかすれた木造の宿屋を見つけ、扉を押し開けた。
「いらっしゃい……おや、見かけない顔だね」
カウンターから顔を出したのは、腕まくりをした恰幅のいい女将さんだった。私の質素な平服と、それでも隠しきれない立ち居振る舞いを見て、何か事情があるのだと察したらしい。深く詮索するような目ではなかった。
「一週間ほど、部屋をお借りしたいのですが。食事付きで一番お安い部屋は空いていますか?」
「屋根裏の部屋なら一室空いてるよ。前金で銀貨五枚だ。朝と晩に階下で飯を出すけど、高級なものは出ないよ。魚と芋ばっかりだ」
「十分です。ありがとうございます」
前金を支払って鍵を受け取り、きしむ細い階段を上がって屋根裏部屋へ入る。
小さなベッドと、がたつく丸テーブル。壁には小さな丸窓が一つ。
けれど、窓からは青い海が一望できた。
どっと、身体の芯から重い疲労が押し寄せてきた。
道中は物音のたびに目が覚め、固いパンと水ばかりで済ませてきたのだ。
ベッドの上に腰を下ろし、擦り切れた靴を脱ぐ。
静かだった。
屋敷にいた頃は、常に誰かの足音や怒鳴り声、妹の甘えた声に神経を尖らせていた。
それが何もない。
階下から、魚を焼く香ばしい匂いと、港の男たちの粗野な笑い声が微かに聞こえてくる。
私はテーブルの上に置かれていた素焼きの水差しから、木製のコップに水を注ぎ、一気に飲み干した。
ただの冷たい井戸水が、これまでの人生で飲んだどの高級ワインよりも美味しかった。
「……自由、なんだわ」
ぽつりと、声に出してみた。
涙は出なかった。代わりに、喉の奥からくすりと笑いが漏れた。
今頃、あの屋敷はどうなっているだろうか。
出てきてから、もう三日。私がいないことには、とっくに気づいているはずだ。
帳簿も書類も、屋敷に残してきた。
けれど、どの陳情を急ぎ、どの支払いを父に催促し、誰に頭を下げれば期限を延ばしてもらえるか。そうしたことまで、代わりに考えてあげる人はいない。
父は以前から言っていた。
「お前の仕事など、書類を揃えるだけだろう」
ならば、ご自分でもできるはずだ。
「どうぞ、頑張ってくださいね」
私はベッドに倒れ込み、ごわごわした麻のシーツを頭から被った。
階下の笑い声が遠のいていく。
私を呼びつける声のない部屋で、そのまま深い眠りに落ちた。




