予期せぬ来訪者①
極上の霜降り肉を使った山鳥のすき焼き、口の中でとろけるような温泉卵、そして香り高い果実水。
初めての豪勢な料理にリリアの小さな口は休む暇もなく動き続け、ブレイドもまた前世と今生を含めても片手に入るであろう至福の夕食を堪能した。
ふかふかの羽根布団で朝まで泥のように眠り、翌朝にもう一度温泉に浸かる。
すべてが完璧だった。
人間が用意した享楽の限りを尽くし、最高に整った気分でブレイドとリリアは宿を後にした。
――はずだった。
「わあー、あさのお外もきれいだね! ブレイド、次はおにくの串焼き買いにいこ!」
「朝から串焼きか。まあいい、今日は機嫌がいいからな。特別に……」
老舗宿の荘厳な門構えを潜り抜け、石畳の道を歩き出した直後。
ブレイドの言葉は、道の先を塞ぐ『異物』によって途切れた。
先ほどまでの緩みきった空気が、一瞬にして張り詰める。
朝陽に照らされた路地に、銀色の装甲がぎらりと不穏な光を放っていた。
十数名。
全員が王国の紋章を刻んだ完全武装の騎士たちだ。
彼らは道を塞ぐように横一列に並び、微動だにせずこちらを見据えている。
温泉街の緩い空気に似つかわしくない、血生臭い殺気と焦燥感がその立ち姿から滲み出ていた。
「……チッ」
ブレイドの喉の奥から、無意識に鋭い舌打ちが漏れる。
本能的な危機感知。
彼は即座に歩みを止め、フードを深く被ったリリアの肩を掴むと、自分の大きな背中の後ろへと隠した。
「ブレイド……? どうしたの? あのピカピカの人たち、だれ?」
「しっ。リリアは絶対に声を出さず、俺の背中から離れるな」
「う、うん……」
ブレイドのただならぬ声の低さに、リリアも事態を察して小さな手で男の外套を強く握りしめる。
ブレイドの右手は、すでに腰の聖剣の柄にかかっていた。
いつでも抜刀できる体勢。
もしこの場にいる騎士たちがリリアの正体を知り、始末するために来たというのなら、周囲の街ごと消し飛ばす覚悟がある。
だが、緊迫する空気の中、騎士たちの列が静かに割れた。
中から一人の人物が進み出てくる。
兜を脇に抱え、豪奢な鎧を身に纏った長身の女性。
泥と血に汚れた鎧の隙間から覗くのは、数日前に森の小屋で見たばかりの美貌だ。
「……またお前か」
ブレイドの視線が絶対零度に冷え込む。
前に進み出たのは、王国の近衛騎士団長であるセシリアだった。
「ブレイド様……」
セシリアはブレイドの数歩手前で立ち止まると、その場にがちゃりと音を立てて跪いた。
そして、泥のついた石畳に額をこすりつけるような深い平伏を見せる。
「ご無礼を承知の上で、お許しください。あの後、あなたから拒絶された私は……絶望の中であなたの後を追うことしかできませんでした」
「……俺を尾行していたと?」
「そうです。王都へ帰還するよう見せかけ、隠密の魔法を使ってあなたの気配を追いました。あなたがこの街へ向かうと知り、先行して部下を呼び寄せ、ここで待ち伏せしていたのです」
悪びれる様子もなく堂々と告げるセシリアに、ブレイドはギリッと奥歯を鳴らした。
(温泉気分で完全に気が緩んでいたとはいえ、気配に気づけなかったとはな……! 俺も随分と平和ボケしたもんだ)
自己嫌悪と苛立ちが胸の奥で渦巻く。
「ストーカーの次は待ち伏せか。随分と騎士団長殿も暇なもんだな。王都が火の海だと言っていたのは嘘か?」
「嘘ではありません! 王都は今この瞬間にも魔物の群れに蹂躙されようとしています。すでに外壁の三割が崩落し、第一防衛線は突破されました! 残された時間は……もう数日しかありません!」
セシリアが顔を上げ、悲痛な叫びを上げる。
その瞳は充血し、目の下には深い隈ができている。
ここ数日、まともな睡眠すら取らずに追いかけてきたのだろう。
常軌を逸した執念だ。
「だからなんだ。俺の答えは変わらん。あの時も言ったはずだ、二度と俺の視界に入るなとな」
ブレイドの声は冷徹で、一ミリの同情も混ざっていなかった。
聖剣の柄を握る手に微かな力がこもる。
威嚇だ。
「さっさと道を開けろ。それ以上俺の前に立ち塞がるなら、その首を刎ねる」
「お待ちください!!」
セシリアが悲鳴のように遮る。
後ろに控えていた騎士たちが主を守ろうと武器に手をかけかけたが、セシリアは鋭い手振りでそれを制した。
「ブレイド様! どうか、どうか今一度お考え直しください! あなたのお力が必要なのです!」
「しつこいぞ」
「民が! 無辜の民が死んでいくのです! かつて世界を救ったあなたのその剣は、弱き者を守るためのものではなかったのですか!?」
セシリアの言葉が、朝の静寂な街に響き渡る。
正論。
勇者と呼ばれる者ならば、決して目を背けてはならない大義。
だが、ブレイドにとってそれらの言葉は、過去の古傷を塩で擦るような呪いにしか聞こえなかった。
「……弱き者を守る、ね」
ブレイドは低く、嘲るように笑った。
「その弱き者たちを守った結果、俺に毒を盛り、切り捨てようとしたのはどこの誰だ? 俺に勇者の肩書きを押し付け、散々利用した挙句、平和になったら不要なゴミとして捨てたのはお前たち人間だろうが」
「そ、それは……!」
「俺が命を懸けて守る価値のある人間なんて、この世界には一人もいない。お前らが自業自得で滅びようと、知ったことか」
ブレイドの言葉は氷の刃のように冷たく、セシリアの心を切り裂いていく。
正義も、義務も、かつての英雄の中には微塵も残っていない。
背後に隠したリリアだけが、彼にとって守るべき世界の全てだった。
「……退け」
ブレイドが静かに宣告する。
これ以上問答する気はないという明確な意思表示だ。
だが、セシリアは動かなかった。
石畳に膝をついたまま、震える手で剣の柄を握りしめ、必死にブレイドを見上げている。
「退きません。……王都が滅びれば、その被害はここルデンや他の街にも必ず及びます。あなたがいくら隠居を望もうと、世界が滅びれば安息の地などなくなります!」
「なら、魔物が来る前に別の場所へ移るだけだ。俺と『この子』さえ無事なら、それでいい」
ブレイドの言葉の裏にある「この子」という存在に、セシリアの視線が一瞬だけブレイドの背後へと向けられる。
フードで顔を隠した小さな子供。
だが、今のセシリアに他人の素性を気にする余裕はなかった。
ただただ、目の前の最強の存在を動かすことだけが、彼女に課せられた使命なのだ。
「ブレイド様……! 何をご所望ですか! 金ですか! 地位ですか! 先日も申し上げた通り、私の命も身体も全てあなたに捧げます! だから……どうか……っ!」
「いい加減にしろ!」
ブレイドの怒声が轟いた。
ビリビリと空気が震え、騎士たちが恐怖に後ずさる。
圧倒的な魔力が漏れ出し、周囲の温度が一気に下がるのを感じた。
「安っぽい取引を持ちかけるな。俺はお前たちの都合の良い道具じゃない。……これが最後の警告だ。道を開けろ。次はない」
聖剣が、チャキリとわずかに鞘から抜かれる。
その隙間から漏れる白銀の光が、セシリアの顔を青白く照らした。
これ以上食い下がれば、本当に殺される。
本能が警鐘を鳴らす。
だが、王都の騎士団長であるセシリアは、絶望の淵に立たされてもなお、一歩も引くことはなかった。




