16-1心が動くとき
ミーナと別れてから、ギルバートは自室の机に額を付けたまま椅子に座り、長い間無の感情でいた。
「なんだ、いるんじゃん」
部屋に入ってきたユーリが、硬直するギルバートの背中を見てそう呟いた。
「部屋暗い…、レーガもいないし…。ねえ、教えてほしいところがあるんだけど」
ユーリはギルバートの肩を揺らした。ギルバートは固まったまま、今は不可能だ…、と意気消沈していることが分かる声色で言った。
ユーリは面倒くさそうに口をとがらせた後、ねえ、とまた肩を揺らした。
「ここ、テスト範囲のここ!これ!」
ユーリは教科書を開いてギルバートに押し付ける。しかしギルバートは微動だにしない。ユーリは面倒くさそうにため息をついた。
「…ねえ、いつもみたいに、ねえさまとの些細なことで悩んでないでくれる?僕早く勉強したいんだけど」
「……全く些細じゃない……」
ギルバートのいつにない様子に、流石にユーリも少し意外そうな顔をする。そして、…何?と渋々尋ねた。
「何かあったの?」
「…俺はもう駄目だ…。人間として最低だ……」
「ねえ、だからなに?」
ユーリがまたギルバートの肩を揺らす。ギルバートは硬直したまましばらく黙り込んだ後、苦しそうに息を吐いた。
「俺は…ミーナに無理矢理……」
「むり…無理矢理?!何?!」
「婚前交渉を…」
「こっ…」
ユーリは手で口を押さえて、ぎょっとした顔でギルバートを見つめた。そして、震える手で分厚い教科書を両手で持つと、自分の頭上まで持ち上げて、その角をギルバートに向けた。
ギルバートはゆっくり視線をユーリに移す。生気を失った瞳で、自分に敵意を向けるユーリを受け入れるように見据える。
「俺は最低だ…。自分がここまで見下げた存在だとは思いもしなかった…」
ギルバートはそう、かすれた声で自虐的に言う。ユーリは歯を食いしばり、ギルバートを見下ろす。これまで世話になった温情から、振り上げた手に迷いが出る。ギルバートは重いため息をつく。
「泣いている彼女に付け込んで、…キスをしてしまうなんて……」
「……キス?」
ユーリは拍子抜けた声を漏らす。ギルバートは、過去を悔やむように眉をひそめる。
「俺は最低だ…俺は…」
「…待って、婚前交渉…って、キスだけ?キスをしただけ?」
「゛だけ゛とはなんだ!俺たちはまだ結婚していないのに!」
「…それくらい婚約者同士なら普通にするでしょ……」
ユーリは脱力しながら、教科書を持ち上げた手を下ろして、ソファーに座り込んだ。ギルバートは頭を上げると、ユーリの方を驚愕した顔で見た。
「ユーリ…!いつの間にそんなふしだらな思想に染まったんだ…!」
「…そもそも婚前交渉の意味が…、でも、うーん、そっか…無理矢理か…」
ユーリはそう言って考え直すと立ち上がり、手に持った教科書でギルバートの額を軽くぶった。ギルバートは、いたっ!と小さく声を上げた後、額に手を当ててユーリを見上げた。ユーリは眉をひそめて、ギルバートを睨みつけた。
「無理矢理なんてサイテー。ねえさまに嫌われちゃえ」
ユーリはそう言い放つと、さっと部屋から出ていった。ギルバートはその背中を見送った後、また自省するように深いため息をついた。
翌日、ギルバートは重い足取りで教室に向かった。ミーナに対する罪悪感と、自分に対する失望感でどんよりとした気持ちで、ギルバートは授業の準備を進める。
「おっ、さすがの首席様も、今回のテストは難しそうか?周りも阿鼻叫喚だしな!」
ジェームズがそう軽快に話しかけてきた。ギルバートは、…おはよう、と暗いトーンで返す。
「なんだあ?いつも鼻につくくらい何でもない顔でテスト期間を乗り越えるくせに」
「…テスト…ああそうか、もうそんな時期だったな…」
「…本当に大丈夫か?」
ギルバートの様子に、流石のジェームズも真顔になる。ギルバートはげっそりした様子で、何でもない…、と返した。これ以上触れるのはマズイと察したらしいジェームズは、黙って前を向いて座り直した。
昼休み、ギルバートは昼食を取る気にもなれず、中庭に向かった。そして、ベンチに座ってぼんやりと座っていた。
昨日、ミーナにキスをしてしまった後、ギルバートは彼女から咄嗟に手を離した。呆然と自分を見つめるミーナに、ギルバートはどうしていいかわからず、…宿舎まで送るから、とだけ言って、歩き出してしまった。その後はお互い黙り込んだまま、宿舎までの道を歩いたのだ。
「(…いや、゛送るから゛じゃない…!そうじゃない俺…!)」
ギルバートは頭を抱えて過呼吸になる。ゼイゼイと息をしながら、額に汗をにじませた。
すると、誰かが自分の前に立っていることに気がついた。顔を上げると、そこにはミーナがいた。
「みっ…!」
ギルバートは咄嗟に立ち上がった。ミーナは突然のことに驚いたのか目を丸くして、一歩後ずさった。お互いの視線が合わさり、一瞬時が止まったような錯覚が起こる。2人はしばらく黙ったまま見つめ合ったあと、同じタイミングではっとしたのか、同時に目を伏せた。
「(…昨日俺は、彼女とキスをしたのか…)」
そんなことを今思い出してギルバートは頬の内側から熱が発生するのを感じる。
しばらくの沈黙の後、あの…、とミーナが口を開いた。
「具合が、悪いのかなって…、その、頭を抱えてたから…」
ミーナはちらりとこちらを見ながら少し話しにくそうに言った。ギルバートは、いや…、と口ごもる。
「その…、君を、不快にさせなかっただろうかと、…考えていて…」
「え?」
「昨日俺は、同意を得ずに君に、しかもあろうことか婚前に、…」
ギルバートはそう、尻すぼみになりながら切り出した。ミーナは一瞬きょとんとした後、すぐに意味が分かったのか、頬をさらに赤くした。目を泳がせて動揺した様子を見せたあと、そんなことないよ、と頭を振った。
「ふ、不快になんか、なってないよ」
「えっ」
ギルバートは目を丸くしてミーナを見た。ミーナはギルバートの方を見られないのか目を伏せている。
「(…よ…よかった……)」
ギルバートは、彼女に嫌がられていなかったことにとりあえず深く安堵した。昨日ずっと考え込んでいたことが少し解決したように、心が晴れていく。
ミーナは、何かを言おうと口を開いて、そして閉じた。丸い瞳を伏せておろおろと泳がせている。そんな彼女に、ギルバートは、もう以前までとは二人の関係は明らかに変わってしまったのだと察する。自分の気持ちがとうとう彼女に伝わった昨日、ただの幼馴染からもうすぐ結婚する2人へと変わったのだと。
冬の訪れを告げる冷たい風が、ミーナの癖のある髪を揺らす。長い髪が、赤い頬の上を、丸い目の上を踊る。
「…可愛い」
気がつけばそんなことを、ギルバートは口に出していた。ミーナは、え?と予想外の言葉に目を丸くする。
「いやっ…」
ギルバートは咄嗟に口を片手で押さえた。これまで散々胸の奥に秘めていた言葉が、ここぞとばかりに漏れ出してしまった。
しかしギルバートはすぐに、まっすぐにミーナの目を見つめた。そして、一歩彼女の前に歩み寄る。
「可愛い…、可愛い!」
ミーナは、連呼するギルバートを呆然と見つめた後、はっとして、わ、わかったから…!と彼の口を両手で押さえた。ギルバートは彼女の手首をつかんで自分の口から離すと、真剣な目で見つめた。
「本当に伝わっているか?俺は君のことをかわ、」
「わ、わかってます、伝わってます!だから勘弁してください…!」
耳まで赤く染めたミーナが必死にそう懇願する。ギルバートは、沸騰しそうなほど赤い彼女に、仕方なく言葉を止めた。
それ以来、ギルバートはミーナに対して事あるごとに、好きだ、や、可愛い、という言葉を伝えるようになった。
ある時はアイリーンといるとき、ガーベラがいるとき、レーガがいるとき、ユーリがいるとき、もちろん二人きりのときも、ギルバートはミーナに真面目に伝えた。そのたびにミーナは恥ずかしがって、困惑していたけれど、ギルバートはまた伝わっていないと困るため、構わずに言い続けた。
これまでひた隠しにしていた、彼女に対する可愛いという気持ちも、好きだという気持ちと同じで、言ってしまえばいくらでも言えた。
こんなことなら、昔ジャックにいじめられていた時に、彼から言われた傷つける言葉に被せるように、好きだと、可愛いのだと伝えていればよかったと、ギルバートは後悔する。
初めてキスをしたあの日、自分のことを醜い豚だと、過去に何度もからかわれているときに言われていた言葉を繰り返していた彼女を思い出せば、彼女がそんな誤解をする前に、自分がきちんと伝えていればよかったと、そうギルバートは悔やんだ。
放課後、ギルバートは中庭で一人勉強をするミーナを見つけた。ギルバートはミーナの隣に腰掛けた。ミーナはギルバートに気がつくと、あっ、と声を漏らした後、なんとも恥ずかしそうに目を伏せた。
「…ギルバート、自分の勉強はいいの?」
「人に教えることも勉強になるから」
ギルバートはそう言ってミーナに更に近づいて、肩が触れるほどの距離に来た。ミーナは少し驚いたように肩を震わせたあと、ギルバートの方をおずおずと見上げた。
「…ねえギルバート、どうしちゃったの?最近なんか変だよ?」
「…不快なら離れる」
「そ、そんなことは言ってないけど…」
ミーナはそう口籠る。そんなミーナを見つめて、ギルバートは口元を緩める。
「可愛い」
「えっ!」
「可愛いの度合いが過ぎている」
ギルバートはそう言うと目を細める。ミーナは顔を赤くしたまま怪訝そうに眉をひそめて、教科書で口元を隠した。
「…ねえ、本当にどうしちゃったの?…いや、どうかしちゃったの?」
「昔から頭では考えていたことを、実際に口にするようになっただけだ」
「…」
ミーナは驚きから目を丸くする。ミーナは目を伏せてギルバートから視線をそらすと、にしたって振り幅が…、とぶつぶつ文句を言う。ギルバートはそんなミーナに小さく笑う。
「なんだよ、迷惑そうだな」
はは、と笑うギルバートを、ミーナはきっと睨みつけて、迷惑だよ!とはっきり言った。ギルバートはその言葉にショックを受けて、えっ?と声を漏らす。そんなギルバートに、ミーナはさらに眉をひそめる。
「えっ、じゃないよ!恥ずかしいよ普通に考えて!!人のたくさんいる前で堂々とあんなこと!!」
「なっ…」
ギルバートは動揺しながら、わ、悪かったよ…、と少ししょげながら前を向いた。ミーナは、そんなギルバートを黙ってじっと見つめる。
「…でも、ありがとう」
ミーナはそう言うと、ギルバートの肩に頭を軽くもたれかけた。ギルバートは目を丸くしてミーナの方を見た。
「あなたがそう言ってくれるから、こんな自分でも良かったんだって、そう思えたから」
ミーナはそう言って、ギルバートから体を離した。すると、すかさずギルバートがミーナを抱きしめた。
「俺は君がいい。何も変わってくれなくていい。ずっと前から、そのままの君が好きなんだ」
ギルバートはそうミーナに告げる。ミーナは、…うん、と震える声で頷いた。




