14-1大切なこと
アイリーンとレーガと別れて、ミーナは宿舎に戻った。
自室のベッドの上で、ミーナは黙って寝転がっていた。
すると、女子寮の管理人から、あなたに面会者がきた、と呼ばれた。誰だろうと思いながら宿舎の外に出たら、ユーリがいた。
「ユーリ…」
「ねえさま、ひどい顔」
ユーリはそう言うと、ミーナの頬を両手で包んだ。ミーナはユーリの優しい瞳が見つめられずに目をそらした。ユーリはそんなミーナを心配そうに見つめると、小さく微笑んだ。
「…実は僕、さっきジャックがギルバートに話しに来たところに居合わせてたんです。だから、話はだいたいわかってます」
「…ユーリ…」
「僕が明日にでもジャックに話をつけてきます。ねえさまは安心してください。日曜日、ねえさまはあんな男と出かけなくてもいい」
ユーリの言葉に、ミーナは目を丸くする。そして、目の前にいる華奢で、そして優しそうで可愛らしい顔立ちの弟を見つめる。幼い子供のようにつぶらな瞳が眩しいユーリはあまりにも頼りなくて、ミーナはさーっと顔を青ざめさせた。
「…だめ、だめだめだめ!だめよ!そんなの危ない!」
「…ねえさま」
「たたでさえあなたは下級生なのに、こんなに優しそうで可愛らしい子が、あんな怖い人のところに行ったら危ないわ。ジャックから何か危険なことをされたらどうするの?」
ミーナは、子羊のように愛らしいユーリが、あの邪悪で悪魔のようなジャックのところへ行くところを想像して、不安から失神しそうになる。ジャックに言い負かされて彼が泣かされないだろうか。手をあげられて怪我でもさせられたらどうしたらいいのか。ミーナは考えれば考えるほど不安になる。
そんなミーナに、やだなねえさま、とユーリは微笑む。
「僕、腕っぷしはそんなにだけど、口喧嘩なら任せてください」
「だっ、だめよ、そんな危険なことをしてはだめ!」
ミーナは頭を何度も横に振る。顔を青ざめさせて心配するミーナに、ユーリは眉を下げる。
「…信頼、してもらえませんか?」
「…え?」
「…どこまでいっても僕は、他人だから、」
「違う!家族だから、大切だから心配しているの!」
ミーナはユーリの腕をつかむと、そのまま彼を抱きしめた。体は大きくなっても、ミーナのなかではいつまでも彼は幼くて可愛い、守るべき存在の弟だった。ユーリはミーナに抱きしめられながら、ねえさま…、と呟く。
「…でもそれは、僕も同じです。大切だから心配です。あんな男とねえさまを出かけさせるわけには行かないんです」
「…ユーリ…」
「あの自称男らしい婚約者が役に立たない今、僕が言うしかありません」
「……」
ミーナはユーリを今一度抱きしめると、彼の背中を優しく撫でた。
「…ギルバートのことはね、私が悪い」
ミーナはユーリからゆっくり体を離すと、彼の目を見つめた。そして、目を伏せたまま、無理やり微笑んだ。
「…私が彼を、傷つけるようなことを言った。…彼が私を助けたくなくなるのも仕方がないの。それにそもそも、断れない私が間違っているから」
「…だとしても僕は、ギルバートがねえさまを助けるべきだったと思います」
ユーリはミーナの手首をつかんでまっすぐに彼女を見つめる。
ミーナは目を丸くして、そして、柔らかく微笑む。
「…ユーリは昔からいつも、私の味方をしてくれるね」
ミーナはそう言うと、またユーリを抱きしめた。柔らかい彼の髪を頬で感じると、ミーナは幸せになる。彼がミーナの弟になった日から今までずっと、ミーナはユーリが可愛くて、そして大好きでたまらなかった。
「ありがとう、ユーリ。でもね、私はね、あなたがジャックに危険なことをされてしまうくらいなら、このまま出かけたほうがずっといい」
「…ねえさま」
「だから約束して。絶対に何も言わないで。無茶なことをしないで。お願い」
ミーナはまっすぐにユーリを見つめた。ユーリは大きな瞳を揺らしたあと目をふせて、…はい、と少し不服そうに頷いた。ミーナは微笑むと、ならよかった、とまたユーリを抱きしめた。
ユーリと別れたあと、ミーナは部屋に戻ってまたベッドにうずくまった。
夕飯の時間も忘れて、ミーナはただ黙ってベッドにいた。
消灯の時間になり、部屋が真っ暗になっても、ミーナはちっとも寝付けなかった。
「(…優しいユーリのことだから、きっとジャックに言いに行ってしまう…)」
ミーナはそう考えると苦しくて、目を固く閉じた。
自分が断れればいいのに、それができない。自分なんかがジャックの誘いを断ったら、きっと彼は腹を立ててまたミーナを昔みたいにいじめ出すだろう。
過去の記憶がよみがえり、ミーナは、はっと目を開けて、そして体を起こした。背中と額に冷や汗が流れ落ちる。
「(…弱い…私なんか、何にもない、無力で、…)」
ミーナは唇を噛み締める。弱くて、何もできないくせに、好きな人を傷つけることだけはできてしまう。あの時のギルバートの顔を思い出して、ミーナは自分の両膝に顔を埋めた。
結局一睡もできず、ミーナは早朝に静かに部屋から出た。宿舎から外へ出て、朝の静かな道を歩いた。
真っ直ぐな道をずっと歩くと、前にギルバートとみつけた湖のそばにたどり着いた。
季節はいつのまにか秋にかわり、湖の傍に咲く花も変わっている。ミーナは少しずつ花の方に近づく。
「(……なんだか、何もうまくいかない…)」
ミーナは、重たい頭のまま、その場にしゃがみ込んだ。そして、そばで揺れる花を寝不足の瞳でじっと見つめる。
「(…私、痩せてどうなりたかったんだっけ…)」
ミーナは、風で草花が揺れる心地いい音を聞きながらそんなことを考える。
あんなに嫌われていたガーベラにまた優しくしてもらえた。でも、一緒にいても前みたいな安堵感はない。いつも彼女の顔色を伺って、体を硬くしている。彼女の友人たちはあからさまに自分のことをバカにしている。
その上、大好きなアイリーンとの距離も空いてしまった。
二度と関わりたくなかったジャックの、ギルバートへの嫌がらせのためのターゲットにもされてしまった。
「(…もうだめだ、わからないよ、なんにも…。お母様、私帰りたいよ、家に……)」
「…ミーナ?ミーナ!」
声がして、顔を上げるとランニングの途中だったらしいギルバートがいた。ミーナはゆっくり顔を上げて、…ギルバート、と呟いた。
ギルバートはミーナのそばに駆け寄ると、こんな時間に何してるんだ、と尋ねた。ミーナは、彼の方を見ていられずに、目線を彼からそらして、花の方を見た。
「(…そうか、夏休みの前もおんなじことをしてギルバートに怒られたんだった)」
「…ミーナ?」
「(…私、本当に馬鹿だなあ。…まるで救いがない。…ギルバートは優しいな。傷つけてきた相手のことまで、心配してくれる)」
「…ミーナ」
はっとして目線を上げると、隣にしゃがみ込んだギルバートが見えた。ミーナは目を丸くした後、目を伏せて、ごめんなさい早朝に一人で出てきてしまって、と謝った。ギルバートはそんなミーナを見て一度口を開いたあと、すぐに黙り込んだ。
しばらく、静かな時間が2人の間を流れた。鳥の声と、風の音、それに湖の水面が揺れる音が優しく聞こえてくるだけ。
「(…手を出すって、何をされるんだろう)」
ふと、ジャックの言っていたことを思い出して、ミーナは急に怖くなる。ギルバートへの嫌がらせであって、彼がミーナに好意があるわけではない。そしてもちろん、ミーナも彼に好意などあるわけがない。
「(…こわい…)」
ミーナは膝を抱える腕に力を込める。でも、ガーベラに言わせたら、別にいいじゃない、という話なのだろうか。ジャックはモテるし顔もいいから、豚のあなたには願ってもない幸福なことじゃない、と言われるのだろうか。
あなたは選り好みしている立場じゃない。身の程をわきまえなさい。そう続ける頭のなかのガーベラは、いつのまにかあの日の魔女の顔をしていた。
そもそも彼女の言うことって、本当に正しいのだろうか。
「行かないで」
静寂の中で、そんなギルバートの声がした。え、と声を漏らして、ミーナは隣のギルバートの顔を見た。
ギルバートはとても追い詰められたような、苦しそうな顔をしてミーナの方を見つめていた。
「他の男と、出かけたりしないで。俺以外の男と、自由に恋愛がしたいなんて言わないで…」
ギルバートは苦悶に満ちた表情で、しかし真剣な眼差しでミーナを見つめていた。ミーナはそんなギルバートをまっすぐに見つめ返す。
「君が行きたかったとしても、俺は、絶対に行ってほしくない。だから日曜の約束は俺から断らせてほしい。頼むから、」
ギルバートは、はっと息を呑んで言葉を止めた。ミーナの頬から涙がこぼれ落ちていたからだ。
ミーナは喉の奥がぎゅっと、苦しいほど詰まるのがわかった。ミーナは顔をゆがませながら、どんどんあふれてくる涙をぬぐった。
「…行きたくなかった…」
ミーナは、押し込めていた思いが溢れ出るように涙をこぼした。
心の底では、ギルバートに助けてほしかった。自分なんかで彼を縛りたくないと口では強がりを言いながら、自分の弱さからギルバートを傷つけておいてなお、本当はずっと、ギルバートに助けてほしかったのだ。
ギルバートは、泣き続けるミーナの前に来て、片膝をついた。そして、辛そうな、でも真面目な顔で彼女を見つめた。
「俺、ちゃんと断ってくるから」
ギルバートはそう、優しい声で伝えた。ミーナは涙で震える声で、うん、と頷いた。涙でぐしゃぐしゃの顔を両手で覆い、ミーナは肩を震わせる。
ギルバートはそんなミーナを見つめて、ごめん…、と謝った。
「…ごめん、本当に、ごめん」
そう何度も謝るギルバートに、こちらが悪いのに涙で何も言えない自分に、ミーナは更に情けなくなる。ミーナはなんとか、ううん、と頭を振る。ギルバートはそんなミーナを真剣なまなざしで見つめる。
「もう大丈夫だから」
そう優しい声で言ったギルバートに、ミーナは安堵からさらに涙が溢れてきた。
恥ずかしくもギルバートの前で大泣きした後、ミーナは腫れた目をなんとか水で冷やし、いつもより遅い時間に教室に向かった。
寝不足だけれど、頭がすっきりとしていて、心が晴れやかになっていた。
いつもジャックに怒鳴り返してくれていたギルバートなら、きっときっぱり断ってくれるだろう。そんな安心から、ミーナは、ジャックと出かける問題はとりあえず解決できた、と安堵していた。
教室に入ると、クラスメイトから一斉に視線を浴びた。ミーナは、こんなことはギルバートと婚約が決まった日以来で動揺する。
よくよく見ると、このクラスの周りにたくさんの他クラスの生徒が集まっている。
「(…な、なにごと…?)」
「あっ、ミーナ!」
満天の笑顔のアイリーンが近づいてきた。ミーナはわけがわからないまま、おはよう、と微笑んだ。アイリーンはご機嫌な様子でミーナの腕を引いた。
「聞いたわよ、やるじゃないあの男!」
「え、な、何の話?」
「ギルバートよ!ばっちりジャックの誘いを断ったみたいじゃない」
今朝、男子寮の食堂で大勢いる前でばしりと言ってやってたらしいわよ、とアイリーンがにこにこと話す。ミーナは、そうなんだ…、と安堵から胸を手で抑えた。
「(…その一件が今朝あったから、その噂がもう学園内を飛び交ってこの人だかり…?でも、そんな集まること?)」
ミーナは不思議に思いつつ、まああの有名なギルバートのしたことはすぐに噂が回るし、みんな野次馬しに来てしまうのか、と納得する。
「(ギルバートにお礼を言いに行かないと…)」
「ギルバート、ジャックになんでミーナを行かせないんだって聞かれて、好きだからって答えたみたいだよ」
「え?」
「デートに行かせない理由?俺がミーナを好きだから!だって。…うーん、いくらなんでも流石にかっこつけすぎてる?」
アイリーンがにやにやしながら、でも見直したわよあの男、と満足そうに言う。
ミーナは、アイリーンの話を聞きながら呆然とする。
「ねえ、あの方だって」
「どの人?」
「婚約者の方!ギルバート様が好きだって宣言してた」
「えっ、なんで?」
「本当に?!」
廊下から聞こえる異様なざわめきに、ミーナは頭が真っ白になる。
「ど、どうしよう…」
ミーナは唇を震わせる。にこにこしていたアイリーンが、え?と首をかしげる。
「私のせいで、変な噂が…」
「……へんな、うわさ?…とは?」
「ギルバートはね、私がジャックと出かけたくないのを慮って断ってくれただけなの。それなのに、こんな噂が流れちゃって…」
ミーナは顔を青ざめさせる。アイリーンは、そんなミーナを見つめながら、ん、ん?と動揺する。
「どういうこと?え?こんな…噂?えっと、ギルバートは、あなたが好きなのよ。そう言ってたんだってば!」
「そんなの、ジャックとの約束を断るための方便に決まってるじゃない!ど、どうしよう…」
ミーナは焦燥感から頭が真っ白になる。アイリーンは、え、えー…、と頭を一時停止させる。
「…待って、落ち着いてよ。一度、事実を素直に受け取りましょう?いいミーナ、ギルバートは、」
「あっ、ギルバート…」
ミーナは、クラスの前に来たギルバートに慌てて近寄った。野次馬の生徒たちのどよめきが、一瞬で静まる。ミーナは、周りにいる生徒達に怯えつつも、ギルバート…、と申し訳なさそうに彼を見上げた。
「あの、ありがとう、本当に、あの…」
「はっきりあいつに言ってきたから。もう心配しなくてもいい」
ギルバートは優しい目でそうミーナに言う。ミーナは、周りの好奇の目線に気圧されながら、ご、ごめんなさい、と謝った。
「私のせいで、変な噂が流れちゃって」
「えっ、うわさ…?」
「私を好きだって…。ごめん、本当に。そんな、思ってもないこと言わせてしまって…」
ミーナは顔を青くしてそう謝罪する。それを聞いていた周りが、えっ、と口々に声を漏らす。
周りは、なんだ嘘なのか?違うのか?と騒然としだす。ミーナはそんな彼らを見ながら、そうです誤解なんです…!と念じる。
「(ギルバートの名誉のために、この正しい情報を回してください…!)」
「噂なんかじゃない!俺は、君のことが好きなんだ!」
ギルバートは真剣な顔で、ミーナの目を見つめて言った。そんなギルバートに、騒がしかった周りが一瞬で静まり返る。
ミーナは、覇気迫るギルバートの様子に、かなり動揺する。
「(そ、そっか、私がジャックに付きまとわれて迷惑そうなのも察して、それから守るために…)」
「ほ、本当だからな?好きなんだからな?信じてるか?好きなんだぞ!!本当に昔からずっと、君のことが俺は好き、」
「わ、わわ、わかった!わかった!!」
ミーナは好きだを連呼するギルバートの口を両手で押さえた。ミーナは、好きを連呼するギルバートに驚愕している周りをみわたすと、ギルバートの腕を引いてこの場から逃げ出した。
人気のない中庭まで逃げてきて、ミーナは上がった呼吸を整えながら立ち止まった。そして、連れてきたギルバートから手を離して、彼を見上げた。
「あの、本当に、本当にありがとう。ギルバートが助けてくれて感謝してる」
「いや、これくらい、」
「でもごめんなさい。私のせいで、ギルバートの変な噂が回っちゃった…!」
ミーナは顔を青くする。ギルバートはそんなミーナに、え、と声を漏らす。
「…だから、俺は本当に君が、」
「でも私、本当に嬉しかった。ギルバートが助けてくれたらって、そう心の中で願ってたから。お互い自由にしたらいいなんて、ましてや最初、白い結婚だとか、真面目なギルバートに対してひどいこと言ったのに、それなのに助けてくれて…」
ミーナは目をふせて、自分の駄目さと、ギルバートの優しさを改めて感じる。ギルバートはそんなミーナを見つめる。
「…ミーナ、俺、」
「それにね、…その、…ジャックが、ギルバートに嫌がらせをするために私に手を出すつもりだって、そんな話を聞いちゃって、…すごく怖かったんだ。またいじめられたらって思ったら何もジャックにも言えなくて…。だからギルバートが助けてくれて本当に嬉しかった。ありがとう」
ミーナはギルバートを見上げて、そう微笑んだ。しかし、ギルバートは黙ってミーナを見つめたまま返事をしない。しばらく待ってみたけれど、何も動きがない。
「…あれ、ギルバート?ギル…」
ミーナが彼の目の前で手を振った瞬間、ギルバートは背筋を伸ばしたまま勢いよく後ろに倒れ込んだ。ミーナは、短い悲鳴を上げたあと、地面に倒れ込むギルバートに近づいた。
「えっ、ギルバート、ギルバート?!うそ…ギル…、だ、誰か!誰か!!」
ミーナはギルバートのそばでしゃがみ込み、大声で助けを求めた。すると、そばにいた事務員が気がついて、慌てて2人の元へ駆け寄ってきてくれた。




