10-2揺れる
夏休み初日の朝、ギルバートはいつも通りに目が覚めた。今日宿舎で朝食を取ったら、実家へ帰る予定である。
ギルバートはいつも通りランニングに出かけた。夜中に雨が振っていたらしく、湿った空気を肌に感じる。夏の早朝の空気を吸いながら、これから実家に帰るのかと少し気が重くなる。
ギルバートは幼い頃から厳格な父親と2人で暮らしてきた。妥協を一切しない父親と一緒に過ごす生活を長期間送らなければならないことに、今から少し憂鬱になる。さらに、家の跡取りとして卒業後から始まる仕事を教わる期間でもあるから、余計にプレッシャーがかかる。
「(…まあ、やり切るしかない……)」
ギルバートはそうため息をつきながらも、これからの日々を乗り切るために体力をつけねばと、ランニングに気合がはいる。
体を大きくするためのトレーニングもしているが、そちらはなかなかジェームズに教えてもらったとおりには進まない。しかし、増量は自分自身との戦いだと自分を奮い立たせて毎日取り組んでいる。
宿舎の周りの池を通り過ぎ、並木道を走っていたとき、ふと、人影が目に入った。
「(…えっ、ミーナ?)」
ギルバートは予想外の人物に驚く。走る方向を変えて、ギルバートはミーナの方に向かった。
ミーナは池の方へすたすたと歩いていっている。その背中をギルバートは追いかける。
「ミーナ!」
声をかけると、ミーナは目を丸くしてギルバートを見た。
「あっ、ギルバート、おはよう」
「何をしてるんだ、こんな朝から」
ギルバートは眉をひそめてミーナを見た。こんな朝から人気のないところで一人でいるなんて、何を考えているのかギルバートは理解ができなかった。何者かに襲われたり攫われたりしたらどうするつもりなのか。自分が見つける前にそんな目に彼女があっていたらと思うと、ギルバートは血の気が引く。
しかし当の本人はいつも通りの様子で、散歩だよ、とのんびり答えた。
「今日は実家に帰ったりして忙しいから、体を動かせるのはこの時間くらいしかないかなって」
「…こんな時間に女性が一人で出歩くのはいかがなものかと思うけれど」
ギルバートはそうミーナを戒める。ギルバートの空気感にようやく察したらしいミーナが、あっ、ほ、ほんとだね…、ごめんね…、と反省して目を伏せた。
しゅんとするミーナを見ていて、ギルバートは心が痛くなる。そしてそれは、ジェームズへの怒りに変わる。
「(あいつが減量だ減量だとうるさく言い過ぎているんじゃないか?そのせいでミーナが追い詰められて…)」
ギルバートは、万事任せろ!と言ったときの無駄に爽やかなジェームズの笑顔を思い出して腸が煮えくり返る。
ミーナは、じゃあ私急いで帰るね、と怒られて落ち込んだのが隠せない笑顔で言うと歩き出した。ギルバートは、ま、待って!と呼びとめる。
「送るから」
「えっ、悪いよ。ギルバート、トレーニングしてたんでしょ?例の、ムキムキになるトレーニング…」
「ムッ…、いや、これはただの日課…、いや、な、なんでそれを…」
ギルバートはなぜ彼女が知っているのか動揺する。ミーナが、ユーリとジェームズから…、と答えるのを聞いて、あいつら…、とギルバートは更に怒りを増す。
すると、用心深く辺りをきょろきょろと見回したミーナが、意を決したようにギルバートに近づいた。そして、丸い目を過剰なほど真剣にして、ギルバートを見上げた。
ミーナが近い距離にいることで、ギルバートは緊張と嬉しさから頭がうまく動かなくなる。身体が固まって、頬の内側から熱がじわじわと発生する。
早朝の辺りはしんと静かで、でも胸の鼓動はどんどん速くなって、彼女に聞こえてしまわないかと思うと焦るのに、頭が回らなくて何をどうしたらいいのかわからない。
風が吹いて、ミーナの髪が揺れる。その時に、彼女の優しい匂いが自分に届く。そして、彼女の唇がゆっくり動き出す。それにギルバートは目を奪われる。
「…ねえ、何と戦うの?」
「…え?」
予想外の言葉に、ギルバートは即座に反応できない。心臓は痛いほど高鳴り続けるが、理解ができない彼女の言葉をなんとか読み解こうと、少しずつ頭が冷静になる。
「戦う…俺が?」
「うん。アイリーンが言ってたの。だから鍛えてるんだって」
ミーナは大真面目にそう、辺りを気にしながら話す。ギルバートは、じわじわと頭が覚めてきたけれど、しかし、彼女の言う事に理解が及ばない。
ミーナは心配した様子でギルバートを見つめる。
「ねえ、大丈夫?何か危険なことをしようとしているんじゃない?」
ミーナは、揺れる瞳でギルバートを見つめる。ギルバートは、やはり彼女の言わんとすることの意味が分からなかったけれど、学園に入ってから今日までで一番近い距離に彼女がいることに、冷静になりつつあった頭がまたうまく動作しなくなる。
「(…可愛いの暴力…)」
ギルバートは頭を抱えたくなるが、少しでも手を動かせばミーナに当たりそうなほど近いため、身動きが一切取れない。
「(…同意なしに女性に触れるのは禁忌だ…。そんなのは男のすることじゃない…)」
ギルバートはそう頭の中で唱えながら体を動かさないように固める。
ミーナは、答えないギルバートに、ねえ、と返答を急かす。その拍子にまた数センチ2人の距離が縮まる。
彼女の髪に、頬に、手に、つい触りたくなって手がぴくりと動く。触れたらどんな感触なのか、彼女はどんな反応をするのか、知りたくてたまらなくなる。
「ねえ、何と戦うのか教えて?」
「えっ、じっ、…自分自身……」
改めてミーナに尋ねられて、ギルバートは咄嗟にそう返す。
ミーナはそう返したギルバートに一瞬呆然としたあと、…筋肉は哲学…、と呟く。ギルバートは、えっ?と声をもらす。ミーナは、ううん、と手を振ると、一歩、また一歩とギルバートから離れた。
「なんでもない。へえ、そうなんだ。なんだか難しいね」
「(…聞き間違いか。筋肉は哲学って言ったのかと思った…)」
「それじゃあね。がんばってね」
ミーナはそう言うとまた歩き出す。ギルバートは、待てって、と慌ててミーナを呼びとめる。
「だから、1人でいたら危ない。送るから」
「でも、トレーニング中なのに…」
「もう帰るところだったから」
ほら行くぞ、とギルバートはミーナを呼ぶ。ミーナは、う、うん、と言うと、ギルバートについて歩き始めた。
宿舎までの静かな道を、2人で歩いた。
幼い頃はよく2人で遊んだりしたものだったけれど、学園に入って、男子クラスと女子クラスに分けられてから、なんとなくこれまでどおり一緒にいることはほとんどなくなっていた。
だから、久しぶりにこうやって2人でいることが新鮮で、でも懐かしくて、夏の土の匂いが鼻腔をくすぐると、不思議な感覚で胸が騒いだ。
久しぶりに一緒に歩いたからか、歩幅が合わせられず、ミーナが少し早足になっているのにギルバートは気がついた。すまない、と謝ると、ギルバートは歩く速度を遅くした。
早足から普通の速度で歩けるようになったミーナは困ったように眉を下げて、ごめんね、と申し訳なさそうに謝る。そんな彼女に、ギルバートは、またか、と心の中で呟く。
「…やはり、何かおかしい。俺と結婚が決まってから、今までの君じゃなくなっている」
ギルバートはつい、感情のまま話し続けた。
「俺との結婚が、嫌なんじゃないのか?」
聞いてしまってから、ギルバートは、はっとした。言葉を発してしまった以上引っ込められない。
ミーナは呆然とギルバートを見つめている。彼女からの返事が恐ろしくて、ギルバートは息が詰まる。
「(だ、だめだ…、今日から長期休暇とはいえ、明けるまでに立ち直れるだろうか……)」
「ううん、嫌じゃないよ」
ミーナは慌てて手を横に振る。彼女からの明確な否定に、ギルバートは止まっていた呼吸ができるようになり、肩の力が緩む。
「(よ、よかった…)」
「…でも、」
「(でも?!)」
ギルバートは、隣を歩くミーナを勢いよく見た。ミーナは目を伏せて、何かを言いかけては止める、というのを繰り返す。彼女が次に出す言葉の行方を、ギルバートははらはらと見守る。
ミーナは意を決したようにギルバートの方を見た。
「…でも、私なんかがいいのかなって、…思ってる…」
「…それは、どういう意味だ?」
ギルバートはよくわからずに困惑する。ミーナはギルバートの目を見て、眉を少しだけひそめたあと、目を伏せた。
「…私は、ずっと昔から、太っていて、どんくさくて、だからみんなから笑われて…。それなのに、そんな私が、ギルバートと結婚してもいいのかなって…」
「…」
ギルバートは、ミーナの言葉を聞きながら、昔からミーナを囲んで虐めてきたジャックの憎たらしい顔が浮かんで腹の底から怒りが湧き上がる。
あいつが執拗にミーナに言い続けるせいで、その雰囲気が波及して周りまでミーナにとやかく言うようになったのだ。
何度怒鳴って追い払っても懲りずにしつこく言い続けていたあの男が心底理解できなくて(したくもなくて)、ギルバートは、小さくため息をつく。
そんなギルバートの横顔を見ていたミーナが、ごめんね、と苦笑いを漏らす。
「家同士が決めた結婚なのに、ギルバートにこんなこと言ったって、どうにもならないのにね」
本当にごめん、とミーナは口元だけなんとかほほえんでギルバートに見せる。ギルバートは、一度深呼吸をしてジャックへの憎しみを収めたあと、ミーナの方を見た。
「周りの言う事なら気にしなくて良い。勝手に言わせておいたら良いんだ。相手にするだけ無駄だ」
「…うん」
浮かない顔のミーナに、ギルバートはさらにジャックとその周りへの怒りが増す。クールダウンさせるために、ギルバートはまた一息つく。
「とにかく、忘れたら良いんだよ。あんなやつらのために使う脳の容量も無駄だ」
ギルバートはミーナにそう言い聞かせる。ギルバートにとってミーナを取り巻く奴らは、わけのわからない基準で勝手なことをいう有象無象でしかなかったからだ。
ミーナはそんなギルバートを見上げて、目を伏せて、それからにこりと笑った。
「…そうだね、ありがとう」
ミーナの返事に、あんな奴らはたいしたことないのだとわかってもらえたと、ギルバートは一安心する。
宿舎までの道を歩きながら、なぜ急にそんなことを彼女が言い出したのかを、ギルバートは考える。
「(…やはり、オリバーのことが心残りだから、彼以外の男と結婚することに抵抗があって、だから白い結婚をするための理由を探しているんだろうか…)」
ギルバートは悶々と考え込む。またダイエットを始めたと言うし、ミーナがオリバーを諦めてくれる日は来るのだろうか、とギルバートは不安になる。
「…あ」
ミーナが声を漏らして立ち止まる。ギルバートも立ち止まって振り返る。
「どうした」
「あそこ、花が咲いてる」
ミーナは、池の周りを指さす。鮮やかな夏の野花が、池の周りに咲いているのがここから見えた。
「こんなところ、あったんだね」
「こっちの方に来たことはなかったか?」
「うん、初めて」
ミーナは花のほうを見つめて目を細める。その横顔を見つめて、初めて来る方向にこんな早朝に1人で来るなんて…、とギルバートは注意したくなる気持ちが溢れるが、これ以上煩く言ってまた彼女をしゅんとさせるわけにはいかず、ぐっと堪える。
「(…あんまりにも無防備だ…。結婚してからも気をつけないと…)」
「綺麗だねえ」
ミーナがそう呟く。登り始めた朝日に照らされて、彼女の瞳が反射してきらきらと輝く。その美しい横顔に、ギルバートは言葉を失う。
「(…俺たちは、結婚してからこうやって、2人でいられるのかな)」
ギルバートは急に不安になる。結婚さえしたら、また昔みたいに一緒にいられるのだと、そう思っていた自分につきつけられたのは、白い結婚である。
ギルバートは、あああ…と項垂れたくなるのを堪える。
「ねえ、あっちの方も咲いてるね」
ミーナは別の花の群れを指差すと、ギルバートを見上げて嬉しそうに目を細める。ギルバートはミーナと目が合うと、少し目を丸くした。大人になったミーナの、あの頃と変わらない笑顔に、ギルバートは口元を緩める。
「…そうだ、ごめんね、早く帰らないとだね」
ミーナは花の方に向けてぴんと立てた指をゆっくり折り曲げると、行こうか、と歩き出した。そんなミーナに、大丈夫、と声をかける。ミーナは立ち止まって振り返る。
「もう少し、俺も見ていきたいから」
ギルバートはそうぶっきらぼうに返す。ミーナはそんなギルバートに嬉しそうに目を細めると、ありがとう、と笑った。
ギルバートはミーナの隣に立つと、また遠くの花を見つめた。ミーナは、綺麗だね、と声をもらす。ギルバートはそんなミーナの横顔を見つめた後、花のほうを見て、綺麗だな、と返した。




