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没落した『元』貴族令嬢は、歌姫への道を駆けのぼる  作者: 冬生 恵
【第一幕】睡蓮座、デビュー
17/18

16.密やかな永訣(えいけつ)

 『睡蓮(すいれん)座』は無事、三日間の(こけら)落とし公演を終えた。客入りも想定以上だったようで、フィリップやホールを支える裏方部隊が、胸を撫で下ろしていた。

 ドゥニのように、公演を見て支援を申し出た商家や、中には貴族も数名いるそうだ。彼らも当然、半年前破産したフルーリ伯爵家の話は知っているだろう。貴族というものは、身を守る術の一つということもあり、得てして皆噂好きだ。転落した家の娘だと知られるのは、少し複雑な気持ちもあったが、ここでの生活はかけがえのないもので、恥じるつもりはまったくない。オデットは早々に、気分を切り替えた。


 順調な滑り出しを見せた新興オペラホール『睡蓮座』に、その知らせがもたらされたのは、休演日の朝のことだった。






「皆、稽古室に集まってくれ」


 血相を変えて食堂に駆け込んで来たのは、『睡蓮座』の金銭管理を一手に担うティモテだった。かつて質屋に務めていた彼は、芸術肌の多いメンバーの中で地に足が着いており、フィリップの信頼も篤い。そんな彼の慌てふためいた様子に、オデットたちはざわめいた。

 急かす彼に従い、食堂に集っていた全員が地下の稽古室に降りていく。部屋で休んでいたアンヌマリーたちも、既に思い思いの場所に腰掛け、不安そうな表情を浮かべていた。

 呼ばれたのは、オデットたちソリストやアンサンブル、オーケストラの面々のみのようだ。場を代表して、ジャンが、最後に入室してきたフィリップに声を掛ける。


「フィリップさん、一体……」

「――カミーユが、亡くなったそうだ」


(え……?)


 呆然とする一同に、フィリップは暗い表情で続ける。


「初公演の日の朝、目を覚まさない彼女を不審に思った旦那が肩を揺すると……息をしていなかったそうだ」

「そんな、一体どうして……!?」


 青ざめて言い募るオデットにチラリと目を向け、フィリップは重い溜め息をついた。


「……実はカミーユは、心臓の病を抱えていた。うちでの講師役を引き受ける際、医者の診察を何度も受け、支障はないと言われていたのだが……。気付かないうちに、別の病を引き起こしていたのかもしれない」


 憧れのプリマドンナ、恩師との突然の別れを、オデットを始めとした女性歌手は、受け止めきれずにいた。初公演前最後の練習の際、いつも辛口な彼女は珍しく、まだまだ経験不足の教え子たちを褒めてくれた。最後に見た柔らかな笑顔が胸を()ぎり、オデットたちは言葉も出ず、目に涙を浮かべる。ジャンやモーリス、ポールたちも、沈痛な表情で黙り込んだ。

 カミーユとは長い付き合いであるフィリップは、微かに赤くなった目を細めながら、呟くように言った。


「妻が情熱を注いでいた『睡蓮座』の初公演に、水を差したくないと、旦那は今日まで誰にも言わずにいたそうだ。眠るような、穏やかな表情だったことが、救いだったと……」


(カミーユ先生……)


 オデットは胸の中で恩師の名を呼び、そっと瞑目(めいもく)した。隣のアンヌマリーが鼻を啜っている。

 フィリップはしばらく黙っていたが、やがて若い歌い手たちを鼓舞(こぶ)するように、力強く声を張った。


「カミーユの思い、力添えを絶対に無駄にはしない。次の公演も、その次も……気合を入れていくぞ」


 オデットたちは顔を上げ、唇を噛み締めながら頷いた。








 初公演の段取り、練習と並行して、フィリップはその後の公演の準備もしていた。今日の休みを挟んで、あと二日は古典『恋の喜劇』の公演を続けるが、以降はフィリップが温めてきたいくつかのオリジナル脚本で、公演を行う。初公演前には『恋の喜劇』に集中したが、直前までは、このオリジナル脚本の舞台の訓練も、カミーユたちが付けてくれていたのだ。

 二公演目となる作品のタイトルは、『クワテュオール・ド・フルール(花の四重奏)』。


 後半二日間の『恋の喜劇』の公演を終えた一週間後、『睡蓮座』は次の公演に打って出た。







 本番を前に、楽屋で深呼吸を繰り返していたオデットのもとを、とある人物が訪れた。


「――オデット」


 滑らかな声に、オデットは慌てて振り返った。いつも通り優雅に微笑んだドラクロワ侯爵夫人が、楽屋の入口に佇んでいる。


「ごきげんよう、マダム」

「そのままで。――あら、似合っているわね。そのドレス」


 弾んだ声で褒める妖艶な美女の言葉に、オデットは愛想笑いを返した。

 この公演から、新たに『睡蓮座』の支援者となったドゥニが試作していた、彼のプレタポルテの作品を身に付けることになっている。シルクの質を少し下げる代わりに、チュールやオーガンジーを重ねることで煌めきを演出するドレスは軽く、動きやすい。コルセットもぎゅうぎゅうに締め上げるのではなく、ドレス自体のシルエットで、美しいくびれを演出している。オデットも気に入っている衣装だが、このように、舐めるようにじっくりと見つめられると、身の危険を感じる。


(マダムは、女性へのスキンシップが過剰なのよね……。悪い方ではないんだけれど……)


 初対面以降、マルグリットはオデットの反応が気に入ったのか、頻繁に抱きついたり、際どい触れ方をしてくる。顔を真っ赤にして悲鳴を上げる姿が、彼女の嗜虐心(しぎゃくしん)(あお)っているのは分かっているが、慣れられないものは慣れられない。いつもはジャンが(なだ)めてくれるのだが、今は楽屋に自分一人だ。

 密かに冷や汗を浮かべるオデットに、侯爵夫人は微笑を浮かべた。


「じゃあ、(わたくし)はこれで。――頑張ってね」

「あ……」


 驚くオデットをよそに、マルグリットは優雅な足取りで部屋を出て行く。扉が閉まる直前、彼女の目元が微かに赤らんでいることに気付き、オデットは息を飲んだ。


(夫人とカミーユ先生、長いお付き合いだったのよね……)


 かつて、本番を控えるプリマドンナを、こうやって激励に訪れたこともあったのかも知れない。

 オデットは再び深呼吸をして、背筋を伸ばした。


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