16.密やかな永訣(えいけつ)
『睡蓮座』は無事、三日間の杮落とし公演を終えた。客入りも想定以上だったようで、フィリップやホールを支える裏方部隊が、胸を撫で下ろしていた。
ドゥニのように、公演を見て支援を申し出た商家や、中には貴族も数名いるそうだ。彼らも当然、半年前破産したフルーリ伯爵家の話は知っているだろう。貴族というものは、身を守る術の一つということもあり、得てして皆噂好きだ。転落した家の娘だと知られるのは、少し複雑な気持ちもあったが、ここでの生活はかけがえのないもので、恥じるつもりはまったくない。オデットは早々に、気分を切り替えた。
順調な滑り出しを見せた新興オペラホール『睡蓮座』に、その知らせがもたらされたのは、休演日の朝のことだった。
「皆、稽古室に集まってくれ」
血相を変えて食堂に駆け込んで来たのは、『睡蓮座』の金銭管理を一手に担うティモテだった。かつて質屋に務めていた彼は、芸術肌の多いメンバーの中で地に足が着いており、フィリップの信頼も篤い。そんな彼の慌てふためいた様子に、オデットたちはざわめいた。
急かす彼に従い、食堂に集っていた全員が地下の稽古室に降りていく。部屋で休んでいたアンヌマリーたちも、既に思い思いの場所に腰掛け、不安そうな表情を浮かべていた。
呼ばれたのは、オデットたちソリストやアンサンブル、オーケストラの面々のみのようだ。場を代表して、ジャンが、最後に入室してきたフィリップに声を掛ける。
「フィリップさん、一体……」
「――カミーユが、亡くなったそうだ」
(え……?)
呆然とする一同に、フィリップは暗い表情で続ける。
「初公演の日の朝、目を覚まさない彼女を不審に思った旦那が肩を揺すると……息をしていなかったそうだ」
「そんな、一体どうして……!?」
青ざめて言い募るオデットにチラリと目を向け、フィリップは重い溜め息をついた。
「……実はカミーユは、心臓の病を抱えていた。うちでの講師役を引き受ける際、医者の診察を何度も受け、支障はないと言われていたのだが……。気付かないうちに、別の病を引き起こしていたのかもしれない」
憧れのプリマドンナ、恩師との突然の別れを、オデットを始めとした女性歌手は、受け止めきれずにいた。初公演前最後の練習の際、いつも辛口な彼女は珍しく、まだまだ経験不足の教え子たちを褒めてくれた。最後に見た柔らかな笑顔が胸を過ぎり、オデットたちは言葉も出ず、目に涙を浮かべる。ジャンやモーリス、ポールたちも、沈痛な表情で黙り込んだ。
カミーユとは長い付き合いであるフィリップは、微かに赤くなった目を細めながら、呟くように言った。
「妻が情熱を注いでいた『睡蓮座』の初公演に、水を差したくないと、旦那は今日まで誰にも言わずにいたそうだ。眠るような、穏やかな表情だったことが、救いだったと……」
(カミーユ先生……)
オデットは胸の中で恩師の名を呼び、そっと瞑目した。隣のアンヌマリーが鼻を啜っている。
フィリップはしばらく黙っていたが、やがて若い歌い手たちを鼓舞するように、力強く声を張った。
「カミーユの思い、力添えを絶対に無駄にはしない。次の公演も、その次も……気合を入れていくぞ」
オデットたちは顔を上げ、唇を噛み締めながら頷いた。
初公演の段取り、練習と並行して、フィリップはその後の公演の準備もしていた。今日の休みを挟んで、あと二日は古典『恋の喜劇』の公演を続けるが、以降はフィリップが温めてきたいくつかのオリジナル脚本で、公演を行う。初公演前には『恋の喜劇』に集中したが、直前までは、このオリジナル脚本の舞台の訓練も、カミーユたちが付けてくれていたのだ。
二公演目となる作品のタイトルは、『クワテュオール・ド・フルール(花の四重奏)』。
後半二日間の『恋の喜劇』の公演を終えた一週間後、『睡蓮座』は次の公演に打って出た。
本番を前に、楽屋で深呼吸を繰り返していたオデットのもとを、とある人物が訪れた。
「――オデット」
滑らかな声に、オデットは慌てて振り返った。いつも通り優雅に微笑んだドラクロワ侯爵夫人が、楽屋の入口に佇んでいる。
「ごきげんよう、マダム」
「そのままで。――あら、似合っているわね。そのドレス」
弾んだ声で褒める妖艶な美女の言葉に、オデットは愛想笑いを返した。
この公演から、新たに『睡蓮座』の支援者となったドゥニが試作していた、彼のプレタポルテの作品を身に付けることになっている。シルクの質を少し下げる代わりに、チュールやオーガンジーを重ねることで煌めきを演出するドレスは軽く、動きやすい。コルセットもぎゅうぎゅうに締め上げるのではなく、ドレス自体のシルエットで、美しいくびれを演出している。オデットも気に入っている衣装だが、このように、舐めるようにじっくりと見つめられると、身の危険を感じる。
(マダムは、女性へのスキンシップが過剰なのよね……。悪い方ではないんだけれど……)
初対面以降、マルグリットはオデットの反応が気に入ったのか、頻繁に抱きついたり、際どい触れ方をしてくる。顔を真っ赤にして悲鳴を上げる姿が、彼女の嗜虐心を煽っているのは分かっているが、慣れられないものは慣れられない。いつもはジャンが宥めてくれるのだが、今は楽屋に自分一人だ。
密かに冷や汗を浮かべるオデットに、侯爵夫人は微笑を浮かべた。
「じゃあ、私はこれで。――頑張ってね」
「あ……」
驚くオデットをよそに、マルグリットは優雅な足取りで部屋を出て行く。扉が閉まる直前、彼女の目元が微かに赤らんでいることに気付き、オデットは息を飲んだ。
(夫人とカミーユ先生、長いお付き合いだったのよね……)
かつて、本番を控えるプリマドンナを、こうやって激励に訪れたこともあったのかも知れない。
オデットは再び深呼吸をして、背筋を伸ばした。




