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安心の器  作者: 古都麿
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8/30

第一部 第8話 苦しいプロポーズ

新凪はリビングのソファに座って、頭を抱えていた。

(ここらが潮時かもしれない)


3人の生活が始まって1年が過ぎようとしていた。

新凪の体調はすっかり元通りになった。

それと同時に、このまま真人におんぶに抱っこの生活を続けていくことに心苦しさを感じていた。

結子の前で、真人に甘えるのも気が引けた。


ある日の夕食後。

「真人さん」

最近聞くことがなくなっていた、珍しく苦しそうな声。

「はい」

真人は何事かと思いつつも静かに待った。

「私そろそろ働きに出ようと思っています」

新凪は意を決したように言葉を吐き出した。

「急にどうしたんですか」

真人の声が震えていることに新凪が気づく余裕はなかった。

「いつまでも真人さんに甘えっぱなしというわけにもいきませんし」

少しずつ、絞り出すように。

「元気になったら自活できるようにしないと」

真人は顔色をなくしていた。

真人はこの生活が終わるのが怖くなっていた。

いつかは新凪からこういう話が出るだろうことは予想はしていた。

でも。

考えないようにしていた。

「……ママ、この家を出るの?」

結子が不安そうに尋ねた。

「ちゃんと家賃が払えるようになったらね」

新凪は諭すように言った。

「お世話になるのは、体を治す間というお話だったし」

そう言いながらも、新凪も悲痛な顔をしている。

(私のせい?やっぱりあの時、ママに聞かれてた?)

結子は震えが止まらなかった。

空気が重い。

その時。

「嫌だっ!」

真人は大声で叫んだ。

「出て行かないで」

「離れたくない」

真人が珍しく取り乱して感情的になっている。

「……」

新凪は完全に固まっている。

まさか、真人がこんな反応をするなんて。

きっと、自分の決意を尊重して応援してくれると思っていた。

それなのに。

それは、真人が初めて新凪にぶつけたわがままだった。

だけど。

新凪にとっては嬉しいわがまま。


結子は真人と新凪を交互に見ている。

そして。

「ふぅ」

真人は大きく息をついて。

「新凪さん、結婚してください」

「へっ!?」

「ひゃぁ!」

新凪と結子は同時に変な声を上げた。

なんという直撃弾。

真人は真っ赤になって変な顔をしている。

その顔を見て結子は。

「それどんな感情?」

新凪はソファーに沈み込んで膝を抱えて顔を隠してしまった。

新凪の目にはみるみる涙が溢れた。

「……」

言葉にならなかった。

気まずい沈黙。

「お兄ちゃん、ムードもへったくれもないの」

真人がぴくりと反応する。

「そんなプロポーズ、ママかわいいそう」

「……っ!」

「デートに誘って海の見えるレストランの窓際の席でサプライズとか」

「いや、それは私も……」

「ふーん、考えてたんだ」

結子にいじられる。

「ふふ…」

しばらく固まっていた新凪が涙ながらに吹き出した。

「……反則ですよ」

新凪は咎めるような視線で真人を見る。

「私の決心はなんだったんですか……」

半分は言葉にならなくて。

新凪はまた声をあげて泣いてしまった。

何かに耐えている涙じゃなくて。

まるで少女のように感情が溢れた涙。

「あーぁ、お兄ちゃんがママを泣かせた」

結子が真人をジト目で見た。

真人は。

言葉にできず、ただ、新凪の隣に座って抱き寄せた。


その日の夜遅く。

新凪は温かい紅茶を両手で包みながら、小さく息を吐いた。

「……真人さん」

「はい」

「ちゃんと話しておきたいことがあるんです」

その声が少し硬かった。

真人は自然と姿勢を正す。

新凪はしばらく俯いていた。

でも。

やがて、静かに話し始める。

「私、最初の結婚……失敗してるんです」

真人は何も言わない。

ただ静かに聞いていた。

新凪は少しだけ苦しそうに笑う。

「最初は普通だったんです」

学生時代に出会った。

優しかった。

真面目だった。

若かった新凪は、その人と一緒に未来を作っていけると思った。

結婚して。

結子が生まれて。

最初は幸せだった。

でも。

少しずつ、変わっていった。

「仕事が大変になってからかな……」

夫は余裕をなくしていった。

ため息。

苛立ち。

刺さる言葉。

最初は小さなものだった。

でも。

毎日積み重なると、人は壊れていく。

「お前は気楽でいいよな」

「家にいるだけだろ」

「なんでこんなに金かかるんだ」

責められるたび。

新凪は“もっと頑張らなきゃ”と思った。


でも。

頑張っても、空気は悪くなるばかりだった。

「……気づいたら」

新凪は少し震える声で続ける。

「家にいるのが怖くなってました」

その言葉に。

真人の胸が痛む。

新凪は無理やり笑う。

「変ですよね。家なのに」

でも。

その笑顔が痛々しかった。

「それで……離婚しました」

結子を連れて。

一人で生きることを選んだ。

大変だった。

苦しかった。

でも。

“怒鳴られない家”は、それだけで少し安心できた。

新凪は静かに視線を落とす。

「だから私……」

言葉が止まる。

怖かった。

こんな話をしたら、真人が引いてしまうかもしれない。

“重い”と思われるかもしれない。

すると。

真人が静かに口を開いた。

「私も、あります」

新凪が顔を上げる。

真人は少しだけ苦笑した。

「人と関わるの怖い時期」

そして。

彼も、自分の過去を話し始めた。

中学時代。

いじめ。

不登校。

部屋へ閉じこもった日々。

誰とも会いたくなかったこと。

でも。

パソコンだけが、自分を否定しなかったこと。

コードを書けば、ちゃんと動く。

頑張った分だけ結果が出る。

それだけが救いだったこと。

「だから私、人付き合い下手なんです」

そう言って笑った。

でも。

新凪は静かに首を振る。

「そんなことないです」

その声は、まっすぐだった。

「真人さん、すごく優しいです」

その瞬間。

真人は少しだけ目を伏せた。

優しいんじゃない。

ただ。

一人で苦しい人を見ると、放っておけないだけだ。

昔の自分を思い出すから。

しばらく沈黙。

でも。

その静けさは苦しくなかった。

新凪はゆっくり息を吸う。

そして。

ずっと胸にあった不安を、ようやく口にした。

「……こんな私でも」

声が震える。

「受け入れてくれますか」

離婚歴。

子ども。

傷だらけの心。

若くない年齢。

そんな自分が、この人の隣へいていいのか。

怖かった。

すると。

真人は少し驚いた顔をした。

それから。

本当に不思議そうに言う。

「なんでそんなこと聞くんですか」

「え……」

「好きだから一緒にいたいのに」

あまりにも自然な声だった。

飾りもない。

計算もない。

だから。

新凪の涙腺は簡単に壊れた。

「っ……」

ぽろぽろ涙が落ちる。

真人が慌てる。

「え、なんで泣くんですか」

「だって……」

新凪は泣き笑いみたいな顔になる。

「そんなふうに言われたこと、なかったから……」

その瞬間。

真人の胸が強く締め付けられた。

この人は。

ずっと、“愛される自信”がなかったのだ。

だから。

自分を後回しにして。

壊れるまで頑張って。

それでも笑っていた。

真人は静かに新凪を抱き寄せた。

「……もう無理しなくていいです」

「甘えて欲しいです」

低い声。

優しい腕。

新凪は彼の胸へ顔を埋める。

すると。

心臓の音が聞こえた。

速い。

自分と同じくらい。

そのことが、どうしようもなく嬉しかった。


だけど。

「それだけじゃないんです」

新凪が苦しそうに言葉を続けた」

「結子の誕生日デートの日」

新菜が言い淀む。

「あの子、部屋に引っ込んだ後、泣いてるのを聞いてしまったんです」

真人が驚く。

「”ママに負けちゃった”って」

新凪が続ける。

「真人さん、デート中、私を話題にしました?」

新凪が咎めるような視線を向ける。

「……カフェとか観覧車で、”新凪さんが好きかも”って」

真人はそこで気づく。

「デート中に他の女の人を話題に出すの、最低ですよ」

新凪はちょっと怒っている。

「あの子が真人さんのこと好きなのは薄々気づいてました」

新凪は母親の顔になっていた。

「でも、それは子どもの憧れだと思ってました」

「でも、あの子、ちゃんと恋してたんです」

真人は何も言えない。

「私が真人さんの気持ちを受け入れたら」

新凪の表情が悲しい女の顔になていた。

「あの子が毎日それを見るのは辛いと思います」

そして。

「だから……」

続きの言葉が出る前に、真人がようやく口を開いた。

「新凪さん、それはダメです」

「……えっ?」

「結子ちゃんはとても敏感に察する子です」

真人は静かに続けた。

「新凪さんが結子ちゃんのために身を引いたら」

少し間をおいて。

「結子ちゃんは自分のために幸せを手放した新凪さんに顔向けできなくなる」

「……っ!」

「だから、二人で結子ちゃんを守っていきましょう」

新凪は泣き崩れた。

こんなに。

こんなにも結子のことを大事に思ってくれる、この人なら……

「……好きです」

真人が小さく呟く。

新凪は涙を拭いながら、少し笑った。

「知ってます」

「なんですかそれ」

「ふふっ」

泣きながら笑う。

改めて。

「結婚してください」

真人の求めに。

「……はい」

それ以上言葉は要らなかった。


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