第一部 第7話 敗北
結子の誕生日、一週間前。
夕飯のあと。
新凪が何気なく聞いた。
「結子、今年の誕生日どうする?」
その瞬間。
結子が少しだけ視線を泳がせた。
珍しい反応だった。
「プレゼント、何がいいですか?」
真人も自然に続ける。
すると。
結子は数秒迷ってから、小さく言った。
「……物じゃなくてもいい?」
空気が少し静かになる。
「もちろん」
新凪が優しく笑う。
すると。
結子は、少しだけ照れた顔で言った。
「……お兄ちゃんと、一日デートしたい」
空気が止まる。
数秒沈黙。
そして。
真人が完全停止した。
「……え」
声が裏返る。
新凪が目を瞬かせる。
「結子、それちょっと」
「ねぇ、お兄ちゃん、いいでしょ?」
真人はまだ固まっていた。
「そう……」
新凪は静かに微笑む。
そして。
そっと真人の肩へ触れた。
「行ってきてください」
真人が顔を上げる。
新凪は優しい目をしていた。
「……はい」
真人は小さく頷いた。
その声は、少しだけ緊張していた。
誕生日当日。
結子は朝から異様に気合いが入っていた。
服を三回着替える。
髪を巻く。
「……結子ちゃん」
新凪が少し笑う。
「かわいいです」
その瞬間。
結子の顔が赤くなる。
「やめてよぉ……」
完全に女の子だった。
一方。
真人は妙に静かだった。
「……真人さん」
「はい」
「緊張してます?」
「してます」
即答。
新凪が吹き出した。
「なんか、変な気持ちで」
真人は苦笑する。
「大事なイベントな気がして」
その感覚は、正しかった。
「じゃ、行ってきます」
玄関。
結子が少し照れながら言う。
すると。
新凪が優しく笑った。
「楽しんできてくださいね」
その瞬間。
結子の胸が、少しだけkキュンとなる。
外は、柔らかな春の空気だった。
並んで歩く。
二人きり。
なんだか不思議だった。
「……どこ行きたいですか?」
真人が聞く。
結子は少し笑った。
「今日は全部お兄ちゃんに任せる」
その瞬間。
真人が困った顔になる。
「それ一番困るやつです」
結子が吹き出した。
でも。
そんな何気ないやり取りが、心地よかった。
初めて会った頃からからそうだった。
真人といると、安心する。
無理しなくていい。
ちゃんと笑える。
その日。
二人は、水族館へ行った。
結子が前に「行ってみたい」と言っていた場所。
薄暗い館内。
青い光。
ゆっくり泳ぐ魚たち。
「……綺麗」
結子が小さく呟く。
「お兄ちゃん」
「ん?」
巨大水槽の前。
結子がぽつりと聞く。
「わたし、変だった?」
「何がです?」
「お兄ちゃんとデートしたいって言ったの」
その声は、少し不安そうだった。
真人は少し考える。
そして。
静かに首を振った。
「変じゃないですよ」
「驚きましたけど」
結子が顔を上げる。
真人は優しく笑った。
「嬉しかったです」
その瞬間。
結子の胸が、ぎゅっと熱くなる。
「……そっか」
小さく笑う。
水族館を出たあと。
二人は、海沿いのカフェへ入った。
窓際の席。
柔らかな午後の日差し。
穏やかな波の音。
なんだか時間までゆっくり流れているみたいだった。
「……なんか不思議」
結子が小さく笑う。
「何がです?」
「お兄ちゃんと二人でこういうとこ来るの」
たしかに。
家族で出かけることはあっても、“二人きり”は初めてだった。
「新凪さん、こういう店好きそうですね」
真人が、自然に言った。
「……ねぇ」
結子が、ふいに真面目な顔になる。
「お兄ちゃんってさ」
「はい」
「なんでそんな優しかったの?」
その質問は、ずっと心のどこかにあった。
血も繋がってない。
義務もない。
なのに。
どうしてこんなに、自分たちを大事にしてくれたんだろう。
真人は少し考えた。
そして。
静かに笑う。
「……帰れる家にしたかったから」
「え?」
「結子ちゃんにも、新凪さんにも」
その声は穏やかだった。
「私、自分が“帰りたくない家”で育ったんで」
結子が静かに目を見開く。
「だから、せめて」
真人は少し照れた顔で続けた。
「この家は、“帰りたい場所”にしたかったんです」
その瞬間。
結子の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
ああ。
だからだったんだ。
この人といると安心する理由。
ちゃんと帰ってきていいって、ずっと態度で伝えてくれていたから。
「……ずるい」
ぽつり。
真人が首を傾げる。
「え?」
そのまま結子は黙ってしまった。
運ばれてきたパスタを前に、結子はフォークを回した。
一口食べて。
「うま」
真人は静かに微笑んだ。
結子は、笑顔を崩さないようにしながら水を飲んだ。
少し冷たい。
胸の奥まで冷えていくみたいだった。
夕方。
二人は観覧車へ乗った。
街がゆっくり遠ざかっていく。
窓の外が、オレンジ色に染まっている。
「綺麗ですね」
「うん」
結子は窓の外を見たまま、小さく頷く。
その時。
「これ、新凪さん見たら喜びそうだな」
また。
自然に。
当たり前みたいに。
新凪の名前が出る。
その瞬間。
結子の胸で、何かが静かに終わった。
ああ。
そっか。
この人が帰りたい場所は、もう決まってるんだ。
自分は、そこへ割り込めない。
割り込んじゃいけない。
だって。
ママが、あんなふうに笑えるようになったのは。
「……そっか」
「え?」
「ううん、なんでもない」
結子は笑った。
ちゃんと。
泣きそうなのを誤魔化しながら。
「ただいま」
家に帰ると結子は自分の部屋に引っ込んでしまった。
「何かあったんですか?」
「いや、特にはないと思うけど」
新凪は嫌な予感がして、部屋の前まできた。
声を殺した泣き声が微かに聞こえてきた。
そして。
「……私の方が先に好きになったのに」
新凪の胸がズキンと痛んだ。
「デート中に他の女の人の話する?普通」
ちょっと怒った声。
「新凪さん、新凪さんって」
涙声に変わっていく。
「……ママに負けちゃったよぉ」
そこから嗚咽だけが漏れてくる。
新凪は言葉を失って。
でも、どうすることもできず静かにリビングへと戻った。
その時、微かな廊下の軋む音に結子はビクッとした。
(誰かに聞かれた?)




