第一部 第6話 近づく二人
海へ行った日から。
結子は少しだけ、自分の気持ちを意識するようになっていた。
真人を見ると、胸がふわっとする。
隣にいると安心する。
褒められると嬉しい。
頭を撫でられると、変にどきどきする。
それが何なのか。
小学生の結子にも、なんとなくわかっていた。
「……好きなの?」
ある日。
学校で友達の美穂に突然聞かれた。
「へっ!?」
結子が変な声を出す。
昼休み。
図工室の前。
美穂は面白そうにニヤニヤしていた。
「最近よく話してるじゃん」
「な、なにを」
「その“真人さん”って人」
結子は一気に顔が熱くなる。
「べ、別に!」
「絶対好きじゃん」
「ちが……!」
否定しようとして。
でも、言葉が止まった。
美穂が少し目を丸くする。
「あ、マジなんだ」
「うぅ……」
結子は机へ突っ伏した。
なんだこれ。
めちゃくちゃ恥ずかしい。
でも。
好きだと思った瞬間、色んなことが急に苦しくなった。
真人は優しい。
誰にでも優しい。
でも。
ママを見る時だけ、少し違う。
結子はそれに気づいていた。
真人がママを見る目。
ママが真人を見る目。
二人だけの空気。
それを見るたび。
胸の奥がちくっとする。
ある夜。
結子はリビングで宿題をしていた。
新凪はキッチン。
真人は仕事部屋。
静かな時間。
すると。
「新凪さん」
真人がキッチンへ入っていった。
「ん?」
「この前の病院、来週またですよね」
「あ、はい」
「送ります」
その瞬間。
新凪が少し困った顔で笑う。
「大丈夫ですよ、バスで」
「いや、送ります」
さらっと言う。
でも。
その声が妙に優しい。
新凪の頬が少し赤くなる。
「……ありがとうございます」
その空気を見た瞬間。
結子の胸が、ぎゅっと苦しくなった。
わかってる。
真人とママ、お似合いだ。
ママは最近すごく笑う。
前みたいに疲れた顔ばかりしなくなった。
真人も、前より楽しそう。
三人でいる時間は、結子も大好きだ。
だから。
壊したくない。
でも。
胸が痛い。
結子は相変わらず真人の部屋へ来る。
宿題をする。
ご飯を食べる。
笑う。
ただ。
時々、真人を見る目が少しだけ切なくなった。
それを、新凪も気づいていた。
だからこそ。
その話題に触れなかった。
夏祭りの日。
「花火行きたい!」
また最初に言い出したのは結子だった。
浴衣を着て、朝からそわそわしている。
「ママ早く!」
「まだ帯終わってない!」
新凪の声が洗面所から聞こえる。
真人はリビングで待ちながら、なんとなく落ち着かなかった。
その理由は自分でもわかっている。
新凪が浴衣だからだ。
しかも。
さっきちらっと見えたのは、淡い藍色の浴衣だった。
絶対似合う。
見なくてもわかる。
だから余計に落ち着かない。
数分後。
「……ど、どうですか」
新凪がリビングへ出てきた瞬間。
真人は本気で言葉を失った。
淡い藍色の浴衣。
ゆるくまとめた髪。
白いうなじ。
柔らかい雰囲気。
全部が、あまりにも似合いすぎていた。
「……っ」
固まる。
完全停止。
新凪が不安そうに視線を揺らした。
「や、やっぱり変ですか……?」
「いや」
即答だった。
「……無理です」
「えっ!?」
「かわいいすぎる」
真顔。
新凪の顔が一気に真っ赤になる。
「そ、そういうこと普通に言わないでください……!」
横で見ていた結子が吹き出した。
「また始まった」
祭り会場。
人混み。
屋台。
提灯の灯り。
結子はりんご飴を片手に、すごい勢いで歩いていた。
「ママ見て!射的!」
「転ばないでよ!」
その後ろを歩きながら、真人はちらちら新凪を見てしまう。
浴衣姿が、本当に反則だった。
しかも。
本人があまり自覚していない。
それが余計に危ない。
すると。
すれ違った男たちが、小声で話しているのが聞こえた。
「あの人綺麗じゃね?」
その瞬間。
真人の眉がぴくっと動く。
新凪はその反応を見逃さなかった。
「……ふふ」
思わず笑う。
「また気にしてる」
「気にしてないです」
「してます」
即答。
真人が少しむっとする。
その顔が可笑しくて、新凪は肩を震わせた。
その時だった。
人混みで、新凪の足が少しもつれる。
「あっ」
次の瞬間。
真人がすぐ手を掴んだ。
「大丈夫ですか」
低い声。
近い。
心臓が跳ねる。
「だ、大丈夫……」
でも。
手は繋がれたままだった。
真人も気づいているはずなのに、離さない。
新凪の顔がじわじわ熱くなる。
「……真人さん」
「……」
「手」
「……人多いんで」
言い訳みたいな声。
でも。
耳が赤い。
新凪は思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
すると。
真人が少し困った顔をする。
「笑わないでください」
「だって」
新凪は少しだけ彼の手を握り返した。
その瞬間。
真人の肩がびくっと揺れる。
反応がわかりやすすぎる。
花火が上がる。
夜空へ大輪の光が咲く。
「わぁ……!」
結子が目を輝かせる。
その横顔を見ながら、新凪はふと思った。
幸せだ。
こんな時間が、自分の人生に来るなんて思わなかった。
離婚して。
疲れ切って。
未来なんて見えなかった頃。
まさか。
こんな風に笑える日が来るなんて。
その時。
隣から、小さな声がした。
「……よかった」
新凪が振り向く。
真人が花火を見上げながら、静かに笑っていた。
「新凪さんが笑うようになって」
その言葉に。
新凪の胸がぎゅっとなる。
涙が出そうになるくらい、嬉しかった。
だから。
気づけば、ぽろっと本音が零れていた。
「……真人さんといると」
「え?」
「幸せです」
その瞬間。
真人が固まる。
花火の音。
人混み。
夏の夜。
でも。
新凪には、隣の人しか見えなかった。
真人は数秒何も言えなかった。
それから。
少し掠れた声で、小さく呟く。
「……ずるい」
「え?」
「そんなこと言われたら、もう戻れない」
その声があまりにも真剣で。
新凪の心臓が、大きく鳴った。
花火大会の帰り道。
三人は並んで歩いていた。
でも。
空気は少しだけ違っていた。
結子は前を歩いている。
りんご飴を舐めながら、時々振り返って笑う。
その後ろを歩く新凪と真人。
二人の間には、さっきまでとは違う熱が残っていた。
「……」
新凪は、自分の胸の音がうるさくて仕方なかった。
『幸せです』
勢いで言ってしまった。
しかも。
真人は、あんな顔をした。
あんな、“抑えきれなくなりそうな顔”。
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
「ママ、顔赤い」
前から結子の声が飛んできた。
「っ!?」
新凪がびくっとする。
結子はにやにやしていた。
「わかりやすー」
「ち、違……!」
「はいはい」
完全に面白がっている。
その横で。
真人は黙ったままだった。
でも。
耳が赤い。
結子はそれを見逃さなかった。
「……両方赤いじゃん」
「結子」
「はいはい」
結子は吹き出した。
でも。
その笑顔の奥に、少しだけ寂しさが混ざっていることを、二人は気づかなかった。
【結子の観察日記】
ママとお兄ちゃん、変なの。
お互い好きがダダ漏れなのに、相手が気づいてないって思ってるんだもん。
ママの幸せそうな顔、すごく綺麗。
うまくいって欲しいな。
でも、そしたら私、一緒にいていいのかな。




