第一部 第5話 夏の海で
夏休み。
「海行きたい!」
最初に言い出したのは結子だった。
夕飯中、テレビで海水浴特集を見ながら目を輝かせている。
「いいなー!」
「元気だなぁ」
真人が苦笑する。
すると。
結子は勢いよく身を乗り出した。
「行こうよ!」
「え」
「三人で!」
新凪は箸を止めた。
海。
最後に行ったの、いつだろう。
結子がまだ小さかった頃、一度だけ行った気がする。
でも。
あの頃は余裕なんてなかった。
日焼け止め。
荷物。
お金。
周囲への気疲れ。
“楽しむ”どころじゃなかった。
すると。
「行きます?」
真人が自然に聞いてくる。
その言い方が、まるで“近所のスーパー行く?”くらい軽い。
「……え、でも」
新凪は少し言葉を濁した。
「私、水着持ってませんよ?」
そうは言ったが、本当は、別の理由で気が重かった。
三十二歳。
子どももいる。
体型だって昔みたいじゃない。
そんな自分が海なんて。
そう思うと、急に恥ずかしくなる。
「ママ、一緒に水着買いに行こう」
当日。
快晴だった。
青い海。
強い日差し。
でも。
更衣室の中で、新凪は固まっていた。
「……無理」
ぽつりと呟く。
鏡の前。
手には、白いパレオ付きのワンピース水着。
結子が選んでくれた。
露出は少ない。
でも。
それでも恥ずかしい。
「やっぱり私、外で待ってます……」
「えー!?」
結子が全力で不満そうな声を出す。
「なんで!」
「だって……」
新凪は小さく肩を縮める。
「年齢的にきついかなって……」
その瞬間。
結子が呆れた顔をした。
「ママめっちゃかわいいのに」
「お世辞いらない」
「ほんとだって!」
でも。
新凪はどうしても出られない。
鏡を見るたび、自信がなくなる。
昔よりお腹も変わった。
脚だって。
若い子と並べるわけがない。
そんなことばかり考えてしまう。
十分後。
更衣室の外から、真人の声が聞こえた。
「……新凪さん?」
「っ」
心臓が跳ねる。
「やっぱりやめようかなって……」
情けない声になった。
すると。
少しだけ間が空く。
それから。
「……見たいです」
低い声だった。
新凪は目を瞬かせる。
「え?」
「新凪さんの水着姿」
その言葉があまりにも真っ直ぐで。
冗談っぽさもなくて。
新凪の顔が一気に熱くなる。
「な、なに言って……」
「だから、出てきてください」
ずるい。
そんな風に言われたら。
断れなくなる。
数分後。
新凪は恐る恐るカーテンを開けた。
その瞬間。
真人が、本当に固まった。
「……」
白いワンピース水着。
長い髪を軽くまとめている。
露出は控えめ。
でも。
柔らかい雰囲気の新凪によく似合っていた。
真人は数秒、本気で言葉を失った。
新凪は恥ずかしくて死にそうだった。
「や、やっぱり変ですよね……」
「いや」
即答だった。
そして。
「……めちゃくちゃかわいいです」
真顔。
新凪は一気に顔を真っ赤にする。
「そ、そんな真顔で……!」
結子が後ろで吹き出した。
「はいはい、ごちそうさまー」
海へ出る。
結子はすぐ波へ突撃した。
「つめたーい!!」
はしゃぎまくっている。
その姿を見ながら、新凪は少し笑った。
「楽しそう」
「ですね」
隣で真人が答える。
でも。
どこか落ち着かない。
妙に周囲を気にしている。
新凪は首を傾げた。
「……どうしたんですか?」
「いや別に」
明らかに別にじゃない。
視線がちらちら周囲へ向いている。
その時。
近くを通った大学生グループの男たちが、小声で話しているのが聞こえた。
「あの人めっちゃ綺麗じゃね?」
「奥さんかな」
その瞬間。
真人の眉がぴくっと動いた。
新凪は、察した。
「あー……」
思わず笑ってしまう。
「気にしてるんですか?」
「……別に」
「してますよね」
真人は少しむすっとした。
その顔が妙に子どもっぽくて。
新凪は可笑しくなってしまう。
「ふふっ」
「笑わないでください」
「だって……」
新凪は少し悪戯っぽく笑った。
「そんなに心配しなくても、ちゃんと真人さんのですよ?」
その瞬間。
真人の顔が真っ赤になった。
「……っ」
「かわいい」
新凪はくすくす笑いながら、そっと彼の腕へ抱きつく。
すると。
真人がさらに困った顔になる。
「新凪さん、そういうの外でやらないでください……」
「なんでですか?」
「余計見られるから……」
完全に拗ねている。
新凪はもう笑いが止まらなかった。
その様子を。
少し離れた浮き輪の上から、結子が見ていた。
「……またやってるわ」
完全に呆れ顔である。
でも。
口元は笑っていた。
最初の頃は、二人がいちゃいちゃすると少し照れくさかった。
でも今は。
その空気が好きだった。
ママが楽しそうに笑っている。
お兄ちゃんも幸せそう。
それを見ると、自分まで安心する。
結子は浮き輪へ顎を乗せながら叫んだ。
「ママー!」
「なーにー?」
「お兄ちゃんめっちゃ独占欲出てるー!」
「結子!!」
真人が慌てる。
新凪は吹き出した。
「ほんとですねぇ」
「新凪さんまで!」
その反応が面白くて。
結子は大笑いした。
波の音。
夏の日差し。
二人の笑い声。
その景色を見ながら、結子はぼんやり思う。
――ずっとこうだったらいいのになぁ。
そんな願いが、胸の奥へ静かに沈んでいった。
【結子の観察日記】
ママ綺麗だった。
やっぱりお兄ちゃんの目が泳いでた。
洋服で目が泳ぐんだもん、水着なら当然よね。
そういう反応を期待して、選んだ水着だもん。
作戦大成功!
それにしても、ママはお兄ちゃんをちょっといじってた。
そんなことするママ、始めて見た。
新たな発見。




