第一部 第3話 頼れない女性
退院の日。
空は驚くほど青かった。
病院の外へ出た瞬間、新凪は少しだけふらついた。
「大丈夫ですか」
すぐ隣から手が伸びる。
真人だった。
反射的に支えられて、新凪は慌てる。
「す、すみません!」
「謝らなくていいです」
近い。
思ったよりずっと近くに真人の顔があって、新凪は一気に心臓がうるさくなった。
「ママだいじょうぶ?」
結子が心配そうに見上げる。
「う、うん……」
全然落ち着かない。
でも。
そのやり取りを見ていた真人が、少しだけ安心したように笑った。
その顔を見た瞬間。
新凪は妙に胸がざわついた。
真人の部屋へ着く。
玄関を開けた瞬間、結子がぱっと駆け込んでいった。
「ただいまー!」
完全に帰宅テンションだった。
真人が吹き出す。
「おかえり」
その自然な返しに。
新凪の胸が、少し熱くなる。
“ただいま”と“おかえり”。
そんな普通の言葉が、今の自分には妙に眩しかった。
「ここ、使ってください」
案内された部屋は、六畳ほどの和室だった。
シンプルだけど綺麗に整っている。
小さな棚。
カーテン。
ちゃんと“部屋”だった。
「……いいんですか」
新凪は思わず呟く。
「使ってない部屋だったんで」
「今となっては結子ちゃんの寝室みたいになっちゃってますし」
真人は本当に何でもないことみたいに言った。
でも。
新凪にはわかる。
この人は、“恩着せがましいこと”を絶対に言わない。
だから余計に、申し訳なくなる。
その日の夜。
久しぶりに、ちゃんとした夕飯を三人で囲んだ。
鮭のホイル焼き。
味噌汁。
ほうれん草のお浸し。
「うまー!」
結子が頬を緩める。
真人は少し笑った。
「病み上がりなんで、今日は軽め」
「いや十分すごいです……」
新凪は本気で感心していた。
料理。
洗濯。
掃除。
全部自然にやっている。
しかも仕事もしている。
なんなんだこの人。
自分よりよっぽど生活力あるじゃないか。
そう思ってしまう。
食後。
新凪は洗い物をしようとした。
でも。
「座っててください」
真人に止められる。
「いやでも……」
「まだ退院したばっかりですよ」
その言い方が妙に優しい。
新凪は困ってしまう。
“何もしなくていい”と言われることに慣れていない。
役に立たなきゃ。
負担にならないようにしなきゃ。
ずっとそうやって生きてきたから。
「……落ち着かないですか」
真人が、洗い物をしながら聞いた。
新凪は少し黙る。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
正直だった。
真人は少し考えてから言う。
「じゃあ、回復するのが仕事ってことで」
新凪は目を瞬かせた。
「え?」
「ちゃんと寝て、ちゃんと食べる」
さらっと言う。
でも。
その言葉が、なぜか胸へ深く刺さった。
ちゃんと寝る。
ちゃんと食べる。
そんな当たり前のことを、自分はずっと後回しにしていた。
夜。
結子は早々に寝てしまった。
病院通いと環境の変化で疲れていたのだろう。
静かになったリビング。
「新凪さん」
「はい」
「家賃のことはもう心配ないです」
「えっ?」
「それはダメです」
「そこまでは本当に迷惑かけられません!」
「新凪さん」
「さっきも言いましたが、とにかく回復することに専念してください」
「……ですが」
「私の好きにやらせてください」
そう言われると断りようがなかった。
「……ほんとに、ありがとうございます」
真人は少し困ったように笑う。
「何回目それ」
「だって……」
言葉が続かない。
感謝してもしきれない。
でも。
それ以上に怖かった。
こんなに優しくされたら、甘えてしまう。
離れられなくなってしまう。
そんな予感があった。
「……真人さんって」
新凪は少し迷ってから聞いた。
「なんでそんな優しいんですか」
その質問に。
真人は少しだけ目を伏せた。
「優しくないですよ」
「え?」
「ただ……」
数秒、間が空く。
「一人でしんどいの、わかるだけです」
その言葉が、妙に静かだった。
作った言葉じゃない。
たぶん。
本当に、知っている人の声だった。
新凪はその時、初めて思った。
この人も。
きっと、何かを抱えて生きてきたんだって。
翌朝、新凪は洗濯をしていた。
「新凪さん、まだゆっくりしていてください」
「いえ、これだけは……」
「無理しちゃダメです」
「でも……下着は恥ずかしいです」
新凪は真っ赤になりながらようやくそれだけを口にした。
「……っ」
真人も真っ赤になって、それ以上何も言えなくなってしまった。
その夜。
ベッドへ入った新凪は、なかなか眠れなかった。
静かだった。
怒鳴り声もない。
ため息もない。
“空気を悪くしないように”緊張しなくていい。
そんな家、いつぶりだろう。
隣の部屋から、かすかにキーボードの音が聞こえる。
真人はまだ仕事をしているらしい。
その音を聞いていると、不思議と安心した。
そして。
ぼんやり思う。
――この人といると、呼吸が楽だ。
その感覚が、少し怖かった。
三人暮らしが始まって、一週間。
生活は不思議なくらい自然に回っていた。
朝。
真人が先に起きる。
コーヒーの匂い。
キッチンから聞こえる包丁の音。
そのあと、結子が眠そうな顔で起きてきて。
「ねむ……」
「顔洗ってきな」
「はーい……」
そんな声が飛び交う。
新凪は最初、その光景が信じられなかった。
自分が“誰かに支えられる側”になる日が来るなんて、思っていなかったから。
「ママ、今日顔色いい!」
朝食中。
結子がぱっと笑った。
新凪はきょとんとする。
「そう?」
「うん!」
たしかに。
少しだけ体が軽かった。
ちゃんと眠れている。
ちゃんと食べている。
それだけで、人ってこんなに違うのかと思う。
でも。
同時に、妙な居心地の悪さもあった。
こんな生活に慣れてしまっていいのだろうか、と。
その日の午後。
真人は仕事部屋でオンライン会議をしていた。
英語が飛び交う。
専門用語。
高速でタイピングする音。
結子はドアの隙間から覗き込んで、目を輝かせた。
「……かっこよ」
新凪も少し驚いていた。
普段の穏やかな姿からは想像できない。
モニターへ向かう横顔は真剣で、どこか鋭かった。
仕事になると、空気が変わる。
「お兄ちゃんってすごい人なんだね」
結子が小声で言う。
新凪は静かに頷いた。
でも。
同時に思う。
こんなに若いのに。
どうしてこの人は、一人でこんな生活をしているんだろう。
夕方。
仕事を終えた真人がリビングへ戻る。
その瞬間。
「おつかれー!」
結子がソファから飛びついた。
「うおっ」
真人が慌てて受け止める。
「急に来ないで」
「えへへ」
そのやり取りを見ながら、新凪は少し笑った。
本当に懐いている。
でも。
それだけじゃない。
結子はたぶん、“安心”しているのだ。
この家で。
この人の隣で。
「今日、唐揚げ?」
キッチンから漂う匂いに、結子が目を輝かせる。
「お、わかる?」
「わかる!」
新凪はその様子を見ながら、ふと口を開いた。
「……あの」
「ん?」
「いつも、こんなに料理してたんですか?」
真人は少し考える。
「まあ、一人暮らし長いんで」
「でも普通ここまでしませんよ」
「そうですか?」
本気でわかっていない顔だった。
新凪は少し苦笑する。
この人はたぶん、“誰かのために何かする”ことを、特別だと思っていない。
自然にやってしまう。
だから余計に、ずるい。
夕飯のあと。
結子が風呂へ入っている間。
新凪は小さく頭を下げた。
「……ほんとに、ありがとうございます」
またそれか、と真人は苦笑する。
でも。
新凪は真剣だった。
「私、たぶん……かなり助けられてます」
その声が少し震えている。
真人は一瞬返事に困った。
そして。
ぽつりと呟く。
「……私もです」
「え?」
新凪が目を瞬かせる。
真人は少し視線を逸らした。
「ずっと一人だったから」
その言葉に。
新凪は何も言えなくなる。
静かな声だった。
でも。
その奥にあった“寂しさ”を、少し感じてしまったから。
その夜。
新凪はベランダへ出た。
冷たい夜風。
静かな街。
すると。
後ろから窓が開く音がした。
「寒いですよ」
真人だった。
新凪は少し笑う。
「ちょっとだけ」
数秒、沈黙。
でも、不思議と気まずくない。
そして。
新凪はふと思う。
この人の隣は、どうしてこんなに落ち着くんだろう。
その時。
「……よかった」
真人が小さく呟いた。
「え?」
「新凪さん、少し元気になって」
その声があまりにも優しくて。
新凪の胸が、どくん、と大きく鳴った。
彼女は慌てて視線を逸らす。
でも。
耳まで熱くなっているのが、自分でもわかった。
新凪が少し元気になってきた頃。
真人は、あることに気づいていた。
――服が少ない。
しかも。
ほとんどが、くたびれている。
色褪せたカーディガン。
安いTシャツ。
何年も着ていそうなパーカー。
“生活するための服”。
そんな感じだった。
最初は気にしないようにしていた。
でも。
ある日、洗濯物を畳んでいる時。
あまりにも擦り切れた袖口を見てしまって、胸が妙に苦しくなった。




