第一部 第2話 崩壊
それから数日後。
夕方。
真人が仕事をしていると、インターホンが鳴った。
モニターを見る。
そこには、ランドセルを背負った結子が立っていた。
「……あ」
思わず声が漏れる。
玄関を開けると、結子が少しだけ気まずそうに笑った。
「こんにちは……」
「こんにちは」
結子はランドセルの肩紐をぎゅっと握る。
「……来ちゃだめだった?」
その聞き方が妙に遠慮がちで。
真人は少し苦笑した。
「いや、全然」
その瞬間。
結子の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと!?」
「うん」
その反応が、なんだか小動物みたいだった。
「宿題する?」
「する!」
リビングのローテーブルへ教科書を広げる。
真人はノートを覗き込みながら聞いた。
「ここ、どこまでわかる?」
「ここまではわかる」
「じゃああとちょっとだ」
学校の先生とは違う教え方だった。
“解き方を覚える”じゃない。
“なんでそうなるか”を考えさせる。
最初は戸惑っていた結子も、それが楽しくなってきているらしい。
「あっ、わかった!」
ノートに答えを書く。
「そうそう」
「え、じゃあこれもできるかも」
「やってみる?」
数分後。
「できたぁ!!」
結子が両手を上げる。
真人は思わず笑った。
「すごいじゃん」
「えへへ」
その笑顔を見ると、妙に嬉しくなる。
その頃。
新凪は職場で時計を見ていた。
十八時四十分。
残業確定。
胸の奥が重くなる。
結子は今頃、一人で待っているだろうか。
そう思った瞬間。
スマホが震えた。
知らない番号。
少し警戒しながら出る。
「もしもし?」
『あ、真人です』
その瞬間。
肩の力が抜けた。
『結子ちゃん、今うちで宿題してます』
新凪は思わず壁へ寄りかかる。
安心したせいで、急に涙が出そうになる。
「……すみません」
『いえ』
電話越しの声は、相変わらず落ち着いていた。
『夕飯も食べさせるんで、ゆっくりで大丈夫ですよ』
その言葉に。
新凪は数秒、返事ができなかった。
“ゆっくりで大丈夫”。
そんなこと、いつぶりに言われただろう。
二十一時近く。
ようやく仕事を終えて、新凪は真人の部屋へ向かった。
インターホンを押す。
ドアが開く。
「こんばんは」
真人がいつもの静かな声で言う。
部屋の奥から、結子の笑い声が聞こえた。
その瞬間。
新凪の胸がじんわり熱くなる。
「ママー!」
結子が飛び出してくる。
「聞いて!今日めっちゃ難しい問題解けた!」
「ほんと?」
「お兄ちゃんすごいの!」
「……すみません、ほんとに」
「夕ご飯食べていってください」
「そこまで迷惑は」
「今から帰って準備するのは大変でしょう」
夕飯の後。
新凪は小さく頭を下げた。
今日も唐揚げだった。
結子が好きだから、と真人が笑っていた。
「迷惑じゃないですか」
その言葉に。
真人は少しだけ眉を下げた。
「迷惑だったら家入れてないです」
さらっと言う。
でも。
その言葉が妙に優しかった。
新凪は少しだけ視線を落とす。
真人の部屋へ来ると安心してしまう。
温かいご飯があって。
誰かの声がして。
結子が笑っている。
それが、嬉しかった。
嬉しいと思ってしまう自分が、少し怖かった。
帰り道。
結子が小さく呟く。
「お兄ちゃんの家、好き」
新凪は苦笑した。
「こら」
「だって落ち着く」
その気持ちは、少しわかる。
静かなのに、寂しくない。
変に気を遣わなくていい。
そして何より。
真人が、“頑張れ”を押しつけてこない。
それが、ひどく楽だった。
それから。
結子が真人の部屋へ来る頻度は、少しずつ増えていった。
最初は週に一度。
それが二度になり。
気づけば、ほとんど毎日のように顔を出すようになる。
「ただいまー!」
ある日、結子は完全に帰宅テンションで入ってきた。
真人は思わず吹き出す。
「おかえり」
自然にそう返していた。
その瞬間。
自分で少し驚く。
でも。
悪くなかった。
むしろ。
その言葉が、妙にしっくりきてしまった。
冬が近づき始めた頃。
新凪の顔色は、目に見えて悪くなっていた。
真人は最初、それを“疲れているだけ”だと思っていた。
でも。
最近の新凪は、明らかに無理をしていた。
笑っていても、目の下の隈が消えない。
食事中にぼんやりしていることが増えた。
時々、立ちくらみみたいにふらつく。
それなのに。
本人は絶対に「大丈夫です」と言う。
「ママ最近へん」
ある日。
宿題をしながら結子がぽつりと言った。
「へん?」
「なんか、ぼーっとしてる」
真人は少し黙る。
やっぱり、結子も気づいている。
「仕事忙しいんじゃない?」
そう返すと、結子は少しだけ唇を尖らせた。
「でもさ」
「うん」
「ママ、最近ぜんぜん寝てない」
その言葉が、妙に胸へ引っかかった。
その夜。
新凪が迎えに来た時。
真人は初めて、はっきり口にした。
「ちゃんと休んでます?」
新凪は一瞬きょとんとする。
それから、いつものように笑った。
「休んでますよ」
でも。
声に力がない。
真人は少し眉を寄せた。
「嘘ですよね」
その瞬間。
新凪の笑顔が少し止まる。
たぶん。
こんな風に見抜かれると思っていなかったのだろう。
「……大丈夫です」
少し間を置いて、また同じことを言う。
でも。
その“大丈夫”が、もう限界寸前に聞こえた。
数日後。
その日も、結子は真人の部屋へ来ていた。
「ママ、今日遅いかも」
「仕事?」
「たぶん」
時計は二十一時を回っている。
普段なら、もう迎えに来る時間だった。
真人は少し気になっていた。
すると。
二十一時三十分を過ぎた頃。
見知らぬ番号から、真人のスマホへ着信が入った。
「もしもし?」
『……あの』
女性の声だった。
少し慌てている。
『高橋新凪さんのお知り合いの方でしょうか』
真人は立ち上がった。
「……はい」
胸がざわつく。
「高橋さんが職場で倒れまして、市立総合病院に入院することになりました」
その瞬間。
頭の中が真っ白になった。
病院へ駆けつける。
結子は途中から、ずっと無言だった。
小さな手が震えている。
真人は受付を済ませ、病室を聞き出した。
そして。
カーテンを開けた瞬間。
ベッドへ横たわる新凪が見えた。
点滴。
青白い顔。
その姿を見た瞬間。
胸の奥がぎゅっと縮む。
「……ママ」
結子が泣きそうな声を出す。
その声で、新凪がゆっくり目を開けた。
「あ……」
焦点が合う。
そして。
結子と真人を見た瞬間、少しだけ安心したように息を吐いた。
「……ごめんなさい」
最初の言葉が、それだった。
真人は思わず眉を寄せる。
「なんで謝るんですか」
「だって……」
新凪の声は掠れていた。
「迷惑……」
「迷惑じゃないです」
少し強い口調になった。
自分でも驚くくらい。
新凪が目を瞬かせる。
真人は一度息を吐いてから、静かに続けた。
「ちゃんと休まないからです」
その言葉に。
新凪は少しだけ苦しそうに笑った。
「……だって、休めないから」
その声が、ひどく弱かった。
真人は返事ができなかった。
“休めない”。
その言葉の重さが、わかってしまったから。
診察結果は、過労だった。
栄養不足。
睡眠不足。
ストレス。
全部積み重なって、限界を超えたらしい。
「しばらく安静ですね」
医師の説明を聞きながら、新凪はずっと俯いていた。
たぶん。
休むことより、“働けない”ことへの不安で頭がいっぱいなのだ。
結子は、そんな母親の手をぎゅっと握っていた。
帰り道。
病院の廊下で。
結子が突然、真人の服を掴んだ。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
結子は顔を上げないまま、小さく言う。
「ママ、死なないよね」
その声が震えていた。
真人の胸が痛くなる。
彼は少ししゃがみ込んで、結子と目線を合わせた。
「大丈夫」
できるだけ穏やかに言う。
「ちゃんと休めば大丈夫だから」
結子は小さく頷いた。
でも。
その目には涙が溜まっていた。
真人は思う。
この子も、ずっと不安だったのだ。
母親が無理していること。
壊れそうなこと。
気づいていたのに、どうにもできなかった。
新凪の入院は、思ったより長引いた。
過労。
栄養不足。
睡眠障害。
「少し休めば大丈夫」というレベルではなかったらしい。
医師からは、最低でも数週間は安静と言われていた。
その間。
結子は毎日のように真人の部屋へ来ていた。
いや。
“来ていた”というより、ほとんど一緒に暮らしていた。
学校が終わる。
真人の家へ行く。
宿題をする。
病院へ行く。
夕飯を食べる。
寝る。
結子のために物置兼趣味部屋を片付けて寝れるようにした。
そんな生活だった。
「……ごめんね」
ある日。
病室で、新凪がぽつりと言った。
結子は首を傾げる。
「なにが?」
「いっぱい我慢させて」
その瞬間。
結子は少し困った顔をした。
「……別に」
でも。
本当はわかっていた。
ママがずっと無理してたこと。
疲れてたこと。
笑ってても苦しかったこと。
だから。
ママが謝ると胸が痛い。
「真人さんにも迷惑かけちゃって……」
新凪が小さく呟く。
その声に、どこか怯えが混ざっていた。
“見捨てられるかもしれない”。
そんな不安。
結子は少しむっとした。
「お兄ちゃん、そんなこと思わないよ」
「でも……」
「絶対思わない」
妙に強い言い方になった。
新凪が目を丸くする。
「……だって、お兄ちゃん、そんな人じゃないし」
病院からの帰り道。
真人は珍しく無言だった。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「ママのこと心配?」
「……まあ」
短い返事。
でも。
その声が少し重い。
数日後。
退院の日が決まった。
でも。
問題はその後だった。
働けない。
収入がない。
家賃も厳しい。
新凪は退院前日、病室で一人頭を抱えていた。
どうしよう。
本当に。
結子だけは守りたい。
でも。
現実は厳しかった。
貯金はほとんど残っていない。
休めば生活が崩れる。
働けばまた倒れる。
完全に詰んでいた。
病室へ来た真人が新凪の部屋に届いていた郵便物を届けてくれた。
その中の一通。
封筒に督促状と書かれていた。
真人は静かに。
「事情を聞いていいですか?」
「……家賃が滞ってて……」
しばらくの沈黙。
そして。
真人が、静かに言った。
「退院したあと、うち来ません?」
新凪は顔を上げた。
「……え?」
「部屋余ってるんで」
真人の部屋は3LDKだった。
一部屋は仕事部屋。
一部屋は寝室。
もう一部屋は今は結子の寝室と化していた。
でも。
新凪はすぐ首を振った。
「無理です」
反射的だった。
「そんな、迷惑……」
「迷惑じゃないです」
「でも」
「新凪さん」
真人は静かに続ける。
「今のままだと、また倒れます」
その言葉に。
新凪は何も言えなくなる。
事実だった。
わかっていた。
でも。
誰かに頼るのが怖かった。
“重荷”になるのが怖かった。
「新凪さん」
「……はい……」
消え入りそうな声だった。
「今はまず」
静かに、でもはっきりと言った。
「結子ちゃんが安心できるようにすることを真っ先に考えましょう」
新凪はハッとして顔を上げた。
結子はずっと不安だったのだ。
家で一人待つ時間。
倒れそうな母親。
苦しい生活。
全部。
子どもなりに抱えていた。
新凪はゆっくり目を閉じる。
そして。
人生で初めて、“誰かに頼る”決意をした。
「……少しだけ」
震える声で言う。
「少しだけ、甘えてもいいですか」
その瞬間。
真人は少しだけ目を細めた。
「はい」
たった一言。
でも。
その声が驚くほど優しくて。
新凪は危うく、その場で泣きそうになった。




