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安心の器  作者: 古都麿
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第一部 第1話 出会い

中学二年の六月。

その頃の真人は、“空気を読む”のが上手い子だった。

教室で悪目立ちしない。

騒がない。

でも暗すぎもしない。

先生に好かれる程度には真面目で、クラスの輪から弾かれない程度には愛想よく振る舞う。

そうやって、静かに生きていた。

別に友達がいないわけじゃない。

昼休みには何人かとゲームの話もした。

でも。

“誰かに必要とされてる”感覚は、ずっと薄かった。

真人自身、それで困ってはいなかった。

人と深く関わるのは疲れる。

適度な距離の方が楽だ。

そう思っていた。

だから最初は、本当に些細なことだったのだ。

その日の放課後。

クラスのグループLINEで、誰かが送った動画が話題になっていた。

みんな盛り上がっている。

でも、真人は気づかなかった。

風呂へ入っていたからだ。

一時間後。

スマホを見ると、通知が大量に来ていた。

適当にスタンプだけ返す。

それだけだった。

翌日。

「昨日なんで無視したの?」

クラスメイトの男子が笑いながら聞いてきた。

「いや、風呂入ってて」

「へー」

別に責められている感じではなかった。

でも。

その日から、少しずつ空気が変わった。

「真人ってさ、ノリ悪いよな」

誰かが言う。

笑い声。

「わかる」

「なんか冷めてる」

冗談っぽく。

でも確実に、棘があった。

真人は愛想笑いした。

気にしてないふりをした。

でも。

そこから、教室の空気が少しずつ変わっていく。

話しかけても返事が薄い。

席替えで近くになると、微妙な顔をされる。

グループを作る時、自然と最後に余る。

たぶん。

最初は“いじり”だった。

でも。

子どもの残酷さは、勢いづくと止まらない。

ある日の昼休み。

真人が席へ戻ると、机の中の教科書がなくなっていた。

「あれ?」

周囲を見回す。

誰も目を合わせない。

数分後。

後ろのロッカーから見つかった。

くしゃくしゃになって。

その瞬間。

教室の何人かが吹き出した。

「誰だよやったのー」

「知らねー」

笑い声。

その中心にいた男子が、真人と目を合わせてにやっと笑う。

悪意だった。

はっきりわかるくらい。

でも。

真人は何も言えなかった。

言ったら、“空気悪くするやつ”になる。

だから笑った。

「ひど」

軽く。

冗談っぽく。

そうやって流した。

でも。

心の中では、何かが少しずつ削れていた。

家へ帰る。

「おかえりー」

母親の声。

真人は「ただいま」と返し、自室へ入る。

ベッドへ倒れ込む。

スマホを見る。

クラスLINEが動いている。

通知はある。

でも。

自分宛じゃない。

急に、息苦しくなった。

なんだこれ。

なんでこんなに疲れてるんだ。

たかが学校なのに。

そこから、悪化は早かった。

無視。

陰口。

グループから外される。

物を隠される。

先生は気づいていない。

いや。

気づいていても、“よくある子どものトラブル”くらいにしか思っていなかったのかもしれない。

真人も相談しなかった。

したところで、何か変わると思えなかった。

そして。


ある朝。

玄関で靴を履こうとした瞬間。

急に、息ができなくなった。

心臓がうるさい。

吐きそう。

手が震える。

「……っ」

母親が慌てて駆け寄る。

「真人?」

でも。

声が出なかった。

学校へ行かなきゃ。

そう思うのに、体が動かない。

怖い。

教室へ行くのが。

あの空気の中へ入るのが。

「……無理」

絞り出すみたいに、そう言った。

その日から。

真人は学校へ行けなくなった。

最初の数日は、罪悪感が酷かった。

みんな普通に学校へ行っているのに。

自分だけ逃げている。

そんな気がした。

父親は露骨に不機嫌だった。

「いつまで休むんだ」

「甘えてるだけじゃないのか」

その言葉が刺さる。

でも。

学校へ行こうとすると、本当に体が動かなくなるのだ。

だから真人は、部屋へ閉じこもるようになった。

カーテンを閉める。

昼夜逆転。

誰とも話さない。

世界から切り離されたみたいだった。

ある夜。

父親が無言で、古いノートパソコンを机へ置いた。

「暇なら使え」

ぶっきらぼうに、それだけ言う。

真人は最初、動画を見るくらいにしか使っていなかった。

でも。

ある時、ネットで偶然見つけた。

『初心者向けゲームを作ってみよう』

そんな記事。

なんとなく開いた。

意味不明な英語。

見慣れないコード。

でも。

書いてある通りに打ち込んで、“▶︎実行”を押した瞬間。

画面の中で、小さなキャラクターが動いた。

「……え」

真人は目を見開いた。

自分が書いた文字で。

画面の中の世界が動いた。

その瞬間。

胸の奥で、何かが熱くなった。

それからだった。

真人は夢中になった。

昼夜を忘れてコードを書く。

動かなければ調べる。

また書く。

失敗する。

でも。

パソコンの中だけは違った。

努力した分、ちゃんと結果が出る。

人の顔色を窺わなくていい。

空気を読まなくていい。

自分の“好き”だけで進める。

その感覚が、救いだった。

やがて。

ネットへ小さなツールを公開するようになる。

最初は誰も見ない。

でも。

ある日、海外の掲示板で話題になった。

『これ便利』

『作者すごい』

『ありがとう』

画面越しの言葉。

でも。

真人は泣きそうになるくらい嬉しかった。

“必要とされた”気がしたから。

高校へ上がる頃には、真人はちょっとした有名人になっていた。

企業から依頼が来る。

報酬が発生する。

高校生なのに、普通の社会人並みに稼ぎ始めていた。

そのお金で高性能なPCを買った。

そのおかげもあり、仕事も高度になっていった。

家に居づらくなり、部屋を借りた。

でも。

現実の人付き合いは、最後まで苦手なままだった。

大学へは行かなかった。

家で仕事をする。

人と会わない。

静かな部屋。

高性能なPC。

不自由ない生活。

でも。

時々。

夜になると、どうしようもなく空虚だった。

誰にも必要とされていない感じ。

“生きている実感”が薄い感じ。

だから真人は、夕方になると散歩へ出るようになった。

スーパー。

コンビニ。

公園。

人の気配がある場所を、なんとなく歩く。

それが、“世界と繋がってる”感じがしたから。


その日も、真人はいつものようにスーパーへ向かう途中だった。

夕方の空は、少し赤く染まり始めている。

公園の横を通り過ぎようとした時。

ベンチに、小さな女の子が座っているのが見えた。

ランドセル。

膝を抱える姿。

小学校中学年くらいだろうか。

真人は一瞬だけ視線を向けて、そのまま通り過ぎた。

別に珍しい光景じゃない。

子どもが一人で遊んでいることくらい、よくある。

それに。

知らない子どもへ気軽に話しかけるのも、今の時代は難しい。

だから、その時は気にしなかった。

スーパーで買い物を終える。

唐揚げ用の鶏肉。

卵。

牛乳。

レタス。

トマト。

適当にカゴへ放り込み、セルフレジを済ませた。

帰り道。

辺りはかなり暗くなっていた。

街灯がぽつぽつ灯り始めている。

風も少し冷たい。

そして。

公園の横を通りかかった時、真人は思わず足を止めた。

まだいる。

あの女の子が。

同じベンチで。

小さく座ったまま。

「……え」

思わず声が出た。

さすがにおかしい。

もう帰らなきゃいけない時間だろう。

真人は少し迷った。

関わらない方がいい。

そう思う。

でも。

辺りは暗い。

しかも、かなり冷えてきている。

放っておくのは危ない気がした。

「……」

数秒悩んでから、真人はゆっくり近づいた。

女の子は気づいて顔を上げる。

少し警戒した目。

でも、怯えてはいない。

「……どうしたの?」

なるべく穏やかに聞く。

すると。

女の子は少し迷ってから。

「大人の男性が小学生女児に声をかける事案が発生」

真人はギョッとした。

「なんちゃって」

少女は小さく笑った。

「家の鍵、なくしちゃって」

「鍵?」

「うん」

「お母さんは?」

「お仕事」

なるほど。

真人は小さく息を吐いた。

事情はわかった。

でも。

それなら普通、誰かに助けを求めるんじゃないか。

そう思った時。

ふと、昔の自分を思い出した。

“迷惑をかけたくなくて、一人で抱え込む子ども”。

胸の奥が少し痛くなる。

「名前は?」

「結子」

「そっか」

結子は、また膝を抱えた。

「お母さん、もうすぐ帰ってくると思うから」

その言い方が妙に大人びていて。

真人は少しだけ苦笑する。

「でも寒いでしょ」

「……平気」

全然平気そうじゃない。

手も少し赤くなっている。

真人は少し考えてから言った。

「家、近い?」

結子がこくっと頷く。

案内されたアパートは、公園から歩いて数分だった。

古い二階建て。

外階段。

築年数もかなり経っていそうだ。

結子が小さく言う。

「ここ」

玄関の前。

真人は少し考え込む。

このまま待たせる?

でも寒い。

しかももう夜だ。

かといって、勝手に連れて帰るのも問題かもしれない。

数秒悩んでから、真人はスーパーでもらったレシートの裏へメモを書いた。

『結子ちゃんを預かっています。心配しないでください』

その下に、自分の住所と電話番号を書く。

「これポスト入れとくね」

結子は少し不安そうに見上げた。

「……お母さん、怒るかな」

その声が、小さく震えていた。

真人は少しだけしゃがみ込む。

「怒らないよ」

できるだけ優しく言った。

「たぶん、すごく心配する」

結子は黙って頷いた。

「ママが迎えに来るまで、うちで宿題して待とうか」

「うん」

真人の部屋へ着く。

オートロック付きのマンション。

一人暮らしには広めの3LDK。

結子は玄関へ入った瞬間、小さく目を丸くした。

「……きれい」

「物少ないだけ」

実際その通りだった。

必要最低限しか置いていない。

生活感も薄い。

人を呼ぶことなんて、ほとんどないからだ。

「適当に座ってて」

結子はソファへちょこんと座る。

ランドセルを抱えたまま。

緊張しているのがわかる。

「宿題しようか?」

「うん」

結子の顔が少しだけ明るくなる。

「ここ、なんでこうなるかわかる?」

「えっと……」

最初は遠慮気味だった結子も、勉強を始めると少しずつ表情が変わっていった。

真人の教え方は独特だった。

“答え”じゃなく、“考え方”を教える。

「この問題ってさ、何聞かれてると思う?」

「んー……」

「そこわかると簡単」

結子は数秒考えてから、ぱっと顔を上げた。

「あっ」

「わかった!」

その瞬間の顔が、びっくりするくらい嬉しそうで。

真人は少し笑ってしまった。

「飲み込み早いね」

「ほんと!?」

「うん」

結子は照れたみたいに笑った。

その顔を見た瞬間。

静かだった部屋に、少しだけ温度が生まれた気がした。

「お腹空いてない?」

勉強が一段落した頃、真人が聞く。

結子は少し遠慮してから、小さく頷いた。

「……ちょっと」

「唐揚げでいい?」

「からあげ!?」

目が輝く。

わかりやすい。

真人は吹き出しそうになる。

キッチンへ立つ。

生姜醤油で鶏肉を揉み込む。

じゅわーという油の音。

醤油と生姜の香り。

その間、結子はキッチンをじーっと見ていた。

「料理できるの?」

「まあ、一応」

「すご……」

尊敬の目だ。

真人は少し照れくさくなる。

レタスをちぎって、トマトを切って、唐揚げを盛り付ける。

「いただきます!」

揚げたての唐揚げを頬張った瞬間。

結子が目を見開いた。

「おいしい……!」

「よかった」

「お店みたい!」


それは褒めすぎだろ、と真人は思った。

でも。

誰かが自分の作ったものを食べて、こんな顔をするのを見るのは初めてだった。

胸の奥が、少し温かくなる。

その時。

インターホンが鳴った。

結子がびくっと肩を震わせる。

真人は立ち上がり、モニターを見る。

そこに映っていた女性を見た瞬間。


真人は少しだけ息を止めた。

顔色が悪い。

髪も乱れている。

それなのに。

なぜか、目が離せなかった。

「……すみません!!」

玄関を開けた瞬間、女性は深々と頭を下げた。

「結子がお世話になって……」

声が掠れている。

疲れ切っているのが、すぐわかった。

その後ろから。

「ママ!」

結子が飛び出してきた。

女性――新凪は、安心したみたいに娘を抱き締める。

「……ほんとに、すみません」

新凪は何度も頭を下げていた。

その横で、結子が小さく俯いている。

「ごめんなさい……」

「いや、結子ちゃん悪くないから」

真人は慌てて言った。

むしろ、暗くなるまで一人で待っていたことの方が気になる。

普通ならもっと騒いでもいい年齢だ。

でも。

結子はずっと、“迷惑をかけないように”していた。

その感じが、妙に胸へ引っかかった。

「……あの」

新凪が遠慮がちに口を開く。

「お食事中でしたよね」

テーブルの上には、まだ唐揚げが残っている。

真人は「ああ」と頷いた。

「すぐ帰りますので」

その言い方に。

なぜか、少し寂しそうな響きが混ざっていた。

真人は一瞬迷う。

でも。


気づけば口が動いていた。

「……たくさん作ったんで」

新凪が顔を上げる。

「よかったら、食べていきません?」

数秒。

新凪は目を丸くしたまま固まっていた。

たぶん。

“誰かの家でご飯を食べる”なんて、かなり久しぶりなんだろう。

そんな気がした。

「い、いえ、そんな……」

断ろうとする。

でも。

その瞬間。

ぐうぅぅ……

小さな音が鳴った。

沈黙。

結子が真っ赤になる。

新凪も顔を覆った。

「あああもう……!」

「……ふっ」

真人は思わず吹き出した。

「食べましょう」

真人は優しく笑った。

「今から帰って準備するのも大変でしょう

その言い方が優しすぎて。

「結子ちゃんを待たせるのも可哀想ですし」

新凪はもう断れなかった。

「おいしい……」

唐揚げを一口食べた瞬間、新凪がぽつりと呟く。

その顔が、少し驚いていた。

「ほんとにお店みたい……」

「褒めすぎです」

「いやほんとに!」

結子も全力で頷いている。

なんだこれ。

真人は妙に照れくさくなった。


でも。

誰かと一緒に食卓を囲むのは、いつぶりだろう。

しかも。

「結子、ちゃんと野菜も食べなさい」

「えー」

「えーじゃない」

そんなやり取りが、妙に心地いい。

静かだった部屋へ、“生活の音”が入ってくる感覚だった。

「広いお部屋ですね」

食後、新凪が遠慮がちに辺りを見回した。

真人の部屋は、独身男の一人暮らしにはかなり広かった。

3LDK。

一部屋は寝室。

一部屋は仕事部屋。

もう一部屋は、ほぼ物置兼趣味部屋になっている。

「一人だと持て余しません?」

新凪が少し不思議そうに聞く。

「まあ、仕事で機材多いんで」

実際、仕事部屋にはモニターが何枚も並んでいた。

サーバー機器。

配線。

高性能PC。

結子は興味津々で覗き込んでいる。

「秘密基地みたい……!」

その反応に、真人は少し笑った。

「そんな感じかも」

帰り際。

玄関で靴を履きながら、新凪がまた頭を下げた。

「本当に助かりました」

「いえ」

結子が遠慮がちに言う。

「……あの」

「ん?」

「また来てもいい?」

「ちょっと、結子!」

「いいよ、ちゃんと宿題するなら」

「する!」

真人は少しだけ考えてから言った。

「私、だいたい家にいるんで」

新凪が目を瞬かせる。

「だから、困った時は遠慮しなくていいですよ」

その瞬間。

新凪が、少しだけ泣きそうな顔をした。

でもすぐに、いつもの“ちゃんとした笑顔”を作る。

「……ありがとうございます」

その笑顔が、なぜかひどく無理をしているように見えて。

真人は胸の奥が少しざわついた。

玄関が閉まる。

静寂。

数秒前まで賑やかだった部屋が、一気に静かになった。

「……」

真人はぼんやりテーブルを見る。

三人分の皿。

飲みかけの麦茶。

さっきまで誰かが笑っていた空気。

不思議だった。

いつもなら、“静かになってホッとする”はずなのに。

今は逆に、少し寂しい。

その感覚に、自分で戸惑う。

「……なんだこれ」

小さく呟く。

でも。

答えはわからなかった。


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