三巻 第一章 一話 愛しい人
透子は夢を見ていた。
「雅さん……」
目の前に
穏やかに微笑む雅が立っていた。
「ありがとう。
私の願いを叶えてくれて。」
「いえ。
黄泉守様とあの少年を救ったのは、
あなたです。
私は何も……」
透子の言葉に、
雅はゆっくり首を振った。
「あなたがいなければ、
あの人の心は
今もずっとあそこで泣いていたわ。
私は道を示しただけ。」
雅は一歩近づくと、
透子の手を優しく両手で握った。
「ありがとう。
透子さん。」
透子は泣きそうになった。
優しく微笑む雅を見て、
胸が締め付けられる。
「私、黄泉守様が
心を取り戻して、
とても嬉しいです。
でも……」
自分の心の一部を差し出すほど、
愛していた人に
もうあの人は会えない……
透子の言わんとすることを
察した雅は
ゆっくりと首を横に振る。
「いいの。
あの人がまた笑えるようになった。」
「あの人が、
明日を楽しめるようになった。」
「それが私の、
幸せ……」
透子は堪えきれなくなり、
ぽろりと涙を零した。
「でも、
やっと心が戻ったのに……
あなたに会えないなんて……」
次々と零れる涙を、
雅は優しく手で拭ってあげた。
「そうね……
少し、寂しいわ。」
それでも雅は微笑んでいた。
「でもね。
私、悲しいとは思わない。
むしろ嬉しいわ。」
「嬉しい?」
「ええ。
あの人は私を思い出してくれた。
それだけで充分。
これで私も、あの人も、
前に進める。」
雅は透子の瞳を優しく見つめる。
「あなたが、
あの人と出会ってくれたおかげね。」
雅は繋いだ手をぎゅっと握る。
「あの人は最後に、
私を愛してくれていたってことを、
思い出してくれた。
それが、とても嬉しくて。」
雅はにこりと笑った。
「私の救いになった。
ありがとう。
透子さん。」
透子は首を振った。
「お礼なんて……」
「言わせて。
これで思い残すことは無いわ。
やっと、輪廻の輪に戻れる。」
「雅さん……」
雅は透子の涙を拭うと
ふっと笑った。
「そんな顔しないで。
またどこかで、
きっと会えるわ。」
「本当ですか?」
「ええ。
あの人が、教えてくれた。
魂は巡るもの。
だから、私は思うの。」
雅は晴れ渡る空を見上げた。
「縁も巡るわ。」
雅の顔も晴れやかだった。
「きっといつか。
それが来世なのか、
もっと先の話なのか。
分からないけれど……」
「きっとまた会えるわ。
どこかで。」
そして雅は
今までで一番の笑顔を見せた。
「透子さん。
あの人をよろしくね。」
「はい。」
「あの人、
意外と寂しがり屋なのよ。」
「ふふっ。
そうですね。」
二人でくすくす笑った。
「もう行くわ。」
「大丈夫。心配しないで。」
透子の手を離して、
雅は一歩下がる。
「またね。
透子さん。」
「はい。雅さん。
またいつか……」
二人は手を触り合った。
次第に雅は、
光に包まれていく。
「あっ、
そうだ。
透子さん。」
「なんですか?」
「それはあなたが持っていてね。」
「え?」
「きっとあなたの助けになるわ。」
透子はゆっくりと
目を開けた。
見慣れた天井だ。
ふと誰かの手の感触に、
透子は横を向く。
「起きたか……」
「黄泉守様……」
透子は繋がれたままの手に
ふっと笑みがこぼれた。
「おはようございます。」
「ああ。
おはよう。
体調はどうだ?」
男の優しさに
透子は嬉しそうに
目を細めた。
「大丈夫です。」
ぽろりと一筋の涙が
頬に伝う。
「どうした?」
不安げに問う男に、
透子は安心させるように
繋いだ手に力を込めた。
「雅さんの夢を見ました。」
男はわずかに目を開いた。
「そうか。」
「雅さん。
とても嬉しそうでした。
もう思い残すことはないって。」
「またいつか、
どこかで会えるって。」
「そうか……」
男は安堵したように、
小さく呟いた。
「あいつらしいな。」
「雅さん。
黄泉守様は意外と寂しがり屋だと
仰ってました。」
「あいつはそんなことまで
言っていたのか?」
「ふふっ。
当たっていますか?」
「さあな……」
男はぶっきらぼうに
目を逸らして呟く。
離れない手に
透子は笑みをこぼす。
「ふふっ。
当たりみたいですね。」
「お前まで、
俺をからかうのか?」
くすくすと笑う透子に、
男は手を繋いだまま、
起き上がる。
「からかってませんよ?
ふふっ。」
「からかってるだろ。」
男はムスッとして、
握っていた手を離し、
腕を組んだ。
「黄泉守様?」
「……なんだ。」
透子は目を瞬いた。
「拗ねてます?」
「何故俺が拗ねねばならん。」
「ふふっ。
拗ねてます。」
「拗ねてない……」
透子はまた新たな男の顔を見られて、
嬉しくなった。
透子はふっと優しく微笑むと、
組まれた腕を優しく解く。
「黄泉守様。
手が離れてしまいました。」
「……」
いまだに拗ねる男に、
透子は可愛いと思った。
「これでもう離れませんよ?」
透子は男の手と指を絡めた。
「……なんだこれは。」
男はわずかに目を見開く。
「えっと……
こうした方が離れないかなって。」
透子に他意はなかった。
こてんと首を傾げる透子に、
男は何故だか、
良くないことをしているような
そんな気分になった。
「透子……」
「なんですか?」
「他のものにもこうするのか?」
男は握られた手を少し上に上げる。
「え?
しませんよ?」
「俺だけか?」
「そうですね。」
「そうか……」
男は拗ねるのをやめた。
透子はまた目を瞬いた。
「黄泉守様。
機嫌は直りましたか?」
「別に
機嫌が悪かったわけではない。」
「でも拗ねてらしたでしょう?」
「だから、
拗ねてない。」
「ふふっ。」
「お前なぁ……」
男は頭をかいた。
耳がわずかに赤くなっているのに、
透子は気がついた。
照れてるわ……
でもそれは言わなかった。
言ったら
また拗ねてしまうわ。
また透子は
くすくすと笑った。
「何故笑う。」
「いえ。
なんでもありません。」
透子は笑いを堪えるが、
わずかに息が漏れる。
「笑うな……」
「笑ってません。」
「笑ってるだろ。」
「笑ってません。
ふふっ。」
「笑ってるじゃないか。」
男は呆れたように言うが、
声には優しさが滲む。
「だって、
黄泉守様の反応が
可愛いらしいから。」
「またそれか……」
男はふうと息を吐いた。
「ふふっ。
だって、わあ!」
透子が話そうとした時、
男は握った手を自分に引き寄せた。
男は手を握ったまま、
ずいっと透子に顔を近づけた。
手を握ったり、
握られたりは慣れた透子だったが、
あまりの近さにどきりとした。
「透子……」
「は、はい……」
「俺はお前が好きだ。」
「ふふっ。
私も好きですよ?」
「違う。
そうじゃない。」
「え?」
男は一度目を閉じると、
透子を射抜くように見つめた。
「お前、
ハクは好きか?」
「はい。
好きです。」
「いちは?」
「好きです。」
「猫又は?」
「好きです。」
「では、俺は?」
「もちろん、
好きですよ。」
なぜそんなに当たり前の事を
聞くのだろうかと、
透子は小首を傾げた。
「俺は、
その好きも嫌いではないが……」
男はぐっとさらに
体を引き寄せた。
透子の心臓がまたどきりと鳴る。
「俺はお前が好きだ。
お前が笑えば嬉しいし。」
「もっと声を聴きたくなる。」
「他の者にその笑顔が向くのは
面白くない。」
「触れられるのも
俺だけがいい。」
「もっと触れたいと思う。
もっと抱きしめたいと思う。」
「俺の言っている意味が
分かるか?」
透子の顔がみるみるうちに
赤くなっていく。
「そ、それは……」
男は透子の頬にかかる髪を、
そっと耳にかける。
透子の耳が赤いのを認めた男は、
ふっと笑う。
「赤いな……」
透子はとっさに俯いた。
恥ずかしい……
男に聞こえてしまうんじゃないかと
思うくらいに、
胸が高鳴っていた。
「何故俯く。
透子、俺を見ろ。」
優しく諭すように呟く男は、
そっと透子の頬に
手を添える。
顔を上げさせれば、
顔を真っ赤にして、
目を潤ませる愛しい人がそこにいた。
ああ。
そんな顔されては、
俺の身が持たんな……
「透子。
俺はお前が愛おしい。」
透子を抱く腕も、
握る手にも力が入る。
「黄泉守様……
私……」
男と透子の顔が徐々に近づく。
スパーン!
「透子様!
昨日は大丈夫でしたか?
大変酔っておら、れ、て……」
いちは襖に手をかけたまま、
固まった。
「……」
「……」
「はあ……」
男は額に手をやって
深いため息をついた。
「え?
あ?
え?」
いちはぱちぱちと瞬きをした。
「いち。」
男の低い声に、
いちはびくりと肩を震わせた。
「は、はい!」
「部屋に入る時は、
まず声をかけろ。」
「はい!
大変失礼いたしました!」
バンッと襖を閉めたいちは
駆け出した。
「きゃあああ!」
いちの悲鳴が遠退いていく。
「……」
透子は閉められた襖を見つめて、
いちに見られてしまったことに、
また顔を赤くした。
「透子?」
男の声にはっとして、
思わず布団を被った。
「……透子。」
「……」
「透子。
出てきてくれないか?」
「……無理です。」
か細い声に男は目を細めた。
「何故?」
「恥ずかしいからです……」
「何がだ?」
「何って、
全部です!」
男の自分に対する言葉も、
いちに見られたことも、
全部が恥ずかしくてたまらない。
男は目を細めて
丸まった布団に手を添えた。
「透子。
好きだ……」
ぴくっと布団が揺れる。
「俺も、恥ずかしいのだぞ。」
「えっ……」
透子はもぞもぞと布団の中から
顔を出した。
目を瞬いた先に、
目を逸らし顔をわずかに赤くする
愛おしい人が見える。
「ふふっ。
黄泉守様も?」
「なんだ……
俺だって恥ずかしい。
おかしいか?」
透子は布団から出て、
目を逸らす男の前に座った。
男はちらっと透子を見る。
「黄泉守様。」
透子は男の手をそっと取った。
「あなたが好きです。」
透子はぎゅっと手を握った。
恥ずかしくて、
胸が裂けそうなほど苦しくて
目の前の男が
愛おしいと思う。
男は目を見開いて、
透子を見つめた。
「……」
男は口をわずかに開いて、
何か言おうとするが、
言葉が出てこなかった。
「黄泉守様?」
透子の頬が色づいて、
目が潤んでいる。
瞬きをするたびに、
瞳から涙がこぼれそうだった。
「そんな顔するな……」
男は透子の頬に手を伸ばす。
冷たい指先が
頬に触れた。
「どんな顔ですか?」
「泣きそうだ。」
男は優しく透子の目元を
親指で撫でた。
「ふふっ。
黄泉守様。
好きですよ。」
「ああ。
知ってる。」
男は目を細めた。
目の前の女が
愛しくてたまらない。
「なあ、透子。」
「なんですか?」
「お前は俺をどうしたいのだ。」
「え?」
透子はきょとんと首を傾げた。
「そんな顔で、
そんなことを言う。」
「俺の身が持たん。」
「困ってます?」
透子が不安げに答える。
「……困る。」
男が眉を下げた。
「えっと……
困らしたいわけではないのですが。」
「ああ。
分かっている。」
男はがしがしと
頭をかいた。
「お前に悪気がないのも。
素直に言葉にしてくれているのも。
分かっているが……」
透子はまだ不安げだった。
「ああ。
そんな顔するな。
俺はお前の笑っている顔が好きだ。」
男はそっと透子の頬に触れた。
「お前が愛おしいんだ。
もっと触れたくなる。」
「抱きしめたくなる。」
「もっと、欲が出る。」
透子は頬に触れる手に
そっと自分の手を重ねた。
「もっと……
触れてもいいんですよ?」
男はさらに眉を下げた。
「だから、
お前は俺をどうしたいんだ。」
「もっと触れて欲しいです。」
「もっとあなたを知りたいです。」
「もっともっとって、
私も欲が出ます。」
透子は目を閉じた。
触れた手は冷たいのに、
とても熱く感じる。
ふと柔らかい感触が
唇に伝う。
それはほんの一瞬だった。
「……」
透子の胸が早鐘を打つ。
ゆっくりと目を開ければ、
男が困ったように透子を見つめていた。
男は透子に額を寄せる。
「はあ……
これでは俺の身が持たんな。」
「ふふっ。」
透子は顔を真っ赤にさせながら、
小さく笑う。
「笑うな。」
「無理です。
ふふっ。」
「透子……」
「黄泉守様。
可愛いんですもの。」
男は透子を抱き込んで、
耳元に唇を寄せた。
「それ以上言うと、
接吻だけではすまんぞ。」
男の声に痺れたように、
透子は固まった。
それでもくすりと笑いが漏れる。
「また笑うのか。」
「だって、
黄泉守様。
お耳が真っ赤ですよ。」
「……うるさい。」
「ふふっ。
私も赤いですけど。」
「知ってる。」
二人で抱き合いながら、
くすくすと笑い合った。
「黄泉守様。」
「ん?」
「幸せですね。」
「そうだな。
幸せだ。」
静かな部屋で二人、
満たされた時を過ごす。
「主様ー!
どこー??」
「ダメです!
猫又さん!
お二人の邪魔しちゃダメ!」
「二日酔いじゃぁー。
味噌汁くれー。」
「酒くれー。
向かい酒じゃ!」
「ばっか!
飲みすぎじゃ!」
「主様ー!!」
屋敷の妖たちが
遠くの方で騒いでいる。
「はあ。
騒がしいな。」
呆れつつも楽しげな男の声。
「ふふっ。
そろそろ行きますか?」
男の胸に顔を寄せていた透子は、
体を離そうと男の胸に手をつく。
男は透子を抱きしめる腕に力を入れて、
ごろりと布団に横になった。
「わあ!
黄泉守様!」
「透子。
もうひと眠りしないか?」
「駄目です。」
「何故だ。」
「もう朝です。
みんなで朝ごはんを食べて、
今日も楽しいことをしましょう?」
「ふっ。
お前は何がしたい?」
二人は見つめ合いながら、
今日は何をしようかと、
考えを巡らせる。
「あなたがいれば、
何だって楽しいです。」
ふにゃりと笑う顔に
男は堪らず唇を寄せた。
「ではもうひと眠りしよう。」
「もう!
駄目ですってば!」
「だかな。
俺が出ていけば、
また騒がしくなるぞ。」
「ふふっ。
きっとからかわれますね。」
「だから嫌なのだ。」
はあと深いため息を吐く男が
可愛くて愛おしい。
「ふふっ。
でも私、お腹が空きました。」
「では行こう。」
変わり身の速さに
透子はまたふふっと笑った。
二人は身支度を整えると、
自然と手を繋いで部屋を出た。
待ってましたとばかりに、
猫又がかけて来る。
「透子!
おはよう!」
猫の姿で透子の胸に飛び込むと、
透子の胸に擦り寄る。
「わあ!」
落としそうになりながら、
なんとか片手で抱きしめる。
男は猫又の首をむんずと掴み、
目の前にかかげた。
「主様も
おはよう。」
「……猫又、
お前は何をやっている。」
ぶらーんと男に掲げられた猫又は、
なんでもないように
男を見つめる。
「透子におはようって。」
「見れば分かる。」
「主様。
心狭すぎ。」
「なっ……!」
猫又がニヤっと笑った。
男はわなわなと肩を震わした。
「誰の心が狭いだと。」
「主かな。」
ハクが後ろでニヤニヤと笑っている。
「ハク……」
「猫又にまで嫉妬って。」
くすくす笑うハクに、
男はこめかみをぴくつかせる。
「嫉妬ではない。」
「ああ。
じゃあ焼きもちだね。」
「貴様……」
座敷の方から皆が顔を出す。
「お!
喧嘩か?」
「ははっ。
主様妬いてらっしゃる。」
「こりゃめでたい!」
「酒じゃ!
酒じゃ!」
「妬いてないと言ってるだろ!」
くいくいと
透子は男の袖を掴んだ。
「ん?
どうした?」
透子は背の高い男に、
屈んで欲しいと手招きした。
男はつられるように
透子の顔に近づく。
透子は誰にも聞かれないように、
そっと耳打ちをする。
男はぴしりと固まった。
猫又を掴んでいた手が離れる。
「にゃっ。」
すたっと猫又が着地する。
「主様?」
猫又が見上げて、
首を傾げる。
「おーい。主?」
「主様、どうした?」
「透子様?
なんと仰ったのです?」
皆頭に疑問符を浮かべる。
男の耳はみるみる赤くなっていく。
「……」
男は黙ったまま、
口元を手で隠した。
「え?
何その反応。
余計気になるじゃないか、主。」
ハクがニヤニヤとしながら、
男に近寄った。
「なんて言われたんだい?」
「うるさい!
なんでもない!」
男がハクを払い除けるように、
手を振った。
ハクはそれを笑いながら避ける。
「えー。
なんでもなくないだろ?
言ってみなよ。」
「言うわけないだろ!」
即答だった。
透子はまたちょんちょんと
袖を引っ張った。
「なんだ?」
「黄泉守様?
そんなに恥ずかしかったのですか?」
きょとんと男を見上げる透子に、
男はまた顔を赤くする。
「透子……」
「はい?」
「もう喋るな。」
困ったように眉を下げる男に、
透子はふふっと笑った。
「酷い……
私はもっとお喋りしたいのに。
あなたと。」
「……!」
男は天を仰いだ。
「主?
大丈夫かい?」
「主様?」
「黄泉守様?」
透子は繋いだ手をぎゅっと
握り直した。
男は天を仰いだまま、
額を押さえた。
「頼む、透子。」
「ん?」
「今だけは喋らないでくれ。」
「どうしてですか?」
「どうしてもだ。」
透子はむっと頬を膨らます。
「私はもっと、きゃあ!」
男は透子を抱き寄せると、
軽々と横抱きに抱えた。
「ここでお前の口、
俺ので塞いでいいのなら、
喋ってもいいぞ。」
ぼそりと耳元で呟かれた。
透子は顔を真っ赤にして、
黙り込んだ。
「……」
「……」
その場の全員が黙り込む。
「え?」
「は?」
「え?」
最初に声を出したのはいちだった。
妖たちが顔を見合わせる。
ハクはもう笑いを堪えることが
できなかった。
「あ、主。
ふっ。
今なんて言った?」
聞かずとも分かる。
皆聞こえていたのだから。
それでも聞かずにはいられない。
「……!」
男ははっとした。
透子の愛らしさに、
我慢の限界だったとは言え、
勢いに任せて、
俺は何を……!
男は皆の視線に耐えかねて、
俯いた。
「主、主。」
ハクは肩を震わせる。
「ねえ。
なんて言った?
もう一回言って。」
「うるさい!
もう言わん!」
「えーなんで。」
「うるさい!」
ハクはもう駄目だった。
こんな主を見るのは
初めてで、
面白くて。
それでいて、嬉しい。
「ぬ、主様……
私は何も聞いておりません!」
いちは頬が染まるのを、
手で隠しながら
おろおろしている。
「聞いただろう。
その反応は……」
「違います!
聞こえてしまっただけです!」
「同じことじゃないのか……」
いちはきゃあ!と
両手で顔を隠した。
「主様、顔真っ赤だよ。」
猫又は尻尾を揺らしながら笑う。
「猫又。
元はと言えばお前が!」
「主様。
心狭い。」
「まだ言うか!」
朝から笑いの絶えない屋敷に、
透子は男の腕の中でくすりと笑った。
「黄泉守様。
そろそろ下ろしてもらえますか?」
「嫌だ。」
「どうしてです?」
「どうしてもだ!」
男は若干やけになっていた。
「黄泉守様。」
「もうお前は喋るな!」
「大好きですよ。」
「なっ……」
男は固まった。
言葉につまり、
口がぱくぱく動く。
「はははっ。
もう無理。
限界。
主、もうあんたの負けだよ。」
ハクは笑いすぎて、
しゃがみ込んだ。
「いやー、めでたい!」
「主様も透子様の前では
形無しですな!」
「お前らなぁ……」
男は皆にからかわれつつも、
やはり透子を離さない。
「いちさんも。」
「ハクさんも。」
「猫又さんも。」
「妖の皆さんも。」
「みんなみーんな!
大好きです!」
そして透子はまた
男の耳に口を寄せて
小さく呟いた。
「でも黄泉守様の
好きは特別ですよ。」
「……」
男は黙り込んだ。
ピクリとも動かない。
「黄泉守様?」
「主様撃沈した。」
「これはこれは……」
「朝からお熱いですなぁ。」
男は深く息を吐いた。
「……もう無理だ。」
「え?」
「俺の負けだ……」
男は頭を垂れた。
ハクが床を叩いて
笑い転げている。
周りの者たちは
一様ににやけている。
男はもう一度深いため息をついた。
「透子。
お前は俺を殺す気なのか?」
「そんなわけ!」
透子は首を横に振る。
いたって真面目に
素直な気持ちを述べただけの透子には
分からない。
今、男がどれだけ
心打たれているのか。
どれだけ
透子を想っているのか。
透子の言葉ひとつひとつが
男をどれほど狂わしているのか。
「あの、黄泉守様?
大丈夫ですか?」
不安げに男を見つめる透子に、
男は苦笑する。
「大丈夫なわけがないだろ。」
透子はさらに不安げに眉を下げる。
「お前が愛おしくて、
どうにかなりそうだ。」
透子は顔を赤くして固まった。
「さあ、そろそろ朝飯にしよう。」
「はい……」
透子は両手で顔を隠して
ふふっと笑った。
男は透子を抱いたまま、
座敷へと向かう。
ハクたちも
わらわらと男の後を追う。
「はあ。
朝から笑いすぎて
死にそうだよ。」
「お前は笑いすぎだ!
さんざんからかいおって。」
「いや、主がいけない。」
ははっとまたハクが笑う。
「何がだ。」
「だって、
初めてだからさ。」
ハクは肩を震わせながら、
男の横を歩く。
「愛おしいなんて、
主の口から聞くとは思わなかった。」
「……うるさい。」
「長生きはするもんだねぇ。」
くすくすとハクが笑う。
男はまた小さく息を吐いた。
「黄泉守様。
今日も楽しいですね。」
「そうだな。」
だいぶ朝からからかわれたが……。
「幸せです。」
「そうか。」
「黄泉守様も。」
「そうだな。」
男はちらっと横を見る。
「こいつらもいるしな。」
男がふっと笑った。
「……主。」
ハクは小さく目を見開いた。
「それは反則だよ。」
ハクは照れたように苦笑した。
「何がだ。」
「そういうこと、
さらっと言わないでよ。
泣いちゃうだろ。」
「泣いてない。」
「いや、まあ
泣きはしないけどさ。」
ハクは目元を拭った。
「心が嬉しいって、
泣いてるんだよ。」
男はふっと笑う。
「変なやつだな。」
「主に言われたくないけど。」
ハクは腕を組んで、
思い出す。
「昔は、
笑わないし。
泣かないし。」
ハクは今の男の顔を見て、
穏やかに微笑んだ。
「それが今や、
主の惚気を聞くことになるとはね。」
「うるさいな……」
「もう拗ねないでよ。
俺は嬉しいんだよ。」
「それもこれも、
雅さんと、
透子さんのおかげだね。」
男は静かに目を閉じた。
「そうだな。」
透子は静かに
男たちの会話を聞いていた。
男の心を取り戻せて良かったと
心の底から思う。
だって、
こんなにも幸せが溢れている。
「主の子供を抱く日も近いかもね。」
「……」
「……」
男と透子は
同時に顔を真っ赤にした。
「ハク!」
「わぁ、怖い怖い。
さっ、朝飯だ!」
ハクは小走りに
男を追い越して、
座敷に入る。
「ほら早く!
主、飯が冷めてしまうよ。」
ハクはもう席に着いていた。
「あいつ……」
「主様、
早く食べましょう!」
「酒はないのか?」
「持ってきてるよー。」
「猫又でかした!」
次々に座敷に入って
各々騒ぐ妖たち。
男はやれやれと呆れるも、
頬は緩んでいた。
「黄泉守様……」
男はそっと入口で
透子を下ろす。
「ああ……
ハクが言ったことは、
まあ。
なんだ。
……気にするな。」
男の耳はまだ赤く、
透子もまだ頬が赤い。
歯切れ悪く言う男の手を、
透子はぎゅっと握った。
「でも、私……」
透子は恥ずかしげに
少し視線を逸らす。
「そんな未来も
あってもいいかなって……」
「……」
男は口元に手をやった。
本当にこの女は、
俺をどうしたいのだ……
男ははあと息を吐いた。
「透子……
それは反則だ。」
「え?」
透子は首を傾げた。
「お嫌ですか?」
「違う。
嫌なわけがあるか。」
男は眉を下げる。
「透子。
俺は、むしろ嬉しい。
嬉しいのだが……」
男が嬉しいと言った瞬間、
透子も嬉しそうに
微笑んだ。
ああ、
またそんな顔をして……
男はその大きな手で
透子の顔を隠した。
「朝からそんなことを言われると、
困る……」
透子には男の顔が見えなかったが、
声から困っているのが
良く分かった。
「ふふっ。
ごめんなさい。
困らせました。」
男は小さく息を吐いた。
「俺はそんなできた男ではないぞ。」
男はずいっと透子に顔を寄せた。
「今からお前を攫って、
部屋へ戻ろうか。」
「え?
朝ごはんは?」
透子は目を瞬く。
「後でいい。」
「駄目です。
みんな待ってますし。」
「待たせておけばいい。」
「まあ、酷い。
ふふっ。
私はお腹がぺこぺこです。」
「そうか。
では食べた後に攫うとしよう。
お前が嫌でなければな。」
「ふふ。
嫌なわけがありません。
食べた後なら。」
二人は自然と手を取り合って、
座敷に入った。
「遅いよ、主。」
「もう酒無くなったよ?
追加する?」
「主様!
早く早く!」
「まったく、
騒がしいやつらだな。
おい!
朝から飲むなと言っただろうが。」
少し遅めの
賑やかな朝餉の時間が始まった。
笑い声の絶えない屋敷。
皆が酒を取り合い
怒鳴る声。
猫又が誰かの魚を横取りし、
また誰かが笑う。
そんな様子を
隣で透子が笑って見ている。
まったく、
うるさいやつらだと思いながら。
こんな日常も悪くないと、
男は笑った。
一話 愛しい人 [完]




