二巻 終話 月だけが見ていた
夜も深くなった頃。
宴はまだまだ続いていた。
妖たちは基本、
酒に強い。
ハクも男も
まだ酔ってはいない。
しかし、酔っている者が一人。
透子はうつらうつらし始めていた。
「透子様?
眠いですか?」
いちが透子の顔を覗き込む。
透子ははっとして、
いちに顔を向けた。
「眠くないですよ。」
しかし次の瞬間には、
また船を漕ぎだす。
「あらら。
主、部屋に連れてってあげたら?」
ハクの声に、
透子はまたはっと姿勢を正した。
「眠くないですってば……」
そして、また頭が揺れる。
「そろそろ限界だな。
ほら。」
男はそう言うと、
透子に手を出した。
「もう。
まだ寝ません!」
抗議しながらも、
透子はその手を取って立ち上がる。
酔いのせいで
足元がおぼつかない。
ふらついた瞬間、
男に肩を抱かれた。
男は小さく息を吐く。
「透子。
おぶってやろうか?」
「あっ。
また子供扱いしましたね。」
拗ねて睨む透子に、
男はふっと笑った。
「自分で歩けます。」
頬を膨らませて怒る透子に、
男は苦笑した。
「そうか。
なら行くぞ。」
男は透子の手を引いて歩きだした。
「透子様、
おやすみなさい!」
いちが元気に手を振る。
他の妖たちも口々に
透子に声をかける。
「おやすみなさいませ!」
「透子様、
また一緒に飲みましょうぞ!」
透子は眠たげな顔を向けながら、
皆に手を振った。
「おやすみなさい。
皆さん。
また明日。」
ふにゃっと笑う透子の顔に、
皆、癒されていた。
「主。」
ハクが男を呼び止める。
「なんだ?」
「戻って来なくてもいいよ。」
ニヤつくハクに
男は眉を寄せた。
「どういう意味だ。」
「いや?
別に?」
ハクは笑いながら
盃を掲げた。
「行ってらっしゃい、主。」
「お前なぁ……」
「ほら主。
早くしないと、
透子さん今にも寝ちゃいそうだよ。」
「……」
透子は立ったまま、
また船を漕いでいた。
男はやれやれと、
結局透子を抱き上げる。
透子はもう抵抗しなかった。
自然と男の首に手を回した。
「ふふっ。」
透子は男の胸に頬を寄せて
小さく笑う。
「どうした?」
「黄泉守様の匂い。
安心します。」
「……」
男の肩がピクリと揺れる。
「おやおや。」
「これはこれは。」
「主様、照れてる。」
「主もなかなかやるね。
姫抱きとは……」
皆のニヤつく顔に耐えきれず、
男は声を上げた。
「うるさい!」
笑い声が屋敷に響き渡る。
「おやすみ、透子さん。」
「おやすみなさい!」
「また明日!」
「透子様!
おやすみなさい!」
皆に見送られながら、
男は座敷を後にする。
静かな廊下を進むうちに、
賑やかな笑い声が
少しずつ小さくなっていく。
「黄泉守様。」
透子の声が柔らかく響く。
「なんだ?」
「楽しかったですね。」
「そうだな。」
男の声も柔らかい。
「皆さんも、
嬉しそうでした。」
「ああ。」
「黄泉守様。」
「ん?」
「黄泉守様も、
嬉しそう。」
「そうか?」
「黄泉守様が嬉しいと、
私も嬉しいです。」
透子はふにゃっと笑って、
頭を男の胸に寄せた。
男は黙って足を止めた。
透子を抱く腕に自然と力が入った。
「黄泉守様。
私、今とっても幸せです。」
透子の嬉しそうな声に、
男はふっと口角が上がった。
「そうか。」
「黄泉守様は?」
「ん?
俺か?」
男はそっと目を閉じた。
「そうだな。
俺も、幸せだ。」
ふふっと透子が笑う。
「良かった。」
透子がぼそりと呟いた。
男は幸せを噛み締めながら、
また歩きだす。
月明かりが差す廊下に、
男の足音だけが響く。
透子は小さく欠伸をかいた。
「眠いか。」
「眠くないです。」
「嘘だな。」
「嘘じゃありません。
私はもっと黄泉守様と
お話したいです。」
男は頬が緩むのを感じた。
「話なら
明日でも良いではないか?」
「明日?」
「ああ。
明日も
明後日も
その次も。」
「たくさんお話しましょうね。」
透子は男の腕の中で、
ふふっと笑う。
「ああ。
約束しよう。」
「絶対ですよ。」
「ああ。」
透子の声が徐々に小さくなっていく。
「黄泉守様……」
「ん?」
「大好き……」
「……」
いつもより素直で、
甘える透子に、
男はどう反応していいのか
分からなかった。
「黄泉守様の匂い……
安心します……」
そう言うと、
透子はすっと力が抜けた。
「透子?」
腕の中から、
わずかに寝息が聞こえた。
「眠ってしまったか……」
自分に安心して眠った透子に、
嬉しいような、
言い逃げされたようで、
寂しいような。
なんとも言い難い気持ちを
持て余しながら、
男は透子の部屋の前で
足を止めた。
透子を起こさないように、
そっと襖を開ける。
男は静かに、
透子を布団へ寝かせた。
月明かりが差す部屋に二人。
男は黙って
淡い光に照らされる透子を見つめる。
この娘が愛おしいと思う。
男は透子の額に
そっと唇を落とした。
「俺も。
お前が好きだ……」
そう言葉にすれば、
男は胸があたたかく、
それでいて柔く痛むのを感じた。
「んっ……」
透子はわずかに身じろぐ。
男は起こしてしまったかと、
どきりとした。
透子が何かを探すように、
手を彷徨わせた。
男は優しくその手を取った。
「行かないで……」
夢でも見ているのか、
透子がぼそりと呟いた。
「ああ。
どこにも行かない。」
男が小さく呟く。
透子はほっとしたように、
わずかに微笑むと、
また微睡みの中へ戻っていく。
男は愛おしげに、
透子の髪を撫でた。
男は手を握ったまま、
透子の隣に横になった。
穏やかな寝顔を見つめていると、
なんだか自分まで眠くなってくる。
遠くから
妖たちの騒ぐ声が
わずかに聞こえてくる。
あいつら、
まだ飲んでいるのか……
男は苦笑して、
ふっと小さく息を吐いた。
明日も。
明後日も。
その次も。
笑って過ごせれば良い。
それがどれほどの幸せか、
今の男にはよく分かっていた。
それもこれも、
透子がこの屋敷に来てからだ。
変わっていく。
今まで
ただ時の過ぎるままに生きてきた。
それが少しずつ、
変わっていく。
明日が楽しみだ……
「ありがとう。
おやすみ。透子。」
男は目を細め、
眠る透子を見つめた。
男はわずかに
握る手に力を込めた。
すると、透子も自然と握り返す。
男はふっと笑うと、
瞳を閉じた。
しばらくして、
二人の寝息が聞こえてきた。
穏やかな夜が過ぎる。
そんな二人を、
月だけが見ていた。
終話 月だけが見ていた [完]
三巻へ続く




