十四話 少年と心
黄泉守は膝をつき、
頭を抱えていた。
今のは記憶だ。
俺と雅の、
在りし日の記憶。
「黄泉守様!」
透子は目の前にいきなり現れた男に、
たまらず駆け寄った。
男にはそれが、
透子の声なのか、
雅の声なのか、
分からなかった。
「主!」
ハクも声を上げて
走り寄った。
男は頭を抱えたまま、
俯き動かない。
「……それはお前が切った、
糸の記憶だよ。」
まだ幼さの残る少年のような声が
辺りに響いた。
ハクと透子は
はっと顔を上げる。
「……あなたは。」
社の中のはずなのに、
ここは一面真っ白な世界だった。
試練を突破した透子とハクは
ほぼ同時に
この空間へ飛ばされてきたのだ。
ただ白い空間に
二人は出口を探していたが、
見つからない。
そんな時に、
黄泉守が現れた。
「お前は、何者だ……」
ハクが険しい顔で
その少年を見つめていた。
そう。
少年が立っていた。
齢のほどは、
十五か六と言ったところか。
その少年は
どことなく黄泉守に似ていた。
「僕はずっと呼んでたんだ。」
少年は静かに話し始めた。
「縁の糸が切れてから
ずっとずっと。」
「誰を呼んでいたと言うんだ。」
ハクは警戒したまま、
少年に問いかけた。
「そんなの決まってる。」
少年はすっと
人差し指を黄泉守に向けた。
「あいつだよ。」
「それなのに、
あいつは全然気づかなかった。
僕のことなんか、
どうでも良かったんだ……」
ハクは訝しげに、
少年に訊ねた。
「お前、主の何なんだ?」
黄泉守をあいつと呼ぶこの少年は、
少なからず男の関係者だろう。
ハクは目の前の少年から
敵意を感じていなかった。
しかし、
いまだに動かない主を見ると、
警戒は解けない。
「僕は……」
少年は少しだけ
首を傾げた。
「僕って
いったい何なんだろうね。
よく分からない。」
困ったように眉を下げた。
「気づいた時には
ここにいたんだ。
ここには誰もいない。
糸はたくさんあるのにね……」
透子は寂しげな少年に
たまらず声をかけた。
「ねえ。あなた。
私たちが来るまで、
ずっと独りだったの?」
「うん。
そうだよ。
そいつが糸を切ったせいだ。」
少年の金色の瞳が
男に注がれる。
「僕はね。
そいつが捨てたものだよ。」
「主が捨てたもの……?」
ハクが小さく呟いた。
「うん。
そうだよ。
そいつは気づいてないみたいだけど。」
少年は男を責めるでもなく、
ただ淡々と事実を述べていた。
「主は、雅さんとの縁の糸を
切っただけじゃないのか?」
少年はぱちぱちと目を瞬いた。
「違うよ。
君たちは何も知らないでここへ来たの?」
「ここは縁の社だよ?」
少年は当たり前のように言った。
「縁断の社ではないのか?」
ハクは訝しげに問う。
「それは勝手に
誰かがつけた名前でしょ?」
ハクと透子は顔を見合せた。
「ここはね。
縁を切るだけの場所じやない。」
「縁の社だから、
縁も切れるし結びもする。
もちろん対価を払えば、だけど。」
少年はなんでもないように、
続けた。
「そいつは、
雅との糸を切るとき、
願ったんだ。」
「雅の命を守りたいって……」
透子たちはわずかに息を呑んだ。
「人ひとりの命ってなると、
対価は大きくなる。
だから僕はここにいる。
あいつが対価として支払った。」
「まあ本人は、
知らないうちに
そうなっちゃったみたいだけど。」
「黄泉守様は、
何を支払ったのですか……?」
少年は寂しげに俯く。
「僕はね。
誰かに愛されたくて。
誰かを愛したくて。
たまらないんだ。」
ハクは息を呑んだ。
「まさか……
君は……」
ハクは一拍置くと、
静かに呟いた。
「主がなくした心そのもの……」
少年は首を傾げた。
「心?
そうなのかな……
僕は愛したいし愛されたいっていう
気持ちの塊だから……
うん。
そうかもね。」
透子はいまだに動かない黄泉守を
気遣いながら、
少年に話しかけた。
「私たちは、
あなたを迎えに来たの。」
少年はきょとんとした。
「迎えに?
なぜ?」
「だってそいつは、
僕を置いて行ったんだよ。」
透子は
寂しい、
悲しい、
そんな想いを
少年から感じていた。
「黄泉守様は、
あなたを置いていこうなんて、
思ってなかったと思うの。」
「でも実際、
この三百年。
一度も来なかったじゃないか。」
少年の意見は
もっともだと思った。
それでも透子は続けた。
「雅さんを想う気持ちが、
自分の命よりも大切だったんだよ。」
「だから、
置いていかれても
仕方なかったって?」
「違うわ。
そうじゃない。」
透子はゆっくり首を振った。
「雅さんを思う心を
なくしたかったんじゃないの。
手放す気なんて
なかったはずよ。」
透子の言葉を聞いて、
少年の瞳が揺らいだ。
「じゃあなんで?
なんで僕は、ここにいるの?」
少年の声に、
それまでぴくりともしなかった
男の指が
わずかに震えた。
「ここは
対価を払わなければ
いけない場所なのでしょう?」
「そうだよ。」
「黄泉守様は願いを叶えるために
来たわけではなかったけれど、
結果的に願ったのよね?」
「うん。」
「だったら……」
透子は優しく、
少年に微笑んだ。
「あなたは捨てられたんじゃない。」
「あなたは、
黄泉守様にとって、
かけがえのない、
とても大切なものなの。」
「……」
少年は、何も答えなかった。
ただ真っ直ぐに
透子を見つめている。
その瞳は揺れている。
少年は
自身の胸がわずかに痛むのを
不思議に思った。
黄泉守は
両手をゆっくりと頭から離した。
指先が震える。
ゆっくりと、
頭を上げた。
少年と男の目が
初めて合った。
少年は静かに男を見つめた。
男も少年を見つめる。
誰も何も話さなかった。
ハクと透子は
そんな二人を黙って見つめていた。
静寂が、
辺りを包む。
白い空間に、
二人の視線が混ざり合う。
三百年という
長い歳月を経て、
少年と黄泉守の
止まっていた時が、
今まさに
動き出そうとしていた。
「……お前は、俺か。」
男が静かに問う。
少年はしばらく考えた後、
静かに答えた。
「……分からない。
でもあんたの感情から生まれた。」
少年の瞳は
わずかに揺れていた。
自分でも、
分からないのだ。
元は黄泉守の切り離された感情。
愛し愛されたいという想い。
その塊だった。
それがどうして
今の自分になったのかなんて、
少年には分からない。
「……お前は。」
男は一度目を閉じた。
そしてもう一度、
少年を見つめて、
呟いた。
「俺だ……」
少年の目が見開いた。
「俺は、
雅のことも、
お前を失っていたことすらも
全て忘れていた……」
男の声は
酷く掠れていた。
「どうして……」
男は自分の不甲斐なさに
顔を歪める。
「どうして、気づかなかった……」
「この三百年、
俺はいったい何をしていたのだ……」
少年は男を責めるでもなく、
ただじっと、
その金色の瞳に男を写していた。
「そっか……
置いていったわけじゃ、
なかったんだね。」
少年はぽつりと呟いた。
「僕は対価。
切り離されちゃ、
聞こえないか……」
少年は悲しげに微笑んだ。
男はそんな少年の顔を見て、
唇を噛んだ。
彼への罪悪感が
胸を締め付けた。
「ねえ。
聞こえなかったのに、
どうしてここへ来たの?」
男は隣で
二人の会話を見守っていた透子に
視線を向けた。
「……透子が教えてくれたんだ。」
少年の瞳が透子に向けられる。
「君が?
なんで?」
「……夢で、
助けてって声が聞こえたんです。」
何度も見たあの夢。
すすり泣く声。
そして、
助けを呼ぶ声。
透子は目を閉じた。
「あの声は、
あなただったのね。」
少年は少し驚いたように
目を瞬いた。
「僕の声が……?」
「そう。
ずっと泣いていて、
それを聞いていると、
私までとても悲しくなって。」
透子は胸を抑えた。
「助けたいって
思ったの。」
少年は透子の言葉に、
少し困ったように笑った。
「僕の声。
届いていたんだね……」
「ありがとう。
僕を探してくれて。」
少年は寂しげに微笑んでいた。
「僕の声は届いてた。
そして君たちは来てくれた。
それだけで……
充分だ。」
今にも泣いてしまいそうな
笑顔を見せる少年に、
ハクはたまらず声を上げた。
「それだけでって、
君は戻りたくないのかい?」
「……僕はもう
戻れない。」
「何故だ……」
黄泉守の声が
苦しげに響く。
「だって、
僕はあなたの願いの対価だから。
簡単には戻れない……」
「……方法はないのか?」
男が問いかけると、
少年は眉をわずかに下げた。
「僕を戻したいなら、
対価を払わなきゃいけない……」
その場にいた全員が、
沈黙した。
対価は軽くない。
それ相応の何かを
差し出さなければならない。
黄泉守の欠けた心の一部を
取り戻すには、
その対価を払う必要がある。
この社はそういう場所だ。
「待って。」
透子は静かに声を上げた。
皆の視線が透子に注がれる。
「私が、
払います……」
「何を言って……」
男は驚き、目を見開く。
「黄泉守様に
もう何かを失って欲しくありません。」
透子の決意は堅かった。
「だからと言って
透子さんが犠牲になるのは違うだろ?
何を失うのか
分からないんだよ……」
「それでも!
私は黄泉守様も
この子も!
助けたいのです!」
透子は必死だった。
「駄目だよ……」
静かな声が
透子を止めた。
「そんなの駄目だ。
僕のせいで、
君の何かがなくなるのは、
すごく悲しい……」
少年の声に、
少年の表情に、
透子は泣きそうになった。
ここまで来たのに。
この子に会えたのに。
どうすればいいの……。
透子は俯いた。
「……戻れるなら、
戻りたい。
だけど……」
少年は諦めたように、
ふっと笑った。
「誰かを犠牲にしてまで、
戻りたいとは思わない……」
「……俺は、
お前を連れて帰りたい。」
「だから!
対価を払わなきゃ、
戻れないんだよ!」
少年はもう堪えきれなくなって、
瞳に涙を浮かべて叫んだ。
「僕だって!
独りはもう嫌だ!
だけど、仕方ないだろ!」
少年の瞳から涙が零れていく。
初めてこぼした心の声は
あまりにも悲痛で、
男の心も苦しくなった。
「どうしたらいいの……」
透子は小さく呟いた。
無意識に
手の中の鈴を握りしめた。
シャラン……
「えっ……?」
その場にいた全員が
透子を見つめた。
掌の鈴を見つめる。
それは淡く光を放ち始めた。
徐々に光は強くなり、
白い空間は
眩く光り輝いていく。
「……それは。」
少年が眩しげに目を細めて
呟いた。
「これは、
雅さんが遺してくれた
呼魂鈴です。
この鈴がここまで導いてくれた……」
眩しいけれど、
あたたかい……
そんな光が皆を優しく包み込む。
「そっか。
雅が……
それはもはや、神器だよ。」
男は息を呑んだ。
三百年前に別れた雅の願い。
雅の想い。
それら全てが
縁を切られてもなお、
今も強く残っている。
ただの鈴だったものが、
神器となるほどに。
鈴は光を放ちながら、
透子の手から離れていく。
天高く宙に浮くそれは、
神々しく輝いていた。
シャラン!
一際強く鳴らした鈴は
もう目も開けていられないほど
光り輝く。
皆が目を閉じた。
白い空間には
もう何もない。
音も
光も
気配も
何もかも。
そして……
透子が目を開けた時、
見えたのは、
社の門だった。
透子は咄嗟に
辺りを見回した。
「黄泉守様!」
男は倒れていた。
透子は一目散に駆け寄った。
鈴が光った後、
何も見えなかった。
透子は焦った。
「黄泉守様!
黄泉守様!」
何度も名を呼びながら、
透子は男の肩を揺さぶった。
「んっ……」
男はゆっくりと目を開けた。
「……良かった。」
透子は男が目覚めたことに、
ひとまず安堵した。
男はゆっくりと起き上がる。
瞳が何かを探すように揺れていた。
「あいつは……」
男が少年を探しているのに
気づいた透子も辺りを見回した。
いない。
どこにも。
ハクも二人に近づきながら
少年を探した。
「いないね……」
透子は
男に抱きついた。
少年がいないのは
確かに気がかりではあったが、
男の無事が分かって
体が勝手に動いていた。
男は一瞬動けなかった。
あたたかい……
透子の温もりが
男の心を溶かしていく。
男は胸が苦しくなった。
しかし
それが嫌ではない。
むしろ心地良くも感じる。
男はそっと
透子を抱きしめた。
そうか……
これが……
『愛だよ……』
少年の声が頭の中で響いた。
「透子……」
男の声は掠れていた。
いっそう強くなる男の腕の力に
透子は、はっとした。
「黄泉守様……?」
「あいつは、消えてない……」
胸の痛みを噛み締めるように、
男は呟いた。
「あいつは、ここにいる。」
男は透子から腕を離すと、
自身の胸に手を当てた。
透子は抱きしめられて
見れなかった男の顔を、
静かに見つめた。
数秒見つめ合ったのち、
透子は小さく呟いた。
「良かった……」
透子の瞳から
ぽろぽろと涙が零れた。
その涙を、
男は優しく拭ってやる。
それでも涙は溢れてくる。
「そんなに泣くな……」
男の優しい声が
さらに涙を誘った。
透子の涙を拭いながら、
男の中に
愛しさが込み上げていた。
あの少年が戻って、
雅との記憶も蘇った。
あの愛しき日々が
あの雅の笑顔が、
そして最後の泣き顔が
ありありと
男の心を締め付ける。
今でも、
雅への愛は
確かにここにある。
確かにあれは
愛だった。
それでも、
今この時、
目の前で涙を流す
この娘が
愛しくてたまらなかった。
「透子……」
男が愛しげに
名を呼んだ。
二人の顔が
徐々に近づく。
「ンンッ……」
男ははっとして、
動きを止めた。
ハクがなんとも言えない表情で
男を見つめていた。
「……俺は目を閉じといてもいいけど。」
「……帰るぞ。」
男はバツが悪そうに
ぶっきらぼうにそう言った。
透子の手を取って
歩き出した。
「ふっ。」
ハクは小さく笑った。
「笑うな……」
男はちらりとハクを見たが、
すぐに前を向いた。
透子は
よく分からないまま
手を引かれる。
「黄泉守様?」
透子はその背中に声をかけた。
「なんだ?」
男の耳が
少し赤いような気もしたが、
透子はそれよりも
男が心配だった。
「黄泉守様の心が戻ったのは
嬉しいのですが、
本当に大丈夫ですか?
どこか変なところとか、
ありません?」
男の肩が
一瞬びくりと反応した。
「……ない。」
「本当に?」
「……ああ。」
男はそう言うものの、
耳はさっきよりも赤くなっていた。
「まあ、変なところっていうか、
これが正常っていうか……」
ハクは後ろで笑いを堪えている。
透子にはなんのことだか分からず、
小首を傾げるのだった。
十四話 少年と心 [完]




