九話 心の傷
「ハク!
ハクはいないか!」
雅を抱えたまま、
廊下を走る男は、
声を上げた。
「どうした? 主。」
いつもと違う様子の声に、
ハクは慌てて駆け寄る。
「雅さん!」
男の腕の中で
ぐったりとした雅を見て
さらに慌てた。
「早く診てくれ!」
男は初めて怖いと感じた。
雅が倒れた。
このまま目を覚まさなかったら?
このまま死んでしまったら?
人は脆い。
人は自分とは違う。
人は儚い。
男の焦る姿に、
ハクはすぐに頷いた。
「とにかく部屋へ!」
男は急ぎ部屋へ向かった。
屋敷の妖たちも、
そのざわめきに
ただならぬ空気を感じていた。
「雅様が……」
「何があったのだ?」
男は周りなど構わず、
雅を布団へ寝かせた。
ハクはまず
雅の額に手を当てた。
「熱はない。」
次に脈を測る。
「脈も異常はない。」
ハクは眉を寄せた。
「……体に異常はない。」
「どういうことだ。」
異常はないとは言うが、
現に雅はこうして倒れている。
「主……
雅さんがこうなる前、
何かあったのかい?」
男はぐっと拳を握りしめた。
「黄泉蜘蛛が現れた……」
部屋の空気が一気に冷えた。
「黄泉蜘蛛が?
あいつは罰せられただろ?」
「ああ。
何故かは分からない。
しかし、確かにあいつだった。」
妖艶に笑う女が頭を掠める。
「くそっ……!」
百年経たねば
奴は元に戻らないはずだった。
「俺の邪魔をしたい誰かが、
あいつを救ったとも言っていた……」
「主の邪魔を……。
心当たりはないのかい?」
男は考えたが、
皆目見当もつかない。
男は静かに首を振った。
「その誰かとやらが何にせよ、
雅さんがこうなった理由は
分かった。」
ハクは厳しい顔つきだった。
「何故だ。」
「黄泉蜘蛛だよ。
そいつのせいで
心の傷が露見した。」
男は眉を寄せて
唇を噛んだ。
「……治るのか。」
「……はっきりとは言えないけど。」
ハクは腕を組んで
目を瞑る。
「元凶を断てば、あるいは……」
「……黄泉蜘蛛か。」
男の瞳には怒りが滲んでいた。
「雅さんの傷は
俺らが思ってたよりも
深かったんだろうね。」
ハクは
いまだに目を覚まさない雅を見つめながら
続けた。
「元凶が消えれば、
傷そのものが消えないとしても、
これ以上傷つくことはない。」
男は眠る雅を見つめた。
安らかとはいえないその表情に、
男は悔しげに眉を寄せた。
怒りが胸の奥から
湧き出るようだった。
「俺がそばにいながら……」
黄泉蜘蛛への怒り、
自分の不甲斐なさへの
憤りが綯い交ぜになる。
男はそっと雅の手を握った。
驚くほど冷たいその手に
男は悔しげに眉を寄せた。
「黄泉蜘蛛を探す……」
静かな声だった。
「もう二度と
雅を傷つけさせない。」
「主。」
男はハクの呼びかけに答えなかった。
視線は雅に注がれたまま。
「なあ、ハクよ。」
男は
雅の頬にかかる髪を
耳へ避けてやりながら
静かに問いかけた。
「人は何故
こうも儚い……」
ハクは答えられなかった。
人の一生は短く、
長く生きてきた自分たちにも
その答えは分からない。
男は雅の手を親指で撫でた。
冷たく、小さな手。
少し力を入れれば
壊れてしまいそうだ。
「俺は、
失うのが怖い……」
男は雅の手を額に寄せた。
まるで神に祈るように。
ハクは何も言えず、
ただその姿を見ることしか
できなかった。
「雅……
俺は……」
男の声は弱々しく
部屋に溶けた。
男は目を閉じて、
しばらく動かなかった。
部屋には雅の静かな寝息だけが聞こえる。
男はそれに少しだけ
胸を撫で下ろした。
まだ、雅はここにいる。
俺は今何をしている?
今は弱音を吐いている場合じゃないだろう。
男は自分に言い聞かせた。
ゆっくりと顔を上げた男の瞳に
強い意志が宿っていた。
眠る雅の頬に
手を伸ばした。
優しく、壊れ物を扱うように
そっと撫でた。
「雅。
お前を必ず守る。」
雅の表情は変わらない。
いまだに目覚める気配もない。
「ハク。」
男はハクに向き直った。
その瞳に迷いはなかった。
「俺が戻るまで、
雅を頼む。」
「主。
一人で行くつもりか?」
ハクはわずかに眉を寄せた。
男は静かに頷いた。
「主を一人で行かせられない。
主は今、冷静じゃない。」
ハクは即答した。
「主はすぐ、
無茶をするじゃないか。
今も焦っている。」
男は少し苛ついた目で
ハクを見つめた。
「焦るに決まってるだろ。
こうしてる間に、
雅に危険が迫っているかもしれんのだぞ。」
男は苛立ちを隠しきれず、
ハクにあたった。
ハクはそんな男の心を
正面から受け止めた。
「じゃあ聞くけど、
奴を見つけた後はどうする気だい?」
「殺す。」
男は即答した。
そんな男にハクは
苦笑する。
「ほら。
冷静じゃない。」
男は眉間に皺を寄せた。
「何故笑う。」
「いや、可笑しくて笑ったんじゃないさ。」
ハクは肩をすくめた。
「主にとって、
奴を殺すなんて造作もないだろうけど。
今の主がしようとしてるのは、
雅さんのためじゃない。
自分のためさ。」
「どういう意味だ。」
男はハクを睨みつける。
「殺してどうする?
その後のことは考えたかい?」
男はどきりとした。
何も考えていなかったからだ。
「あんたは死神だろ。
魂を黄泉へ送る者だ。
殺す者じゃない。」
男ははっとした。
「復讐して、そこで終わりじゃない。
自分の利のために殺せば、
地獄行きだろ?」
男は何も言えなかった。
ハクの言葉が
胸に刺さった。
「俺だって、
腹立たしいよ。
だけど、
怒りに飲み込まれては
元も子もない。」
ハクはふうと息を吐いた。
「それに、
そんなことしてみろ。
黄泉蜘蛛の思う壷だろ。」
男は気づかぬうちに
握りしめていた拳を解いた。
手のひらに薄っすら
血が滲んでいた。
それを見て、
男は自分がいかに冷静でなかったかを
思い知らされた。
「……すまん。」
ハクは小さく苦笑した。
やっと元の主に戻ったと、
ハクはほっとした。
「主。
俺も共に行く。
それでいいかい?」
「ああ。
来てくれ。」
男はもう一度、
雅を見つめた。
「雅さんは、
いちに任そう。」
「そうだな。
いちに結界を強めるよう
言っておく。
未明、奴を探しに行く。」
「分かった。」
ハクは強く頷いた。
雅はまだ目を覚まさない。
男はもう一度、
雅の手を優しく握った。
待っててくれ。
必ずお前を救ってみせる。
男はそう心に誓った。
九話 心の傷 [完]




