七話 雅と黄泉守
黄泉守は焦っていた。
目を開けると、
透子も、
ハクも、
誰もいない。
さっきまでいた回廊でもなかった。
ここは……
「黄泉……」
誰かが倒れていた。
「透子!」
駆け寄り、
その娘を抱き起こした。
「……!」
透子ではなかった。
「……雅、なのか……?」
男の腕の中で、
娘はゆっくりと目を開けた。
その瞳は嬉しそうに
弧を描く。
黒く長い艶やかな髪。
肌は白かった。
どことなく
透子に似ていると思った。
「やっと会えた……」
雅は、そう呟くと
手をそっと
男の頬に寄せた。
男は動けなかった。
その声が、
その瞳が、
思い出せないのに、
懐かしく感じた。
胸が激しく痛んだ。
苦しい。
切ない。
忘れたくなかった。
そんな想いで
胸が締め付けられる。
「お前は……
俺の何なのだ……」
苦しげに歪む男の顔を見て、
雅は眉を下げた。
「やはり、
忘れてしまったのですね……」
男はさらに眉を寄せた。
雅は立ち上がった。
男は膝をついたまま、
雅を見上げた。
「来て。」
雅は男へ手を差し伸べた。
「どこへ。」
男は雅の手を見つめる。
それでも雅は答えない。
ただ悲しげに微笑むだけ。
「あなたが知らないうちに、
捨ててしまったものが、
待っています。」
風が吹き抜ける。
灰色が揺れる。
男は雅の手を取った。
彼岸花の紅が揺れる。
世界が揺れる。
いっそう強い風が
彼岸花の海を散らした。
男は思わず目を閉じる。
「あははっ!」
笑い声が聞こえた。
男は目を開ける。
そこは先ほどの黄泉の中ではなく、
夕暮れが広がる
屋敷の庭だった。
「黄泉守様。」
笑顔の雅が
男を見ていた。
その笑顔を見た瞬間だった。
胸の奥がざわつき、
ぎゅっと掴まれたように痛んだ。
俺は知らない。
この娘を知らない。
知らないはずなのに、
この笑顔を守りたいと、
彼女を失いたくないと、
心が叫ぶ。
「黄泉守様。
今宵はどんな月でしょうか。」
雅は茜色の空を見上げた。
男もつられて空を見た。
「満月だろう。」
男は自然と答えて
はっとした。
「では今夜は月見酒ですね。」
「そうだな。
お前は飲むなよ。」
「何故です。」
「お前はすぐに酔ってしまうだろ。」
すらすらと言葉が出る。
まるで
在りし日の記憶を辿るように。
「黄泉守様がお酒に強すぎるんです。」
「お前が弱いんだ。
おい、むくれるなよ。」
「ふふっ。」
雅は男の手を取った。
「さっ。
早く戻りましょう。
お月様が顔を出す前に。」
「ああ。」
男はふっと笑うと、
雅に手を取られたまま、
引っ張られるように
歩き始めた。
満月の下で
二人は会話を肴に
酒を飲んでいた。
「今日のお月様も綺麗ですね。」
雅は盃を両手で持ちながら
月を眺めていた。
男はそんな雅を眺めながら
酒をのんでいた。
「ああ。
綺麗だ……」
この娘が愛おしかった。
この娘を離したくなかった。
「お前は月が好きか?」
雅は男の方へ向き直ると、
目を細めて笑った。
「月は淡く光って綺麗です。
好きですよ。」
「そうか。」
「だって、
あなたの目の色と、
一緒ですから。」
男は胸が高鳴った。
そして、言葉に詰まった。
雅は素直な娘だった。
素直すぎて、
返す言葉が見つからない。
「そ、そうか……」
なんとかその言葉を口にした。
誤魔化すように
酒をあおる。
「ふふ。
今、照れましたね。」
「照れてなどいない。」
即答するも、
雅はくすくす笑って
男を見つめていた。
「でも、
今嬉しかったんじゃないですか?」
男は目を逸らす。
「ほら。
図星ですね。」
楽しそうに笑う雅。
困ったように頭をかく男。
そんな二人を、
真ん丸な月が
淡く照らしていた。
こんな、
なんでもない日常が、
ずっと続けばいいと。
二人は、
月を眺めながら願っていた。
この幸せな日々を
誰にも壊されたくなかった。
幸せはそう長くは続かない。
ある日。
雅は庭に咲く金木犀を眺めていた。
庭師のかまいたちが
手入れをしてくれるおかげで
花は綺麗に咲きほこっている。
「いい香り。」
カサッ……
葉が擦れるような音がした。
ふとそこを見ると。
「ひっ……!」
女郎蜘蛛だった。
嫌な記憶がよみがえる。
黄泉蜘蛛は小さな蜘蛛に変えられてしまった。
百年。
あの姿のままのはず。
ここにいるわけがないのに、
雅の背中に冷や汗が伝う。
雅は思わず後ずさった。
「大丈夫。
もうあの女はいないから。」
雅は口に出して、
恐怖を和らげようとした。
蜘蛛は動かない。
じっとこちらを見ている気がする。
恐い……
「雅。
どうした?」
男が異変に気づき、
駆け寄った。
「蜘蛛……
蜘蛛が……」
雅は恐怖で体が強ばる。
男はたまらず
腕の中に雅を閉じ込めた。
恐怖で震える雅の背を
優しく撫でた。
「大丈夫だ。
俺がいる。」
男は雅が落ち着くまで
雅を優しく抱きしめていた。
男は雅をなだめるのに必死で、
気づかなかった。
そんな二人を
すぐ近くで
観察するものがいたことを。
雅が蜘蛛に怯えた日から数日が過ぎた。
「黄泉守様。
お団子、買いに行きましょ!」
「お前。
街に行きたいだけだろう。」
いつもの元気を取り戻した雅に、
男はほっとしていた。
「違いますよ。
お団子が食べたいんです。」
雅はそう嘯く。
「そういうことにしといてやるよ。」
「違いますったら。」
雅はムッと頬を膨らました。
そんな顔も可愛いと思う自分がいた。
「そんな顔するなよ。
ほら、行くんだろ?
支度はしないのか?」
男が苦笑しながら、
そう言えば、
雅の顔はぱっと華やいだ。
「準備してきます!」
騒がしく
自分の部屋へ戻っていく背中を見つめる。
雅はふと立ち止まり、
振り返った。
「先に行かないでくださいよ!」
「行くわけないだろ。
お前を置いて。」
そう答えると、
雅はふわりと微笑んだ。
雅の支度を待ってから、
二人は屋敷を後にする。
「早く早く!」
雅が男の手を引く。
「そんなに急がなくとも、
団子は逃げんぞ。」
男は呆れつつも、
その手は離さない。
そんな二人の背中を、
遠くから覗くものがいた。
二人は気づかない。
木々の隙間から、
誰にも知られないように
じっと、
獲物を狙うかのごとく。
静かに、
じっと。
その目は
雅だけを見ていた。
七話 雅と黄泉守 [完]




