第9話 地下から温泉の気配?
朝の冷気の中、ログハウスのキッチンには食欲を刺激する香ばしい匂いが満ちていた。
木製の調理台の前に立ち、手早く網の上の食材を裏返す。昨日の夕食の残りである鮭の切り身だ。皮に焦げ目がつき、チリチリという微かな音を立てて金色の脂が落ちる。身の中心までふっくらと火が通ったのを確認し、皿へ移して菜箸で粗くほぐしていく。
大きめのボウルには、昨日多めに炊いておいた白飯が入っている。リーリャたちが丹精込めて育て収穫したばかりの穀物を、魔導ヒーターの緻密な温度管理で一粒一粒を立たせるように炊き上げたものだ。そこへほぐした鮭の身と、小ぶりのちりめんじゃこをたっぷりと振り入れ、しゃもじで空気を含ませるように、米粒を潰さないよう切るように混ぜ合わせる。
手に薄く塩水を引き、温かい飯をすくい取る。両の掌で優しく包み込み、しかし決して崩れない絶妙な力加減で、リズミカルに三角形へと成形していく。
傍らのコンロでは、鍋の中で出汁が静かに湯気を上げている。火を止め、水洗いしたもずくをふわりと落とす。磯の香りが立ち昇り、鰹と昆布を思わせる出汁の深い旨味と完璧に調和した。
同じく昨日のおかずの残りであるキビナゴは、表面の水分を飛ばす程度に軽く炙り直す。香ばしさが増し、小魚特有の微かな苦味が旨味へと変化している。
最後に、握りたての飯の中心に真紅の梅干しを埋め込み、大皿へと並べた。
「……よし、こんなものか」
エプロン代わりの布で手を拭き、外へ声をかける。
すぐにリーリャとエルフの難民たちが、どこか遠慮がちな、しかし期待に満ちた足取りで集まってきた。
彼らは湯気を上げる握り飯と澄まし汁を前にすると、言葉を失ったように目を瞬かせた。
「いただきます……っ」
リーリャが両手で握り飯を持ち上げ、小さく口に運ぶ。
サクッとした海苔の食感の直後、鮭の程よい塩気とちりめんじゃこの旨味が、噛むほどに米の甘みと混ざり合う。中から顔を出した梅干しの強烈な酸味が、口の中をさっぱりとリセットし、次の一口を強烈に要求してきた。
澄まし汁を一口すすれば、出汁の香りが胃の腑を温め、もずくのつるりとした喉越しが朝の冷えた身体に心地よく染み渡る。軽く炙られたキビナゴは、完璧な箸休めとして機能していた。
エルフたちは無言のまま、夢中で食事を進めている。
『……全く、私の計算した最適な栄養吸収率のグラフが、あなたの調理工程一つで完全に書き換わってるわ』
コンソールから現れたマチルダのホログラムが、呆れたように腕を組んでいた。
「人の手で火を通し、塩を当てたものの方が身体への馴染みがいい。それだけのことだ」
自身も握り飯を頬張りながら、短い言葉を返す。
食事が一段落した頃、マチルダが空中に複数の青白いウィンドウを展開した。
半透明のパネルには、地層の断層図と複雑な温度分布を示すサーモグラフィーが浮かび上がっている。
『食後のくつろぎ中に悪いけど、昨晩の地質スキャンの結果が出たわ。居住区の地下、深度約八百メートルの地点に、大規模な水脈の反応があるの』
「水脈なら、すでに井戸を引いている。これ以上汲み上げる必要はないだろう」
『ただの水脈じゃないわ。周囲の岩盤から高濃度の無機ミネラルが溶け込み、さらに地熱によって温められている。推定温度は六十五度前後。水圧も十分よ』
その言葉に、持っていた湯呑みを置く手がピタリと止まった。
「……それは、つまり」
『ええ。天然の温泉脈よ』
温泉。
その響きが、職人としての脳髄を激しく揺さぶった。
王都での生活において、湯浴みは魔導ヒーターで沸かした湯に浸かる程度のものだった。この開拓地に作った浴室も機能としては十分だが、広大な自然の中で天然の熱水に身を沈める露天風呂というロマンには及ばない。
「……マチルダ、お前のプラズマトーチの有効深度はどのくらいだ」
『せいぜい五十メートルよ。対消滅砲で撃ち抜けば温泉脈ごと蒸発するか、最悪地殻変動が起きるわね』
「分かっている。なら、下向きの掘削に特化した自律型の子機を一から作る」
腰のツールポーチから手帳を取り出し、白紙のページに素早くペンを走らせる。
「先端のドリルにかかる摩擦熱を、そのまま魔力に変換して推進力に回す。ナノマシンで外装は成形できるか」
『形状と素材によるわ。深度八百の岩盤の硬度に耐えるなら、チタン合金の基部に超硬バインダーを噛ませる必要がある。でも、熱変換回路はどうするの? 掘削の負荷変動に合わせてリアルタイムで調整しないと、モーターが焼き切れるわよ』
「動的回路は俺が直接組む。高負荷用の太い線材と接続ポートを出せ」
朝食の余韻はすでに消え去り、二人の間には張り詰めた技術者同士の空気が流れていた。
リーリャたちは邪魔をしてはいけないと悟ったのか、静かに食器を片付けて農作業へと向かっていく。
家の裏手、巨大なマチルダの機体の前で、即席のクラフトが始まった。
『ドリル基部のチタン合金、成形開始。耐熱限界値を最大に設定するわ』
マニピュレーターの先端から銀色の霧が噴霧され、空中で円錐形の巨大なドリルが削り出されていく。金属粉末が結合する微細な摩擦音が、一定のリズムで響き始めた。
その傍らで、アルドは機体の内部へ潜り込み、持ち出した古代の駆動モーターへ魔力回路を接続する。
今回はヒーターやポンプのような精密機器ではない。硬い岩盤を砕き続ける暴力的なエネルギーを制御するための回路だ。
指ほどの太さがある高純度のミスリル線を二本取り出し、互いに螺旋状に絡み合わせながら極太の魔力バイパスを構築していく。
ゴーグル越しに見える膨大な魔力の奔流を力ずくで押さえ込み、モーターの受電ポートへと直接結びつける。太い線材を曲げるためには強い物理的な握力も必要であり、アルドの額にはすぐに汗が滲んだ。
「マチルダ。出力軸のクリアランスを二ミリ広げろ。計算より熱を持つ」
『あら、ごめんなさい。でも、その魔力線の束ね方だと、第三層の折り返しで熱が滞留しない?』
「問題ない。ここは俺の魔力で直接コーティングして熱耐性を上げる。それより、掘削後の壁面を補強するポリマー樹脂の射出ノズルはどこだ」
『推進帯のすぐ後ろよ。掘ると同時に壁を固めるわ』
互いの作業領域に干渉し合い、最適な解をリアルタイムで導き出していく。言葉の応酬は短く、無駄がない。
太陽が真上に差し掛かる頃には、全長三メートルほどの無骨な円筒形の機体が完成していた。
先端には鈍く光る巨大なドリル。後部には推進用の無限軌道と、壁面補強材のタンクが備えられている。
「……接続完了。回路の抵抗値、ゼロだ」
額の汗を手の甲で拭い、レンチを腰に収める。
『駆動系のセルフチェック、オールグリーン。見事な仕事ね』
「さあ、テスト稼働といくか」
指定した掘削ポイントへ、完成したばかりのドリル戦車を移動させる。
アルドが手元のコンソールに魔力を流し込むと、機体内部から重低音が響き始めた。
先端のドリルがゆっくりと回転を始め、次第にその速度を上げる。キィィィンという甲高い金属音が鳴り響き、足元の地面が微かに震えた。
「行け」
短い命令とともに、ドリル戦車が自重と推進力で地面に突き刺さる。
硬い岩盤を紙のように削り飛ばし、あっという間に機体は地中へと姿を消した。残されたのは、綺麗にポリマー樹脂でコーティングされた、直径一メートルほどの垂直な穴だけだ。
掘削されたばかりの穴の奥からは、熱を帯びた土と樹脂の化学的な匂いが微かに立ち昇ってくる。
『掘削速度、毎分二メートル。摩擦熱の魔力変換、設計値通りに推移。……これなら、明日の朝には温泉脈へ到達するわ』
「ああ。湯を引き上げるための配管と、露天風呂の石組みの準備に取り掛かるぞ」
穴の奥から微かに響く重低音を聞きながら、アルドは次の図面を頭の中で引き始めていた。
「忙しくなるな。マチルダ、湯桶に使うための耐熱木材の合成も頼む」
『はいはい、付き合うわよ。でもその前に、しっかりお昼ご飯を食べること。いいわね?』
呆れたようなマチルダの小言を背に受けながら、アルドは足早に資材置き場へと向かった。




