第7話 その頃の王都。噴水が逆流し始めたらしい
王宮の上層にあるヴァレリウス大臣の執務室は、じっとりとした不快な熱気と、カビのような湿った匂いに満ちている。
首筋に滲んだ汗を、苛立たしげに絹のハンカチで拭う。季節はまだ初夏に入ったばかりだというのに、室内の温度は真夏の日中のように高い。壁面に埋め込まれた空調用の大型魔導石は、本来ならば涼やかな冷気を循環させ、常に適温を保っているはずだ。だが今は、ブゥンという鼓膜を圧迫するような低い唸り声を上げながら、微かな熱風すら吐き出している。
「……おい。誰かある」
重厚なマホガニーのデスクから声を上げると、控えていた従者がびくついた様子で進み出た。
「冷えたワインを持て。この部屋は暑すぎる。それに、あの耳障りな空調の音をどうにかさせろ」
「も、申し訳ございません、閣下。それが、氷室の魔導具も昨日から不調でして……氷を生成する陣がうまく起動せず、ワインが冷やせていない状態でして。空調につきましても、手配した魔導師が調整を試みているのですが、一向に改善せず……」
「ならば魔力庫から補充の魔導石を持ってきて付け替えろ。そんなことも言われねば分からんのか」
「朝一番で新品の最高級魔導石に交換したのですが、石がすぐに黒ずんでしまい……」
従者の怯えた言い訳に、ヴァレリウスは舌打ちをして羽ペンを机に投げ捨てた。
この数日、王宮内のインフラがどうもおかしい。空調の不調に始まり、夜間照明の魔力光がちらつき、一部の区画では水道の出が悪くなっているという報告まで上がってきている。
どれも致命的ではない、些細な不具合だ。しかし、日常的に最高の恩恵を享受し、清潔で快適な環境が当たり前だった王都の貴族たちにとって、少しでも環境が損なわれることは我慢ならないストレスだった。
苛立ちに任せて立ち上がり、執務室の大きな窓辺へと向かう。
眼下には、王都の象徴である白亜の広場が広がっていた。中央には巨大な女神像の噴水が鎮座し、清らかな水を陽光の下で煌めかせている。色とりどりのドレスを着た貴婦人たちが日傘を差し、優雅に談笑しながら広場を行き交う。
水と魔法の力で栄える、世界で最も美しい都市。その中枢を管理しているのは自分だという自負が、ヴァレリウスの怒りを幾分か鎮めた。たかが一部の魔導具の不調だ、魔力を注げばすぐに直る。
その時、執務室の重い扉が慌ただしくノックされた。
「入れ」
入室してきたのは、金糸の刺繍が施された真新しい魔導師のローブを着た青年だった。先月、あの地味な男を辺境へ追い払った後、新たに宮廷魔導工学師の筆頭に据えたカシウスである。
名門貴族の出身であり、広範囲を焼き払う炎熱魔法の使い手として軍部からの評価も高い。魔力量も申し分なく、誰もが筆頭の座にふさわしいと認めた男のはずだった。
だが、今のカシウスの顔に、普段の余裕は欠片も見当たらない。綺麗に撫でつけられていたはずの金髪は乱れ、青ざめた額にはべっとりと脂汗が浮いている。
「閣下! 大至急、応援の魔導師を手配していただきたいのです! それも、数十人規模で!」
「落ち着け、カシウス。何事だ。最前線で魔獣の群れでも発生したとでも言うのか」
「地下です! 第三、第四区画の浄水シリンダーの魔力圧が、今朝から急激に低下しています。このままでは王宮への給水ラインが停止します!」
地下の配管のトラブル。
その言葉を聞いた瞬間、ヴァレリウスはひどく呆れたようなため息をついた。
「なんだ、そんなことか。圧が落ちているなら、お前たちで魔力を注ぎ込めばいいだろう。インフラの維持など、魔力さえあれば誰にでもできる単純作業だ。筆頭であるお前が、たかだか配管ごときでうろたえるな」
「注いでいます! 昨夜から不眠不休で、部下たちと交代で手持ちのマナを流し込み続けています! ですが、シリンダーの魔力回路が全くマナを吸収しないのです!」
カシウスの悲痛な叫びに、ヴァレリウスはわずかに眉をひそめた。
吸収しない、とはどういうことか。魔導具というものは、魔力を流せば動く。そういう設計になっているはずだ。
「……私の目で確かめる。案内しろ」
マントを翻し、執務室を後にする。
★★★★★★★★★★★
王城の地下深くに位置する大貯水区画に足を踏み入れた瞬間、ヴァレリウスは顔をしかめて香水の染み込んだハンカチで鼻を覆った。
以前、あの男――アルドが管理していた頃の地下は、静かで冷やりとした空気が保たれていたはずだ。だが今の区画は、耳障りな魔力の破裂音と、うだるような熱気、そしてカビと汚泥の入り混じった強烈な異臭が充満している。
そびえ立つ巨大な浄水シリンダーの前では、十数人の魔導工学師たちが杖や手を突き出し、必死の形相で魔力を放ち続けていた。
だが、その光景は異様だった。
彼らの手から放たれた強烈なマナの奔流は、シリンダーの表面に刻まれた魔力回路へ吸い込まれることなく、その表面でバチバチと火花を散らして弾け飛んでいる。吸収されなかった魔力が熱に変換され、シリンダー全体が異常な高温を発し、触れれば火傷を負うほどの熱気を放っていた。
「何をしている! もっと正確に回路へ流し込まんか!」
ヴァレリウスの怒声に、魔導師の一人が血走った目で振り返った。
「入りません……! 弾かれます!」
「弾かれるだと? 馬鹿なことを言うな!」
ヴァレリウスは自らシリンダーのそばへ寄り、表面の回路を睨みつけた。
肉眼ではよく見えない。ただの引っ掻き傷のような浅い溝があるだけだ。だが、よく見るとその溝のあちこちが黒く焦げ、断線しているように見える。
「カシウス。前任者の残した引継ぎ資料はどうなっている。修理の手順が書かれているはずだろう」
「読みました! 何度も読みましたが、意味がわかりません! 『回路の摩耗を視認し、十分の一ミリ単位でマナを編んで修復すること』などと、到底不可能な戯言が羅列されているだけです!」
「十分の一ミリだと?」
「無理です! こんな目に見えない溝にマナを流し込むなど、できっこありません! 我々が注いだ魔力は回路から溢れ、かえって溝を焼き切ってしまいます!」
カシウスの声が、絶望に震えていた。
彼らには理解できていない。自分たちが良かれと思って叩き込んだ膨大な魔力が、繊細な回路を完全に破壊し尽くしているという事実を。ただ「魔力さえあれば動く」と信じ、力任せにマナを注ぎ続けた結果、シリンダーは修復不可能な状態へと陥っていた。
キィィィン、という耳をつんざくような高周波の警報音が地下に鳴り響く。
「か、閣下! シリンダーの圧力制御弁が、限界を突破しました……!」
「止めろ! 魔力の注入を今すぐ止めろ!」
ヴァレリウスが叫んだが、遅かった。
金属のひしゃげるような破裂音とともに、シリンダーの側面にあった安全弁が吹き飛んだ。
行き場を失った莫大な水圧と魔力が、浄化される前の毒素を含んだ泥水ごと、上水道のメインパイプへ向かって凄まじい勢いで押し寄せていく。
「駄目です! 王宮と貴族街のラインに、汚水が……ッ!」
絶叫が響き渡る中、太い配管が悲鳴を上げ、足元の石畳が激しく震動した。
★★★★★★★★★★★
地上。白亜の噴水広場。
初夏の日差しを楽しむため、着飾った貴族たちや市民が多く集まっていた。
美しい放物線を描いていた女神像の噴水が、突如としてゴボッ、という異音とともに息継ぎをした。
水流が数秒間途絶え、広場にどよめきが広がる。
次の瞬間だった。
女神像の口と、周囲の吐水口から、ドス黒い泥水が間欠泉のように猛烈な勢いで噴き出した。
「キャアアアアッ!?」
「な、なんだこれは! 臭いぞ!」
未浄化の鉱物毒と、王都中の汚物が混ざり合った悪臭を放つヘドロが、空高く打ち上げられ、美しい石畳と貴族たちのドレスの上に容赦なく降り注ぐ。絹のドレスが黒く染まり、羽飾りのついた帽子が泥水に沈んでいく。
さらに、広場に面した高級レストランや貴族の館の窓からも、次々と悲鳴が上がり始めた。
水道の蛇口という蛇口から、あるいは魔導水洗式のトイレから、どす黒い汚水が溢れ出し、室内を水浸しにしている。窓を突き破って流れ出た濁流が、通りを歩く人々を押し流していく。
広場は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
人々は泥水に塗れながら逃げ惑い、驚いた馬が暴れて馬車は横転し、汚泥が美しい白亜の街並みを黒く塗り潰していく。誰もが鼻をつく悪臭にむせ返り、かつての優雅な景観は完全に失われた。
★★★★★★★★★★★
地下貯水区画の配管室で、ヴァレリウスは膝から崩れ落ちていた。
吹き飛んだ配管から飛沫を浴び、豪奢なローブは見る影もなく泥とカビに汚れている。
警報音が鳴り続ける中、カシウスをはじめとする魔導師たちは、濁流を止めるすべを持たずにただ右往左往するしかなかった。火の玉を撃ち出す能力など、今のこの状況では何の役にも立たない。
「なぜだ……ただの配管だろう。魔力を流せば、元通り動くはずだろうが……!」
震える手で石畳を叩きながら、ヴァレリウスは虚ろな目で呻いた。
彼には理解できない。なぜ、あの地味な男がいなくなっただけで、これほど巨大なインフラがたった数週間で崩壊したのか。
魔力量ならカシウスたちの方が圧倒的に上のはずだ。軍部も認める優秀な魔導師を何十人も集めたのに、なぜただの泥水を止めることすらできないのか。
「誰か……誰か、あの配管を直せる奴を連れてこい! 筆頭だろうが、カシウス! お前がどうにかしろ!」
泥水にまみれながら、ヴァレリウスは無様に喚き散らす。
だが、カシウスも他の魔導師たちも、溢れ出す汚水から逃げるように後退りするばかりで、誰一人として配管に近づこうとはしない。彼らの顔にあるのは、未知の崩壊に対する純粋な恐怖だけだった。
「おい、聞いてるのか! このままでは王宮が……私の執務室が泥水に沈むぞ! 誰か、早く何とかしろ!」
彼の怒声は、濁流の轟音と鳴り止まない警報音にかき消され、誰の耳にも届くことはない。
冷たく湿った地下空間で、ヴァレリウスはただ一人、迫り来る汚泥の中で意味のない命令を叫び続けていた。




