第3話 初心者歓迎、ただし命の保証なし ――白磁のおっさん、生存講習を受ける――
クエストから戻った主人公は、ようやくこの酒場の基本ルールを聞かされます。
ただし、説明してくれる側もかなり雑。
初心者歓迎。命の保証は、ありません。
ギルド酒場の朝は、だいたい音から始まる。
グラスの触れ合う音。
遠隔操作用の軽量キャラクター同士が、ジョッキをぶつけ合う乾いた音。
そして――クエストボードが張り替えられる音だ。
ぎぎっ、と古い木板が軋む。
紙の依頼書が、何もない空間から一枚ずつ現れ、板に貼り付いていく。
アナログだ。
この世界、HUDだのダイブだの妙にハイテクなくせに、肝心なところが木と紙でできている。
「……今日は、ひどいな」
俺はカウンターの内側から、掲示板を見上げていた。
《スライムを三匹倒せ》
《制限時間:なし》
《失敗条件:HPがゼロになる》
「失敗条件、それだけかよ……」
文字は少ない。説明もない。その隣には、さらに露骨な札が並んでいる。
《ゴブリンを一匹倒せ》――報酬:50G
《ゴブリンを十匹倒せ》――報酬:55G
「十倍働いて五Gしか増えないの、労基に怒られろ」
「労基はこの世界にないよ」
受付のイツキが、頬杖をついたまま言った。
「じゃあこの世界は終わってる」
「終わってるから、ここに流れ着くんじゃん」
軽い口調なのに、返ってきた言葉は重かった。
俺が黙ると、隣でミツキが慌てて帳簿を抱え直した。
「えっと……まずは基本説明からですね。冒険者には等級があります。下から白磁、黒曜、鋼鉄、青玉、翠玉、紅玉、銅、銀、金、白金です」
「多いな」
「多いですね」
「そこは否定してほしかった」
ミツキは申し訳なさそうに笑う。
「等級は、単純な強さだけではありません。ギルドへの貢献、クエスト成功率、帰還率、判断力、あと……」
「あと?」
「死ににくさ、です」
言葉が止まった。
死ににくさ。
この酒場では、それが評価項目になるらしい。
昨夜見た死体袋が、また脳裏に浮かぶ。
「ちなみに俺は?」
ミツキが端末を見る。
「暫定で白磁未満です」
「未満」
イツキが遠慮なく笑った。
「正式登録前のチュートリアルおじさんって感じ」
「嫌な称号つけるな」
その時、カウンター横の席から低い声が飛んできた。
「白磁未満なら、外へ出るな」
声の主は、ドワーフの男だった。
背は低いが、肩幅が異様に広い。髭には煤が混じり、腕には古い傷がいくつも走っている。
「ガロだ」
男は名乗ると、木製のジョッキを傾けた。
「ここで生き残りたいなら、強くなるより先に、戻り方を覚えろ」
「戻り方?」
「勝って帰るな。生きて帰れ。勝利と帰還は違う」
言い方はぶっきらぼうだが、妙に説得力がある。
その反対側では、カウンターに突っ伏した女が、気だるげに手を振った。
「ミーナ。面倒だから説明はガロに任せる」
「初対面の自己紹介がそれでいいのか」
「生きてたら、そのうち分かるわよ」
あわせて、ミーナから少し離れた梁に立っている冒険者風の若い男が手を挙げた。黒髪で顔が隠れていてあまりよく見えないが、端正な顔をしている。
「俺はシンだ......」その言葉はまるでいくつもの戦場を駆け巡ったような重圧さを感じさせた。
さらに、剣を抱えた少年が慌てて立ち上がる。
「ノ、ノエルです! 白磁等級です! 僕もまだ新人なので、一緒に頑張りましょう!」
まぶしい。
まっすぐすぎる。
四十二歳無職の心に、若者の光は少し痛い。
「よろしくな。俺は……」
言いかけて、また止まった。
名前がない。
ノエルが困った顔をしたところで、イツキがひらひら手を振る。
「この人はNO NAME。呼びづらいから、昨日から仮でマスター」
「マスター?」
「酒場に転がってきたおっさんで、謎の通信にマスターって呼ばれてたっぽいから」
「そこ拾うのやめろ」
言い返した瞬間、視界の端でHUDが小さく明滅した。
【仮登録処理を開始】
【識別名:NO NAME】
【通称登録候補:マスター】
【登録しますか?】
「……なんで候補がそれなんだよ」
俺が思わず呟くと、イツキが帳簿から顔を上げた。
「だって、NO NAMEって呼びにくいじゃん」
「それはそうだけど」
「あと、あの謎通信の子も、そう呼んでたんでしょ?」
言葉に詰まった。
白い空間で見た少女。
スライム草原で聞こえた声。
ノイズ混じりの向こうから、何度も俺を呼んだ言葉。
マスター。
俺の本当の名前ではない。
たぶん、きっと違う。
でも、この世界で最初に俺を呼んだ音だった。
ノエルが、少し緊張した顔でこちらを見る。
「えっと……じゃあ、僕もそう呼んでいいですか?」
「いや、そんな改まって聞かれると重いな」
「だめ、ですか?」
「……だめじゃない」
俺は頭をかいた。
名前はない。
強くもない。
この世界のことも、まだ何も分からない。
けれど、呼ばれなければ返事もできない。
返事ができなければ、戻ってくる場所も分からない。
「分かったよ」
俺はHUDを睨みながら、短く息を吐いた。
「本名を思い出すまでだ。仮でいい」
【通称登録:マスター】
【識別名:NO NAME】
【酒場内呼称:マスター】
イツキがにやっと笑った。
「はい、決まり。ようこそ、マスター」
ミツキが胸の前で手を合わせる。
「よろしくお願いします、マスターさん」
ノエルも、少しだけ嬉しそうに背筋を伸ばした。
「よろしくお願いします、マスターさん!」
「だから、重いって」
そう言いながら、俺は胸の奥に残った違和感を飲み込んだ。
名前はまだない。
けれど、この酒場で呼ばれるための音だけは、ひとつできた。
マスター。
どうにも照れくさくて、どうにも逃げられない、俺の仮の名前だった。
――――
酒場の奥から、軽快な効果音が鳴った。
赤い帽子に作業服姿の男が、ジョッキを掲げている。隣では青い装甲の戦士が、腕の砲身から湯気を立てながら肉を咀嚼していた。
「……なあ、あれは?」
「遠隔操作用のAIキャラ、またはゲームキャラ端末ですね」
ミツキが説明する。
「冒険者の中には、肉体ではなく、ああした軽量キャラクターを通してクエストに参加する人もいます。酒場内では処理負荷を抑えるため、レトロモデルでいる方が多いんです」
「処理負荷って、居酒屋で聞く言葉じゃないんだよ」
俺が突っ込むと、青い装甲の戦士が淡々と答えた。
「エネルギー変換効率は、飲食経路によって大差ない」
「名言っぽく言うな」
笑いが起きる。
怖い場所なのに、笑いはある。
その笑いに混じって、天井近くから、ぱきり、と魚の骨を噛むような音がした。
見上げると、梁の上に黒い影が一つ座っていた。
黒髪。猫耳。赤と黒を基調にした、やたら目立つメイド服。
女は焼き魚の串を片手に、しれっと尻尾を揺らしている。
「ムーニャン! また厨房の魚を勝手に持っていったでしょ!」
ミツキの声が飛ぶ。
「持ってないアル。これは戦利品ニャ」
「厨房から取った時点で盗品です!」
「細かいこと気にすると、しっぽ抜けるネ」
「抜けません!」
猫耳メイドは悪びれもせず、魚をひと口で平らげた。
その爪だけが、妙に鋭く光っている。
「……なあ、あれも遠隔操作用のゲームキャラか?」
俺が聞くと、ミツキは一瞬だけ視線を逸らした。
「ええと……ムーニャンさんは、少し説明が難しい方です」
「難しい方」
「味方ではあります。たぶん」
「たぶんって言ったな、今」
ノエルが小声で、俺の袖を引いた。
「あ、あの、マスターさん。ムーニャンさん、ああ見えて鋼鉄等級です」
「鋼鉄?」
「白磁の上が黒曜、その上が鋼鉄です。僕ら新人から見ると、完全に格上の冒険者ですね」
俺はもう一度、梁の上を見た。
魚の串をくわえた猫耳メイドが、尻尾を揺らしながらこちらに手を振っている。
「……あれが?」
「失礼ニャ。ムーニャン、やる時はやる猫アル」
「やらない時は?」
「寝るネ」
「信頼度が乱高下するな」
ミツキが困ったように笑う。
「実力は本物なんです。ただ、素行にかなり問題がありまして……」
「かなりで済むか?」
梁の上から、ムーニャンが爪を軽く鳴らした。
かちり、と小さな音がしただけなのに、なぜか背筋が冷えた。
さっきまで魚泥棒にしか見えなかった女の指先に、刃物みたいな光が走っている。
「弱いおっさん、見る目ないアル。猫は高いところから全部見てるネ」
「魚も見てるだろ」
「それは別腹ニャ」
強いのか、ただの問題児なのか。
たぶん、両方なのだろう。
「細かい分類は後回し」
イツキが帳簿の角で、こつん、とカウンターを叩いた。
「今のマスターが覚えるべきなのは、変な猫耳メイドの正体じゃなくて、今日をどう生き延びるかでしょ」
「急に現実へ戻すな。情緒が追いつかない」
「情緒よりノルマ」
それはそうだ。
死体袋が通る。
ノルマで死ぬ。
クエストは詐欺みたいに危ない。
梁の上には、魚を盗む猫耳メイドまでいる。
それでも、この酒場には誰かの席があり、誰かの笑い声があり、帰ってくるための扉がある。
たぶん、それが《るすと》なのだ。
「で、今日の俺は何をすればいい?」
俺が聞くと、イツキがクエストボードを指した。
「ノルマはあと二つ。でも昨日みたいな戦闘はおすすめしない。おっさん、普通に弱いから」
「はっきり言うな」
「事実だし」
ガロも頷いた。
「弱いなら、弱いなりの仕事を選べ。索敵、運搬、確認、伝令。戦わずに戻る仕事も冒険だ」
戦わずに戻る。
ゲームなら地味なクエストだ。
でもこの世界では、多分それが一番難しい。
ミーナが顔を上げずに言った。
「外へ出るなら、ノエル連れていきなさい。あの子、一人で行かせると絶対やらかすから」
「えっ、僕ですか!?」
「あと、マスターも一人で行かせると死にそう」
「俺もセットで信用されてない」
イツキが一枚の依頼書を剥がして、俺の前へ置いた。
《街道沿い索敵》
《内容:異常なしの場合は即帰還》
《討伐指定:なし》
《報酬:15G》
《推奨:白磁二名》
討伐指定なし。
つまり、勝たなくていい。
ただし、帰ってこなければ意味がない。
「これ、チュートリアル?」
イツキは笑った。
「うん。生存チュートリアル」
その言葉で、俺の背中に嫌な汗が伝った。
この世界のチュートリアルは、やっぱり信用できない。
今回はRPGでいう「ギルド説明回」ですが、説明を受けても安心できないのが《るすと》仕様です。
ゲームでもランクや等級が出てくるとワクワクしますが、この世界では「死ににくさ」まで評価対象です。
主人公の現在のステータス
名前:NO NAME
通称:マスター(酒場内仮登録)
等級:白磁未満
HP:8/10
MP:不明
状態:初回説明中/通称登録完了/腰に違和感/生存チュートリアル受注前
所持品:10G
装備:木の棒、現代日本の服
危険度:低〜中
観測度:測定不能




