第207話 神権工廠編02 壊れたものを、直す炉 ――それは救いではなく、部品化の順番待ちだった――
炉は、マスターを“直す”と言った。
けれど、その修復に本人の意思は含まれていない。
そして鍛冶の神は、こちらに気づいていながら、まだ槌を止めなかった。
【未完了修復対象:NO NAME】
【右腕神経補助義肢:照合】
【修復炉への誘導を開始】
ログが点灯した瞬間、俺の右腕が勝手に動いた。
ギシリ、と義肢の関節が鳴る。
俺の意思とは関係なく、指が奥の暗がりへ向かって伸びようとした。
「おいおいおい、勝手にナビするな」
左手で右腕を押さえる。
だが、力を入れた瞬間、胸の奥の心肺補助コアが低く鳴った。
【警告:心肺負荷上昇】
【警告:右腕神経補助義肢:外部誘導干渉】
「先輩、動かないでくださいッス!」
ナツが即座に俺の前へ出た。槍を構える姿は、いつもの体育会系後輩そのものなのに、目だけはかなり真剣だ。
「動いてるの俺じゃなくて右腕なんだけどな」
「じゃあ、右腕ごと止まってくださいッス!」
「無茶言うなよ!」
カケルが工具箱を床に置き、俺の右腕の外装に飛びつくように手を伸ばした。
「じっとしてろ、おっさん。こいつ、腕だけ連れて行こうとしてる」
「腕だけ遠征させるな。俺の本体、置いてかれるだろ」
「まあ事実、本体が一番ややこしいからな」
「お前、ケガ人に何言ってんだ」
カケルは答えず、義肢の外装に薄い金属板のようなものを貼り付けた。小さな火花が走り、右腕の引っ張られる感覚が少し弱まる。
【外部誘導信号:一時遮断】
【同期率:低下】
【警告:遮断継続時間に限界あり】
ルースがログを確認する。
「外部誘導信号の一時遮断に成功しました。ただし、完全遮断ではありません」
「なるほど?」
「また引っ張られる可能性があります」
「最悪の確認、ありがとさん!」
奥の壁に、古い案内ログが浮かび上がった。
【修復対象へ通知】
【欠損部位:右腕】
【心肺補助:不完全】
【神経同期率:低】
【炉心修復により改善可能】
【誘導に従って修理を受けてください】
改善可能。
その言葉だけが、やけに目に残った。
右腕が完全に動く。
胸の奥の補助コアが安定する。
車椅子なしで立てる。
ジョッキを壊さず持てる。
ステラやルースに、いちいち心配されない。
正直に言えば、魅力的だった。
「......直るって言われたら、ちょっと気持ちが揺れるな」
ナツが不安そうに振り返る。
「先輩......」
「いや、分かってるって。タダで直してくれる神様なんか、だいたい後払いで詰むやつだしな」
カケルが鼻を鳴らした。
「しかもここ、請求書じゃなくて人格ごと持っていくタイプだろ? ベットできねぇぜそんなリスクには」
ツグミが腰の道具袋を確認しながら、低く言う。
「同意なしの修理は、治療やなか。加工や」
その言葉に、俺は奥の暗がりを見た。
《《直す》》。
本来は、いい言葉のはずだった。
けれどこの場所で聞くと、妙に冷たく、恐怖に感じる。
アオイが、フクロウ型の案内外套に半分埋もれたまま、地図ログを見つめていた。
「......こっち、まだ......帰り道あり......す」
【発言補助:第二仮アンカー、旧冷却管跡へ接続可能です】
「炉心に直行はしない。まず帰り道を確保しよう」
俺が言うと、ルースがすぐに頷いた。
「合理的ですね。現在、炉心誘導ログは信頼不能です」
カケルは壁の冷却管を叩き、奥へ続く管路を見た。
「旧冷却管跡なら、キャリアの強化部品も拾えるかもしれねぇ」
「拾うな。仕入れって言いなおせ」
「現地仕入れだ」
「よし、それでいい」
ツグミも頷く。
「水と冷却は厨房にもいるんやで。行く価値あるばい」
ナツが槍を肩に構え直した。
「了解ッス。先輩、自分が前を見ます」
「頼む、ナツ。今の俺は前衛ってより要介護だからな」
「先輩、自分で言うと切ないッスよ?」
言われて、俺も少しだけ切なくなった。泣けるぜ。
だが、立ち止まってはいられない。
俺たちは、炉心からの誘導を無視して、アオイの示す細い帰還線へ進むことにした。
---
一方、そのころ。
《ルステラ・キャリア》側では、別の戦い第二弾が発生していた。
【TANISHI-01:回転数低下】
【キャリア冷却補助:低下】
【車内温度:上昇】
「はっ、はっ......また暑いでござるワン! 忍犬、また溶けるでござる!」
コハクが横倒しになり、白い耳をへにゃりと下げ、犬っぽく舌を出していた。忍犬魔法使い見習いとしての威厳は、熱の前ではやや溶け気味だ。
ポメ子は水槽席で水面をばしゃばしゃ叩く。
「ちょっと! ポメ子を蒸し料理にする気!? 海の女神を鍋に入れるのは解釈違いよ! ダシなんて取れないんだから!」
ヘラクレスは腕を組んで笑った。
「ハッハッハ! 暑さもまた鍛錬! 脂肪を燃焼させるのは気合と筋肉だ!」
「ヘラクレス殿、それは筋肉の民の理論でござるワン! 忍犬には無理でござる!」
後部発電席でペダルを漕いでいたタニシは、ぐったりとハンドルにもたれかかっていた。
「じ、自分、もう脚パンパン案件っす......これ以上は、オタクの下半身がログアウトするっす......」
ルステラの光が、キャリア全体に淡く広がる。
「TANISHI-01、回転数を維持してください」
「ルステラ殿、言い方が完全に事務的なんですけど......」
通信越しにイツキの声が入った。
『最低冷却ラインを割ったら、まかない大盛り権没収』
「それは人権侵害っす!」
続いて、ミーナの声。
『人権の前に水飲みなさい。あと、無理ならさすがに交代』
その一言で、タニシがきょとんとした。
「......交代、していいんすか?」
キャリア内の空気が少し変わった。
さっきまで「漕げ」「もっと漕げ」と騒いでいた面々が、一斉に気まずそうな顔をする。
コハクが耳を伏せた。
「タニシ殿、すまぬでござるワン。暑くて、つい強く言ってしまったでござる」
ポメ子も水槽席から視線を逸らす。
「まあ......蒸発しかけたから仕方ないとはいえ、ちょっと言いすぎたわね」
ヘラクレスが大きく頷いた。
「ならば交代だ! 筋肉とは、弱った者を支えるためにもある!」
ヘラクレスがTANISHI-01へ乗り込む。
【TANISHI-01:搭乗者変更】
【搭乗者:HERACLES】
【警告:想定筋力上限を超過】
『待て待て待て! おいヘラクレス、ペダル壊すなよ!すぐに直せねぇぞ』
カケルの通信が飛ぶ。
「安心しろ! 私は繊細な筋肉操作も得意だ!」
ヘラクレスがペダルを一踏みした。
ごぉぉぉぉぉぉん!とてつもない回転数と音がした。
【TANISHI-01:回転数急上昇】
【低観測電力:過剰生成】
【警告:ペダル軸に負荷】
【警告:発電計が筋肉を理解できません】
「発電計が筋肉を理解できませんって何!?」
コハクが尻尾を逆立てる。
ポメ子は涼しい、いや涼しすぎる風を受けて、ほっと息を吐いた。
「涼しい......けど、機械の悲鳴が聞こえるわ、あと少し寒くないですのこれ?!」
ルステラが淡々と告げる。
「ヘラクレス、出力を三割に抑えてください。冷却が過剰になっています」
「三割? それは準備運動にも満たん!」
「TANISHI-01が壊れます」
「仕方ないな、不本意だが、では三割でいこう!」
ヘラクレスはなぜか誇らしげにペダルを漕いだ。
一方、タニシは座席の横で床に座り込んでいた。コハクが水筒を差し出す。
「タニシ殿、水でござる。ちゃんと飲むでござるワン」
「コハク殿......優しさがしみるっす......」
「忍犬は仲間を見捨てぬでござる」
ポメ子も、水槽の縁から小さな氷片を放った。
「ほら、額に当てなさい。最低だけど、倒れられても困るから」
「ポメ子殿、優しさの前に最低ってつけるのやめてほしいっす」
ミーナの通信が入る。
『タニシ、五分休憩。水分とって、足伸ばして。次は短時間だけ戻りなさい』
イツキも続ける。
『発電係は消耗品じゃないからね。ノルマ表、休憩込みで組み直す』
タニシは、少しだけ黙った。
「......なんか、普通に仲間扱いされると、逆に照れるっすね」
コハクがにこっと笑う。
「当然でござるワン。タニシ殿も、遠征組でござる」
タニシは水を飲み、少しだけ目を伏せた。
「......じゃあ、休んだらまた漕ぐっす。まかない大盛りもあるし」
「そこは現金でござるな」
「現金じゃなくて食券で希望っす」
キャリア内に、少しだけ柔らかい笑いが広がった。
冷却音は、ヘラクレスの三割筋力で安定している。
ただし、TANISHI-01のペダル軸は、時々きしきしと不吉な音を立てていた。
【冷却補助:安定、やや過剰冷却】
【TANISHI-01:一時交代運用中】
【タニシ:休憩中】
【遠征継続:可能】
ルステラが静かに言う。
「発電要員の健康管理も、帰還率に含まれます」
『いいこと言うじゃない』
ミーナの声が、少しだけ優しかった。
---
炉内側では、俺たちは旧冷却管跡へ向かって進んでいた。
通路はさらに狭く、熱と冷気が交互に肌を撫でた。右からは赤い炉壁の熱。左からは破裂した冷却管の冷たさ。体がどちらに合わせていいか分からず、気分が悪くなる。
「先輩、顔色悪いッス」
ナツが振り返る。
「右腕も胸も、どっちも機械に反応してる感じがしてな。自分の体なのに、工場の備品になった気分だ」
「先輩は備品じゃないッス」
「そう言い切ってもらえると助かる」
アオイが前方の壁を指差した。
「......第二アンカー、近い......です」
【発言補助:第二仮アンカー、旧冷却管跡に接近しています】
しばらく進むと、やがて、通路が開けた。
そこは、白と赤がぶつかる場所だった。
壁一面に巨大な冷却管が走っている。だが、その多くは破裂し、内部から半透明のゲルが垂れたまま白く固まっていた。冷却材は石のように硬く、ところどころに細かい金属粉が混じっている。
赤熱する炉壁。白く凍りついた冷却管。
その境目に、手形のような焦げ跡がいくつも残っていた。
誰かが、熱から逃れようとして、冷たい管に触れた跡。
そう考えると、ぞっとした。
ツグミがしゃがみ込み、白く固まった冷却材を小瓶へ削り取る。
「これ、使えるかもしれん」
カケルもすぐに反応した。
「キャリアの冷却系に転用できる。だが劣化してるな。成分を見ねぇと危ない」
ルースが解析ログを出す。
【旧冷却材:検出】
【成分:高熱耐性ゲル/低観測金属粉末/不明生体安定剤】
【注意:生体安定剤に人間ログ類似成分あり】
「また人間ログかよ......滅入るぜ」
俺の声が低くなる。
ナツが槍を握り直した。
「先輩、ここ、気持ち悪いッス。熱いのに、寒い感じがするッス」
「その感覚、たぶん正しいわ」
アオイが、冷却管にそっと触れた。
「......ここ、熱くて......冷たかった」
【発言補助:ここで複数対象が冷却待機状態になっています】
壁に、古いログが流れる。
【対象:帰還不能】
【状態:過熱損傷】
【冷却処理:開始】
【人格ログ:一時退避】
【身体部品:再分類】
【帰還申請:保留】
「人格ログを一時退避して、身体を部品化......?」
カケルが苦い顔で頷いた。
「直すために分けたんだろうな。心と身体を」
ツグミが、冷却材の小瓶を見つめる。
「料理で言うなら、具材と出汁を分けたまま、誰の料理か忘れた状態や」
「たとえが分かりやすいけど嫌すぎる」
人格を保護したつもりで、身体を部品化する。
理屈だけ見れば、保存なのかもしれない。
だが本人にとっては、帰還ではなく分解だ。
その時、冷却管の中から音がした。
こぽ。
こぽこぽ。こぽっぽぽぽぽ
管の内側で、何かが泡立っている。
次の瞬間、破裂した冷却管の裂け目から、細い脚が一本出てきた。
一本。
二本。
それから、数えたくないほど。
ざらざらと、白いゲルをまとった工具の脚が管の中から這い出してくる。
半透明の腹。
その中に白い冷却材が詰まっている。
腹の表面には、冷却材の濁りが人の顔のような模様を作っていた。
顔に見えるだけだ。
そう分かっているのに、見ていると視線を逸らせなくなる。
動くたびに、腹の中から、ひゅう、ひゅう、と空気の抜けるような音がする。
それが、人の小さなため息に似ていた。
ルースがログを出す。
【変異型自動修復機:接近】
【仮称:冷却修復虫】
【特性:冷却材保持/対象感覚鈍化/部品削出】
【警告:接触を避けてください】
「管の中にもいるアル! 壁から脚だけ出てるネ!」
ムーニャンが上の配管へ跳び移りながら叫ぶ。
冷却修復虫の一体が、床を滑るように近づいた。動きは速くない。むしろ、ぬるりと遅い。けれど、その遅さは全員の生理的嫌悪感を催させるには十分であった。
近づかれると、皮膚が先に冷える。
俺の右腕に、白い光が当たる。
【照合中】
【未完了修復対象:検出】
【冷却後、削出を開始します】
「冷やしてから削る気かよ、こいつら!」
冷却修復虫が飛び跳ねた。ナツが間に入る。
「先輩、下がるッス! ここは自分が止めるッス!」
「頼む。今の俺、右腕が敵にスカウトされてるからな」
「そんな転職、全力で止めるしかないッスね!」
そういうや、ナツの槍が白い腹を弾く。冷却材が飛び散り、床に落ちた瞬間、じゅう、と熱い床を冷やした。
ムーニャンが上から位置を読む。
「右の管から三匹、左の裂け目から二匹アルにゃ! あと、カケルの工具箱にも寄ってるネ!」
「俺の大切な工具ちゃんを餌扱いすんな!」
カケルが工具箱を抱えて飛びのく。
ツグミは、冷却材を小瓶に入れながら眉をひそめた。
「気色悪いけど、冷却材は使える。|coolant sample 確保や」
「英語で言っても、気持ち悪さは減らないぞ」
「減らすためやない。記録のためや」
「急に真面目か!」
カケルが冷却修復虫の脚を一本回収しようとして、俺は思わず叫んだ。
「お前、また拾う気かよ!」
「構造を見ねぇと対策できねぇだろ!」
ナツがこっちを見ずに叫ぶ。
「先輩! カケルさん、また危ないもの拾ってるッス!」
「だな、後輩!」
その時、冷却修復虫の一体が俺の右腕に触れた。
ほんの一瞬だった。
だが、右腕の感覚が消えた。
「っ......!」
視界が揺れる。
次の瞬間、俺は立っていた。
車椅子はない。
右腕は軽い。
胸の補助コアの違和感も消えている。
カウンターの中で、俺はジョッキを持っていた。
割れない。
落とさない。
ルースもステラも心配していない。
ルステラが隣にいる。
ミーナがいつもみたいにグラスを拭いている。
誰も俺を病人扱いしない。
戻った。
そう思った。
【人格負荷:不要】
【痛覚:不要】
【迷い:不要】
【対象を最適化します】
そのログが見えた瞬間、俺は現実に引き戻された。
「......直すって、そういうことか」
「マスター?」
ルースの声。
ナツが冷却修復虫を弾き飛ばしながら、俺を見た。
「先輩、大丈夫ッスか!?」
「大丈夫じゃないけど、分かった」
「何がッスか」
「俺が俺である部分まで、邪魔なノイズ扱いしてる」
ナツの顔が、はっきり怒った。
「先輩、それは修理じゃないッス」
「ああ。俺もそう思う」
カケルが、冷却修復虫の脚を踏みつけた。
いつもの軽い顔ではなかった。
「修理ってのは、使うやつの癖まで戻すことだ」
「癖?」
「右に少し遊びがあるハンドル。持ち主が握った跡。ガタつくけど、本人だけが分かる角度。そういうのを消して新品っぽくするのは、修理じゃねぇ」
カケルは、冷却管に残った手形を見た。
「それは、別の部品に作り替えてるだけだ」
少し間を置いて、彼は言った。
「俺は、壊れたもんを直す。持ち主を消す気はねぇぞ」
その言葉は、炉の低い音の中で、不思議なくらいよく通った。
「今の、ちょっとかっこよかったぞ」
「だろ? そこにベットしていいぜ?」
ツグミが小瓶を掲げる。
「今のは |good repair やね」
「だからなんで英語やねん、おっと俺も移ってしまった......」
ナツが槍を構えながら笑った。
「でも、ちょっと燃えたッス」
ムーニャンも頷く。
「カケル、今日はギャンブル少なめで職人多めアル」
「毎日そうしろよな。あと酒も」
「それは無理だな、ワハハハ」
「即答してんじゃねえ」
ナツとムーニャンが冷却修復虫を押し返し、アオイが旧冷却管跡の帰還線を結び直した。
【第二仮アンカー:旧冷却管跡】
【帰還経路:安定率上昇】
【冷却材サンプル:確保】
【キャリア冷却系:改修候補追加】
ルステラの通信が入る。
『帰還線、少し太くなりました』
続いて、ステラの小さな声。
『ぱーぱ、帰ってこれる?』
「そのために、今ここで道をつないでる」
コハクの声も入った。
『結界も準備してるでござるワン! でも暑いので、早めに帰ってきてほしいでござる!』
タニシも続く。
『自分も脚がもう限界っす! 休憩後なのに、もう限界っす!』
イツキの声が即座に入る。
『まだ二地点目。文句が早い』
『現場の悲鳴を聞いてほしいっす!』
少しだけ笑いが戻った。
その笑いを、炉の奥から響いた音が塗り潰す。
ごうん。
――――――
ここは神権工廠地下炉の、さらに奥。
炉心層。
そこでは、空気そのものが赤く焼けていた。
巨大な炉が、いくつも重なっている。
溶けた金属の川が流れ、空中には無数の設計図が浮かび、金床の上では何か巨大な部品が熱を帯びていた。
欠けた義肢。
壊れた武器。
古い神権端末。
歪んだ補助コア。
名前のないパーツ。
それらが、まるで星の材料のように炉の周囲を回っている。
その中心に、ひとつの影があった。
分厚い防火外套。
炉の光を反射する片目。
人間の腕にも、工具にも見える腕。
そして、巨大な槌。
影は、こちらを見ていた。
見ていたうえで、槌を止めなかった。
【侵入者:検出】
【未完了修復対象:NO NAME】
【帰還経路:不正復旧】
【炉守:起動要請】
「......見えている」
低い声が、炉の底で鳴った。
槌が振り下ろされる。
ごうん。
「だが、今は”コレ”の焼きが甘い」
また、槌。
ごうん。
「炉守に回せ」
【対象分類:侵入者/修復対象/素材候補】
【対応優先度:中】
【創造工程:最優先】
影は、鍛造中の何かへ視線を戻した。
「素材なら、分類しろ」
槌が火花を散らす。
「壊れているなら、直せ」
赤い光の中で、片目だけが細く光った。
「だが、勝手に割るな。まだ使い道を見ていない」
鍛冶の神は、こちらを見ていた。
見ていたうえで、槌を止めなかった。
---
旧冷却管跡の奥で、冷えた管が一斉に鳴った。
ぎぎぎ、と巨大な腕が目を覚ますような音がする。
【冷却管跡:再接続】
【帰還経路:不正復旧】
【未完了修復対象:NO NAME】
【炉番補助人格:起動】
ルースが顔を上げる。
「大型反応。奥です」
アオイが青ざめた顔で地図を見る。
「......来ます」
【発言補助:炉守が、来ます】
奥の冷却管から、巨大な修復アームが一本、ゆっくりと伸びてきた。
その先端には、指の代わりに工具がついている。
丸鋸。
溶接針。
固定具。
そして、人間を台へ運ぶための拘束具。
古い音声ログが、ざらついた声で響く。
【炉守:起動】
【対象確認:未完了修復対象】
【帰還経路復旧:非推奨】
【修復炉への搬送を開始します】
「搬送って、俺をか」
ナツが俺の前に出る。
「先輩には触らせないッス」
カケルが工具箱を開いた。
「来るぞ。こいつは虫じゃねぇ」
ツグミが冷却材の小瓶を握る。
「なら、冷やして止める」
ムーニャンが配管の上で身を低くした。
「大物アル。音が重いネ」
俺は右腕を押さえた。
炉の奥から、まだ誘導信号が響いている。
【未完了修復対象:NO NAME】
【修復炉への搬送を開始します】
帰り道を太くした瞬間、工廠は俺たちを“帰してはいけない修復対象”として扱い始めた。
■ 今回のお話について
第207話は、第二仮アンカーである旧冷却管跡を確保する回でした。
神権工廠の“修復”は、ただ直すだけではありません。
人格ログを退避し、身体を部品化し、帰還よりも修復を優先する。
それは本人にとっては救いではなく、分解に近いものです。
今回は、カケルの「修理とは何か」という職人としての信念も出しました。
壊れたものを直すことと、持ち主を消して新品の部品にすることは違います。
また、TANISHI-01については、酷使に見えすぎないよう、ヘラクレスとの交代やタニシの休憩も入れています。
タニシも遠征の仲間であり、発電要員でも消耗品でもありません。
■ ゲーマーおっさん解説
今回はダンジョン中盤の環境ギミック回です。
冷却管、状態異常、敵の変種、ルート確保。
『メトロイド』や『ロックマンX』で、ステージのギミックが敵の性質にも反映されるタイプですね。
冷却修復虫は、前回の修復虫の変種です。
低熱層では「削って直す」でしたが、旧冷却管跡では「冷やして感覚を鈍らせてから削る」方向に進化しています。
だいぶ嫌な虫です。
■ 登場キャラクター紹介
■ ナツ
炉内突入組の前衛。
マスターを「先輩」と呼ぶ後輩口調で、今回は先輩を守るため前に出る。
「先輩、下がってくださいッス」が似合う体育会系後輩。
■ カケル
メカニックとしての信念が見える回。
修理とは、持ち主を消して新品にすることではないと語る。
ギャンブラーだが、今回はかなり職人。
■ アオイ
旧冷却管跡の帰還線を読み、第二仮アンカーを確保する。
声は小さいが、帰り道をつなぐ重要な役割を担う。
■ ツグミ
冷却材と厨房・保存の関係を見抜く。
火と冷却の両方が酒場には必要だと示す。
英語混じりの言葉には基本カタカナルビが入る。
■ タニシ
キャリア後部発電席でTANISHI-01を担当。
今回は途中でヘラクレスに交代して休憩。
いじられ役だが、ちゃんと仲間として扱われている。
■ ヘパイストス
神権工廠地下炉の管理神権AI。
マスターたちに気づいているが、鍛冶に熱中して直接対応しない。
炉守を代理で起動する。
■ 主人公の現在のステータス
名前:NO NAME
通称:マスター
等級:紅玉正式
状態:神権工廠地下炉・旧冷却管跡到達/右腕義肢誘導干渉あり
所持品:冒険者タグ、サイバネ補助手袋、各種遠征装備、ルステラ接続権限
装備:右腕神経補助義肢、心肺補助コア、旅装、簡易防具
同行中:ルース、アオイ、カケル、ツグミ、ナツ、ムーニャン
支援中:ルステラ、ステラ、コハク、タニシ、ヘラクレス、ポメ子
危険度:高
観測度:抑制中
備考:神権工廠側から“未完了修復対象”として炉心誘導を受けている。
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