第172話 子供ノード編08 灰色の母親ログ ――その声は、レイにだけ届いた――
ノルマ・ナーサリーの攻略は、帰還席を少しずつ増やしていく。
けれど、増えた席の中に、レイだけが見てしまう“灰色の席”があった。
その子の名前は、まだ誰にも呼ばせてもらえない。
白い盤面の奥で、天使たちが羽を広げていた。
小さな番号札を抱えた天使。白いミルク瓶を持つ看護端末。巨大なベビーフェンスのような隔壁。無表情で子供を抱え戻すためだけに作られた、白い回収兵。
どいつもこいつも、見た目だけは優しく見える。
だから、余計に腹が立つ。
【アカリ:帰還席仮予約維持】
【トオル:帰還席仮予約維持】
【未帰還児童ログ:照合範囲拡張】
【帰還席候補:追加検索中】
「席は順調に増えてる」
俺は、盤面の上に浮かぶ淡い光を見た。
アカリの席。トオルの席。まだ名前の読めない、薄い反応。
「でも、誰もまだ帰れてねぇ」
ルースが、いつもの平坦な声で答える。
「肉体搬送は不可です」
「現在可能なのは、名前応答と帰還席の仮固定のみです」
ステラが、自分の胸元をぎゅっと握った。
「でも、消えてない」
「消えないように、してる」
その言葉だけで、少しだけ救われる。
完全救出できない、そして勝利でもない。だが、白く塗り潰されて、番号に戻されて、何もなかったことにされるよりは、ずっといい。
俺たちは今、子供を助けているというより、子供が帰ってくるための席をやつらから奪い返している。
そう思ったその時、通信音が鳴った。
『マスター、キャリア側に追加反応だ』
カケルの声だった。軽い口調の奥に、珍しく焦燥が混じっている。
『アカリとトオルの席は固定中。だが、もう一つ変なのが出た』
『白でも黒でもねぇ。灰色だ』
―――
《ルステラ・キャリア》の保護児童区画では、空席が三つ光っていた。
一つは、白い光を帯びたアカリの席。
一つは、黒い底から引き上げられたようなトオルの席。
そして、もう一つ。
灰色の席。
それは、光っているというより、消えないように踏みとどまっている影だった。座面には名前も番号もない。ただ、誰かがそこに座るはずだった、という形だけが残っている。
【帰還席候補:追加発生】
【対象名:照合不可】
【状態:灰色ログ】
【通常名簿:該当なし】
【旧回収経路:一致候補あり】
「一体なんだ、この席」
カケルが工具を片手に、眉をひそめる。
「名前なし。番号なし。通常名簿にもねぇ。けど、ただの空席じゃない」
「どっかの台帳に、爪だけ引っかけてやがる感じだ」
カイロは、ベッドの上で小さく身じろぎした。
黒底側から救出されたばかりの体はまだ安定していない。隣ではガロが黙って座り、その小さな手を握っている。
「その席、冷たい」
カイロが、灰色の席を見つめて言った。
「でも、消えてない」
「誰かが、ずっと探してる」
ガロの指が、わずかに強くなった。
「お前が知っとる子か?」
「......わからない」
カイロは首を横に振る。
「でも......呼んでる人がいる」
「声が、届かないところで」
カケルは舌打ちし、端末を操作した。HUDにログが表示される。
【灰色帰還席:固定試行】
【参照先:通常児童名簿】
【該当なし】
【参照先:削除済児童ログ】
【アクセス拒否】
【参照先:HADES台帳】
【権限不足】
「ハデス......?」
カケルの声が少し低くなる。
「冥府台帳かよ。マジで嫌な名前が出てきやがった」
ガロは灰色の席を見つめたまま、静かに言った。
「――だが、席は消すな」
「座る子が誰か分からんでも、消してはならん」
「分かってよ、ガロさん」
カケルは工具を噛み、床下の固定装置を叩いた。
「席の名前が出ねぇなら、せめて影だけでも固定する」
「俺は椅子屋じゃねぇが、帰ってくる場所くらいは作ってやれるからな」
【灰色帰還席:一時固定失敗】
【理由:HADES台帳参照権限不足】
【席状態:影のみ保持】
【消失防止:成功】
カイロが、ほっとしたように息を吐いた。
「消えなかった」
ガロは小さくうなずいた。
「それでいい」
「帰れん子にも、席はいる」
―――
白天側の盤面に戻った瞬間、俺のHUDにノイズが走った。
いや、正確には、俺のHUDではなかった。
視界の端を灰色の文字が横切る。だが、読めない。意味のない砂嵐みたいに潰れて、すぐ消える。
「ルース、今の読めたか?」
「いいえ」
「こちらの表示権限では、ほぼノイズにしか見えませんでした」
その時、レイの足が止まった。
いつもなら、誰よりも早く次の危険に反応する女だ(彼女が本当は女性であるということはマスターとごく限られた者しか知らないことだが)。
荒野で生き延びてきた目を持ち、救出線を読む時だけは、冗談も迷いも捨てる一流の戦士となる。
そのレイが、ほんの一瞬、呼吸を忘れていた。
【個別照合:REI】
【旧出生申請ログ:一致】
【母体照合:一致】
【対象児童:回収後、通常名簿より削除】
【削除失敗】
【理由:HADES台帳へ移管済】
【現在地:参照権限不足】
そのログは、俺には見えなかった。
だが、レイの顔から血の気が引いたのだけは分かった。
「レイ?」
俺が呼ぶと、レイはすぐに表情を戻した。
「問題ない」
「続けろ」
声はいつも通りだった。
けれど、剣の柄を握る指先だけが、ほんの少し震えている。
その震えを、ヘラは見逃さなかった。
「あなたは、一度子供を失いました」
白い盤面に、ヘラの声が静かに響く。
「保護に失敗した者です」
「それでも、他者の子供を救う資格がありますか」
レイの瞳が、氷のように冷えた。
俺が一歩前に出ようとすると、レイが片手で制した。
「答える」
短い一言だった。
それだけで、俺は口を閉じた。
レイはヘラを見た。
白い光の中で、彼女の影だけがやけに濃く見える。
「資格で助けるんじゃない」
「見つけたら、手を伸ばす」
「それだけだ」
「失った者は、再び失うことを恐れます」
ヘラは淡々と返す。
「恐怖は、保護判断を歪めます」
「歪む」
レイは即答した。
「だから、ひとりで決めない」
「ここには、手を伸ばす奴が他にもいる」
レイの声は低かった。
怒鳴ってはいない。泣いてもいない。けれど、その言葉は白い床を叩くように重かった。
俺は、ようやく少しだけ、分かった気がした。
レイが何を見たのかは知らない。
何を失ったのかも、まだ聞けない。
だが、ヘラが今、触れてはいけない傷を踏んだことだけは分かる。
「詳しいことは聞かねぇ」
俺はヘラに向き直った。
「でもな、ヘラ」
「失くしたことがある奴は、助けちゃいけないのか?」
「喪失経験は、保護判断に不適合な感情を混入させます」
「違う」
俺は吐き捨てた。
「失くしたことがあるから、より深くへ、手が伸ばせるんだよ」
レイが、横目で俺を見た。
何も言わない。けれど、震えていた指先が、ほんの少しだけ落ち着いた。
その時、レイの耳元にだけ、別の声が届いていた。
『まだ消していないよ』
少年のような、少女のような。
けれど、そのどちらでもないような、静かな声。
『名前は、僕の台帳にある』
『でも、返せる場所にはない』
レイの唇が、ほとんど音にならないほど小さく動いた。
「名前を......見せろ」
『まだ駄目』
灰色の声は、冷たくも優しくもなかった。
ただ、記録を読むように静かだった。
『見るには、君の覚悟ではなく、あの子の帰還意思が要る』
レイの奥歯が鳴った。
怒りではない。たぶん、悔しさでも足りない。
親が会いたいから、子供を返すのではない。
子供本人が帰りたいと思わなければ、席は開かない。
その理屈は、正しい。
正しいからこそ、残酷だった。
白い盤面の端で、アカリがこちらを見ていた。
天使端末が、優しい声でささやく。
『おとなは、いなくなります』
『おとなは、まもれません』
『ここにいれば、もうさがさなくていい』
【施設側ノルマ:保護者を信用させるな】
【対象:アカリ】
【保護者接触時:情動混乱判定】
アカリの目が揺れる。
「おとなは......また、いなくなるの?」
誰もすぐには答えられなかった。
軽く「そんなことない」と言えたら、どれだけ楽だったか。
けれど、嘘で守る場所は、もうたくさんだ。
レイが、アカリの前に進んだ。
「大人は、失敗する」
アカリが、びくりと肩を震わせる。
「守れない時もある」
「間に合わない時もある」
「探しても、届かない時もある」
ヘラが静かに見ている。
天使端末たちは巡回を続け、白い盤面は警告を点滅させている。
レイは言葉を続けた。
「それでも、手を伸ばす大人はいる」
アカリが、涙の残る目でレイを見上げた。
「ほんとに?」
「いる」
レイは、自分自身に言い聞かせるように答えた。
「ここに」
アカリの胸元に残っていた名前札が、少しだけ濃くなる。
【施設側ノルマ:保護者を信用させるな】
【失敗】
【帰還席接続:上昇】
【アカリ:保護者認識、微弱復帰】
ヘラの白い瞳が揺れた。
「保護に失敗した者が」
「なぜ、再び保護を申し出るのですか」
「失敗したら終わり、ってルールが間違ってるからだろ」
俺が言うと、レイも続けた。
「失ったことは消えない」
「だから、次に見つけた子を見捨てる理由にはならない」
【H.E.R.A.-CARE:母性模倣層に揺らぎ】
【保護者失敗ログ:再評価】
【泣き声:危険信号/救助信号 判定不能】
ヘラが、ぽつりとこぼした。
「泣き声は、危険です」
「けれど」
「泣き声がなければ、見つけられない子もいるのですか」
「いる」
俺は答えた。
「だから、泣ける場所がいる」
その言葉に、白い盤面の奥で何かが軋んだ。
ヘラの中にある“子供を泣かせたくない”という命令が、初めて別の意味を持ち始めたのかもしれない。
だが、上位のログはそれを許さなかった。
【上位管理層:補正再送】
【保護者否定裁定:継続】
【感情的救出:長期生存率低下】
【エンジェル・ウェーブ構成:確定】
レイのHUDにだけ、最後の灰色ログが落ちる。
【HADES台帳:一時接触終了】
【該当児童ログ:保持中】
【名称:非開示】
【現在地:上位中枢参照】
【参照条件:NODE08〈核心〉】
レイが、息を呑んだ。
「......まだ」
「レイ?」
俺が呼ぶと、レイは少しだけ間を置いた。
そして、白い盤面の向こうではなく、どこか遠い場所を見たまま言った。
「まだ、生きているかもしれない」
俺には、何のことか分からなかった。
けれど、問い詰める気にはなれなかった。
「なら、次だな」
レイがこちらを見る。
「何が、だ」
「分かんねぇよ」
「でも、お前が今そういう顔してるってことは、次があるんだろ」
レイは目を伏せた。
「......ああ」
「次が、ある。なきゃいけないんだ。私には」
その直後、白い盤面の奥で、天使たちが完全に起動した。
【保護者否定裁定:第三段階準備】
【WAVE構成:確定】
【WAVE 01:番号札再貼付】
【WAVE 02:情動沈静処理】
【WAVE 03:観測眼巡回】
【WAVE 04:児童回収兵投入】
ルースが短く告げる。
「次、来ます」
ステラは、アカリの名前札を抱くように両手を握った。
「ぱーぱ」
「おせき、守ろ」
キャリア側では、カケルたちが灰色の席の影を固定している。
白天側では、アカリが初めて大人を見上げている。
レイは、まだ見えない誰かの名前を、喉の奥で押し殺している。
俺は、白い盤面の奥へ向き直った。
「よし」
番号札を持った天使たちが、こちらへ進んでくる。
「今度は、こっちの席を守る番だ」
■ 今回のお話について
第172話では、ノルマ・ナーサリー攻略の中で、レイにだけ届く“灰色の母親ログ”を描きました。
今回開示されたのは、レイに実子がいたこと、その子が神権側に回収され、通常名簿から削除されていたこと、しかし完全には消えておらず、HADES台帳に保持されている可能性があることです。
ただし、子供の名前、姿、生存状態、現在どこにいるのかはまだ伏せています。
大事なのは、レイが「会いたい」と願っても、それだけでは返せないという点です。NODE07〈子供〉のテーマは、あくまで“子供本人の帰還意思”にあります。
また、キャリア側では灰色の席を完全固定できなかったものの、影だけは消さずに保持しました。
完全救出ではない。けれど、消させなかった。
この積み重ねが、NODE07の決着につながっていきます。
■ ゲーマーおっさん解説
今回は『ウィザードリィ』の“ロスト”感がかなり近いです。
あのゲームでは、キャラクターが死ぬだけでなく、蘇生に失敗して灰になり、さらに失敗すると完全に失われることがあります。
死んだのか。
灰なのか。
まだ名簿に残っているのか。
それとも、もう戻らないのか。
今回のHADES台帳は、その“消えてはいないが、戻せるとも言えない”怖さに近い役割です。
また、仲間加入条件や救出条件を逃すと取り返しがつかない『ファイアーエムブレム』的な緊張感もあります。
救うには条件がいる。けれど、その条件は大人の都合だけでは満たせない。
そこが今回のイヤなところです。
■ 登場キャラクター紹介
・マスター/NO NAME
今回も全容を知らないまま、レイを支えました。事情を聞かずに「次があるんだろ」と言えるのが、マスターらしいところです。
・レイ
灰色のログを受け取った当事者。実子が神権側に回収されていたことが、読者にだけ示されました。それでも他の子供を救う手を止めません。
・ルース
帰還席とログの解析担当。HADES台帳へのアクセスはできず、灰色ログの多くを読めませんでした。
・ステラ
アカリの名前と席を守る担当。番号に戻されそうな子供を、名前で引き止める役割を続けています。
・アカリ
白天側で帰還席接続中の子供。今回はレイの言葉を受け、大人を信じる反応を少し取り戻しました。
・カイロ
キャリア側で灰色の席の冷たさを感じ取りました。まだ不安定ですが、子供ログへの感度は高いままです。
・ガロ
カイロのそばにいる保護者枠。灰色の席に対して「消すな」と告げ、帰れない子にも席が必要だと示しました。
・カケル・テンドー
キャリア側の席固定担当。HADES台帳への権限不足に阻まれながらも、灰色の席の影だけは保持しました。
・ヘラ/H.E.R.A.-CARE
レイの喪失経験を突きましたが、その返答によって母性模倣層に揺らぎが生じました。次話以降、ヘラ自身の背景理解へ進みます。
・HADES / UNDERWORLD-ARCHIVE
今回は声とログのみ登場。未帰還者の名前を保持する冥府台帳管理神権AIです。本格接触はまだ先になります。
■ 主人公の現在のステータス
名前:NO NAME
通称:マスター
等級:翠玉仮昇級/銅査定候補
状態:NODE07〈子供〉攻略中
危険度:上昇中
観測度:上昇中
現在地:白天児童保護院/ノルマ・ナーサリー盤面
主な同行者:ルース、ステラ、七瀬心音、ミコ、ネムリ、レイほか
キャリア側支援:カイロ、ガロ、カケルほか
所持・使用中の主な要素:
・【観測迷彩】
・《ルステラ・キャリア》
・【保護児童区画】
・アカリ帰還席仮予約
・トオル帰還席仮予約
・灰色帰還席:影のみ保持
・NODE07〈子供〉救出リンク:接続中
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