第157話 夢ノード編16 保健室看護ADV ――起こすんじゃない、呼び戻す――
風紀委員会棟の終端校則は、帰還校則へ書き換えられた。
次に開いたのは、眠る少女の声が届かない保健室。
起こすのではなく、呼び戻すための看護ADVが始まります。
風紀委員会棟の廊下に残っていた白い帰還線が、ゆっくりと床へ沈んでいく。
黒い校則は消えた。終端へ向かっていた線も、今は細い案内線になっている。だが、それで終わりではない。廊下の奥にある古い扉。その上に、薄く滲んだ文字が浮かんでいた。
【保健室】
その三文字を見た瞬間、ミコが小さく息を呑んだ。
「……次、わたし」
白い保健係の腕章が、ミコの袖に浮かび上がる。いつもの静かな表情だが、指先だけが少し硬い。前へ出るのが怖いわけではない。むしろ逆だ。怖いからこそ、慎重になっている顔だった。
【次領域:保健室看護ADV】
【攻略目的:ネムリの夢層声路を確保してください】
【注意:強制覚醒は禁止】
【失敗条件:永眠固定/声路断絶】
「看護ADVってなんだよ。今度は優しそうな顔して、失敗条件が一番怖いじゃねぇか」
俺が通信越しに呻くと、ルースが即座に解析を返す。
『優しいとは限りません。看護は、対象を起こす行為ではなく、状態を維持しながら回復可能性を残す行為です』
「お前、たまに医者より医者っぽいこと言うよな」
『医師資格はありません』
「そこは真面目に返すな」
ルステラの女生徒アバターが、ミコの隣に立った。八割出力の姿はまだ不安定で、髪の端が細かなノイズになっている。それでも、声ははっきりしていた。
『HYPNOS / DREAM-CORE系保護領域ノ反応ヲ検知』
『対象:ネムリ』
『強制覚醒ハ、非推奨デス』
ミコは静かに頷いた。
「起こさない。まず、診る」
その言葉を合図に、保健室の扉が開いた。
―――――
保健室は、驚くほど普通だった。俺のよく知る日本のそれだ。
白いカーテン。夕方の光。消毒液の匂い。棚には体温計と包帯、机の上には古い保健記録簿。窓の外では、誰もいない校庭が赤く染まっている。
けれど、奥のベッドだけが違った。
そこにネムリが眠っていた。
小さな体。浅い呼吸。胸元がかすかに上下している。ベッドの下には白いケーブルのような根が伸び、点滴袋の中では青白い光がゆっくり揺れていた。枕元には、何十枚もの欠席届が積まれている。
保健室なのに、どこか棺と揺り籠の中間みたいだった。
【患者名:ネムリ】
【状態:保留】
【処置:覚醒禁止】
【呼名反応:なし】
【帰還希望:未確認】
ミコはベッド脇に膝をつき、ネムリの手首へそっと指を添えた。
「脈、弱い。でも、消えてない」
その声は、いつもより少し低い。
「眠ってる……だけじゃない。呼ばれても、返事する道が塞がってる」
ステラが胸の前で手を握る。
「ネムリちゃん、こっちの声、聞こえないの?」
「聞こえてるかもしれない」
ミコは保健記録簿へ視線を落とした。
「でも、返せない」
その時、保健室のカーテンが揺れた。
『寝かせてあげればいいのに』
少女の声。
ナイトメア・メアリだった。
『起こしたら、壊れちゃうよ?』
『呼ばれても、返事できない子ってかわいそう』
『だったら、誰も呼ばないほうが優しいよね?』
保健記録簿の文字が、黒く変わっていく。
【処置:永眠推奨】
【呼名反応:不要】
【帰還希望:削除】
「違う」
ミコが即答した。
小さな声だったが、迷いはなかった。
「寝かせることと、呼ばないことは違う」
保健室の空気が一瞬だけ止まる。
ミコはネムリの手を離さない。細い指先で、消えそうな脈を拾い続けている。
「起こさない。でも、呼ばれていいようにする」
その時、保健室の床に狐火のような光が灯った。
【限定夢層同期:開始】
【対象:カナエ/タマモ】
【同期深度:中浅層】
【役割再分類:リコーラー/ANCHOR-07】
現れたのは、一人だった。
カナエ。あるいは、タマモ。
名を二つ持つリコーラー。軽い笑みを浮かべているのに、その目の奥だけはやけに古い。彼女は保健室を見回し、すぐにベッドの下へ伸びる白い根を見た。
「ここ、眠ってるんじゃないね。呼び声が届かない場所に、置かれてる」
「帰れる?」
ミコが聞く。
カナエ/タマモは、ベッド脇にしゃがみ込み、指先で床をなぞった。
「帰還座標は薄い。けど、ゼロじゃない」
「なら、呼び戻せる。起こすんじゃなくて、声が通る道を作る」
俺は通信越しに息を吐いた。
『つまり、治療じゃなくて、道作りか』
「看護って、そういう時もあるんだよ」
カナエ/タマモは、そう言って笑った。
―――――
購買部から送られてきた箱が、保健室の床に開かれた。
【古い毛布】
【割れた呼び鈴】
【空の弁当箱】
【名前の薄い名札】
【卒業写真の音声照合鍵:一部】
タニシの声が、通信に混ざる。
『アニキ、購買部セレクトの帰還安心セットっす! 見た目は地味でも、心はこもってるっす!』
「地味どころか、半分くらい誰かの忘れ物だろ」
『忘れ物こそ、帰る場所の証拠っすよ!』
「たまに正論言うのやめろ。反応に困る」
カナエ/タマモは古い毛布を手に取り、ネムリの肩へそっとかけた。
「これは処置じゃない。安心の形」
毛布が触れた瞬間、ネムリの呼吸がほんの少しだけ深くなる。ミコがすぐに気づき、目を細めた。
「呼吸、少し安定」
次に、ミコが空の弁当箱を枕元に置いた。
「起きたら、食べるものがある」
「空っぽだけどな」
俺が言うと、ステラがすぐに振り返った。
「あとで、ぱーぱが入れる」
「俺かよ」
「ぱーぱのごはん、安心する」
言い返そうとして、言葉が喉で止まった。
そう言われたら、断れない。
『……了解。何か作るわ』
ステラは満足そうに頷いた。
カナエ/タマモは割れた呼び鈴を手に取る。鈴は欠けていて、普通に鳴らせば音が歪む。だが彼女はそれを両手で包み込み、目を閉じた。
「割れてても、呼ぶことはできる」
ちりん。
小さな音。
水泳部ホラー領域で回収した音声照合鍵が、淡く反応する。
『ここねちゃん、こっち!』
『写真撮るよー』
『……心音ちゃん、泣いてるの?』
ステラが、名前の薄い名札を胸に抱いた。
「こころちゃんの音、借りるね」
その声が届いた瞬間、ネムリの指がぴくりと動いた。
『……こころ、ちゃん』
細い声だった。
保健室の奥のカーテンが、白く変わる。
その向こうに、別の景色が見えた。
―――――
白い施設。
長い廊下。
透明な保護槽。
卒業式へ続く白い扉。
ネムリは、その扉の前でうずくまっていた。
「行きたくない」
夢の中のネムリは、ベッドで眠る姿より少し幼く見える。膝を抱え、顔を伏せ、白い床に落ちる影だけがやけに濃い。
「起きたら、連れていかれる」
「眠ってたら、まだここにいられる」
ミコが近づいた。
急がない。手を伸ばしすぎない。驚かせない距離で、膝を折る。
「起きなくていい」
ネムリが、ゆっくり顔を上げた。
「……いいの?」
「今は、いい」
ミコの声は静かだった。
「でも、呼ばれたら、返事していい」
「返事したら、見つかる」
カナエ/タマモが、その横に立った。
「見つける相手を選ぶ」
その言葉に、ネムリの目が揺れる。
「Z.E.U.Sじゃない。回収施設じゃない。るすとへつなぐ」
「名前を呼ばれるって、回収されることだけじゃない」
「帰ってきていいよ、って意味にもできる」
カーテンの影から、メアリの声がまた響いた。
『先生、呼んだら責任取れるの?』
『帰ってきたあと、壊れたらどうするの?』
『寝たままなら、傷つかないよ?』
俺は通信札を握り直した。
『寝たままなら、傷つかないかもしれない』
保健室が静まり返る。
『でも、誰にも呼ばれないままなら、戻る道もなくなる』
俺はネムリを見る。
夢の中の、扉の前で震えている子供を見る。
「起こすんじゃない」
言葉を、ゆっくり置いた。
「呼び戻す」
ネムリの目が、こちらを見た。
「帰ってくるかどうかは、あの子が決める」
保健記録簿が、白く書き換わる。
【処置:強制覚醒禁止】
【呼名反応:再接続中】
【帰還希望:本人確認待ち】
【保留席:有効】
割れた呼び鈴が鳴った。
ちりん。
さっきより、少し澄んだ音だった。
ネムリは目を覚まさない。ベッドの上の体も、夢の中の小さな姿も、その場にいる。けれど、閉じていた声の道だけが、ほんの少し開いた。
『……呼んで』
細い声。
『起こさないで』
『でも、忘れないで』
ステラが泣きそうな顔で頷く。
「忘れない」
ルステラのログが淡く流れる。
【夢層声路:暫定開通】
【対象:ネムリ】
【強制覚醒ナシ】
【帰還選択権:本人側へ一部返却】
カナエ/タマモは、割れた呼び鈴をベッド脇に置いた。
「これで、呼ばれた時に返事できる」
ミコがネムリの毛布を整える。
「まだ帰ってこない」
「でも、道は切れてない」
カナエ/タマモの言葉に、ミコは小さく頷いた。
―――――
保健室のスピーカーから、チャイムが鳴った。
ただし、音が歪んでいる。
きん、こん、かん、こん。
その奥で、別の音が混ざる。卒業式のBGM。終業チャイム。誰かを呼ぶ放送。それらがぐちゃぐちゃに絡まり、保健室の壁を震わせた。
【終業チャイム:異常同期】
【卒業式BGM:再生準備】
【次領域:放送部音ゲー】
通信に、やたら明るい声が飛び込んできた。
『はーい! 音のことなら、ぼくの出番かな!? いや、音っていうか通信で、通信っていうか経路で、経路ってことはビーコンも関係して、えーと、つまり全部大事!』
「報告が散らかってるけど、たぶん次はヘルメスだな」
ルースが真顔で補足する。
『情報量過多です。要約精度に問題があります』
『ひどい! でもだいたい合ってる!』
ルステラが淡々とログを出す。
【次領域:放送部音ゲー】
【耳栓ノ準備ヲ推奨】
「音ゲーなのに耳栓推奨って、ゲームデザイン壊れてるだろ」
ベッドの上で、ネムリの指が少しだけ動いた。
『……チャイム、こわい』
けれど、その声はさっきより届いている。
『でも、今の音なら……少し、聞こえる』
俺は、空の弁当箱を見る。
まだ何も入っていない。
けれど、そこには確かに、起きたあとの約束が置かれていた。
■ 今回のお話について
今回は、保健室看護ADV回でした。
大事なのは、ネムリを無理に起こさないこと。
眠っていることが救いとは限りませんが、だからといって強制的に起こすことも救いではありません。
今回マスターたちがやったのは、ネムリの声が届く道を整えることです。
帰ってくるかどうかは、本人が決める。
そのために、呼ばれた時に返事できる状態を作りました。
第155話で拾った七瀬心音の音声照合鍵、第156話で改定した帰還校則、そして今回の保健室で作った声路。
夢ノード編の勝利条件である「本人が選べる席を用意する」に、少しずつ近づいています。
■ ゲーマーおっさん解説
今回のゲームネタ的には、『ゆめにっき』と『Kanon』系の泣きゲーADVを少し意識しています。
『ゆめにっき』は、夢の中を歩き回る不安定さ、説明されない怖さ、現実と夢の境界が曖昧な感じが強い作品です。
今回の保健室も、普通の学校の部屋に見えて、奥には白い施設や保護槽の記憶が混ざっています。何が正解かはっきり教えてくれない夢の怖さは、まさにあのタイプの不安感ですね。
一方で、眠る少女に声を届ける、起こすのではなく寄り添うという流れは、学校ADVや泣きゲー的な感情回に近いです。
特に『Kanon』のような作品では、学校、雪、記憶、約束、待ち続ける誰かといった要素が、戦闘ではなく感情の攻略として機能します。
今回の保健室看護ADVも、敵を倒してクリアするゲームではありません。
古い毛布、割れた呼び鈴、空の弁当箱、名前の薄い名札。
一見すると役に立たないアイテムを組み合わせて、「呼ばれたら返事できる道」を作る。
こういう静かな攻略回、昔のADVだと選択肢を間違えると一気にバッドエンドへ行くので、ある意味では戦闘より怖いです。
■ 登場キャラクター紹介
ミコ
今回の中心。保健係としてネムリの状態を診る。
治療とは無理に起こすことではなく、返事できる道を整えることだと理解して行動した。
ネムリ
保健室登校の少女。ヒュプノス系保護領域に置かれ、眠り続けている。
今回は完全覚醒せず、声路だけが暫定開通した。
カナエ/タマモ
リコーラーであり、ANCHOR-07でもある同一人物。
今回は限定夢層同期し、ネムリの声路と帰還座標を補助した。
マスター/NO NAME
夢層では生活指導担当。今回は通信越しに「起こすんじゃない。呼び戻す」と方針を示した。
空の弁当箱に何かを入れる約束も発生した。
ルステラ
夢層限定八割出力の補助AI。強制覚醒の危険性を警告し、夢層声路の暫定開通を確認した。
ルース
解析担当。保健室看護ADVの構造と、声路の状態を分析した。
ステラ
名前と声の係。七瀬心音の音声照合鍵を使い、ネムリに「こころちゃんの音」を届けた。
ナイトメア・メアリ
今回も分裂体として干渉。眠らせることと呼ばないことを混同させ、ネムリを永眠固定へ誘導しようとした。
ヘルメス
次回の放送部音ゲー担当候補。報告が散らかるが、音と通信に関する能力は本物。
■ 主人公の現在のステータス
名前:NO NAME
通称:マスター
等級:翠玉相当以上/紅玉査定候補
状態:夢ノード攻略中/生活指導担当/通信支援中
現在地:るすと学園・夢層校舎
所持権能:NODE05由来【観測迷彩】
危険度:中〜高
観測度:夢層内で変動中
備考:保健室看護ADVにて、ネムリの夢層声路を暫定開通。次領域は放送部音ゲー。
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