第8話 あなたの戦い、私の戦い
蹄の音は、次第に大きくなってきた。
エリンの乗ってきた馬車の傍らで、護衛の兵士たちが馬を降りる。隊を率いていた男が、街道の先を確かめてから振り返った。
「奥様、馬車をここへ横付けにいたします。敵が来ても、一度には通れません」
「分かったわ。御者と馬は後ろへ逃がしてちょうだい」
「奥様も、お下がりください」
「ええ。でも、まずは避難民が通り過ぎるのを確認させて」
街道には、まだ三台の荷馬車が残っていた。
最後尾の一台には、歩けない老人たちが乗せられている。ほかの二台には荷物と子供たちが乗り、男たちが傍らを歩いていた。
エリンが声をかけると、御者たちは慌てて馬を急がせた。
ただでさえ長い道のりを進んできた馬たちは疲れている。これ以上急がせれば、途中で動けなくなるかもしれなかった。
「無理に走らせないで! 坂を越えれば、道が広くなるわ。そこまで行けばいいの!」
エリンが叫ぶと、御者の一人が手を上げた。
最後の馬車が坂へ向かって進んでいく。
その時、南の細道から騎兵たちが現れた。
十数騎。
先頭の男は街道に横付けされた馬車を見ると、すぐに馬を止めた。後続の騎兵たちも速度を落とし、こちらの様子を窺っている。
どうやら、いきなり突っ込んでくるほど無謀ではないらしい。
「奥様、後ろへ!」
兵士に促され、エリンは街道脇の石垣の陰へ移った。
護衛たちは馬車の後ろに身を隠し、槍を構える。
敵の一人が何か叫んだ。
こちらへ通せと言っているらしいが、当然、そんなわけにはいかない。
しばらくにらみ合いが続いた。
エリンは何度も坂の向こうを振り返った。
荷馬車は、まだ見えている。
もう少し。
あと少しでいい。
敵の騎兵が動いた。
先頭の数騎が馬を降り、左右へ分かれる。
馬車を迂回して、歩兵として攻めてくるつもりなのだ。
「右から来るぞ!」
護衛の一人が叫んだ。
次の瞬間、金属のぶつかる音が響いた。
エリンは思わず身をすくめた。
剣を交える音を、これほど近くで聞いたのは初めてだった。
兵士たちの怒号。
馬のいななき。
誰かが地面に倒れる音。
そのどれもが、訓練場で聞くものとはまるで違う。
エリンは腰の剣に手をかけた。
父が使っていた剣である。
けれども、今の自分がこれを抜いたところで、どれほど役に立つだろう。
マレートならば、きっと簡単に敵を倒してしまうのだろう。
だが、自分は違う。
「奥様! 坂の先へお逃げください!」
兵士が叫んだ。
エリンはそちらを見た。
馬車の傍らで、一人の兵士が腕を押さえている。指の間から血が流れていた。
「怪我をしたのね!」
「大したことはありません! お下がりください!」
そう言いながらも、男はもう剣を握れない様子だった。
エリンは石垣の陰から駆け出し、兵士の腕を取った。
「こっちへ! 手当てをするわ!」
男を石垣の後ろへ引き寄せ、外套の裾を裂いて傷口を押さえる。
傷は思ったより深かった。
エリンは血のついた布を押さえながら、兵士に尋ねた。
「動ける?」
「はい。ですが、奥様……」
「だったら、馬に乗って避難民を追ってちょうだい。途中で敵が回り込んでいないか、確かめてほしいの」
「しかし!」
「今のあなたには、それが一番大切な仕事よ。お願い」
男はしばらく迷っていたが、やがてうなずいた。
仲間に助けられて馬に乗り、坂へ向かって走り出す。
その背中を見送りながら、エリンはもう一度、馬車の方を見た。
護衛たちはどうにか敵を食い止めている。
しかし、数ではこちらが不利だった。
これ以上戦い続ければ、犠牲が増える。
何とかして、ここから退かなければならない。
エリンは地形を見回した。
街道の片側には低い石垣があり、その向こうには畑が広がっている。
もう片側は緩やかな斜面で、木々が生い茂っていた。
ここから北へ逃げるには、坂を上るしかない。
しかし、敵が馬車を越えれば、騎兵に追われることになる。
エリンは護衛の隊長を呼んだ。
「もう、どのくらい持ちこたえられる?」
「まだ戦えます!」
「そうじゃなくて、皆で退くにはどうしたらいいの?」
男は少し驚いた顔をした。
それから、街道脇の斜面を見上げる。
「……あちらの林へ入れば、馬では追いにくくなります」
「じゃあ、そちらへ退きましょう。もう荷馬車は坂を越えたわ」
「ですが、敵が追ってくるかもしれません」
「ここで全員が倒れるよりはいいでしょう?」
男は一瞬、何か言いかけた。
けれども、すぐにうなずいた。
「承知しました。合図をしたら、一斉に退きます」
エリンは剣を抜いた。
重い。
マレートに教わった通りに構えてみたが、どうにもしっくりこない。
それでも、もし敵が近づいてきたら、せめて自分の身を守らなければならなかった。
兵士たちが少しずつ後退する。
その時、馬車の脇を回り込んだ敵兵が一人、エリンの姿を見つけた。
男は何か叫び、剣を振り上げる。
エリンは反射的に剣を構えた。
次の瞬間、激しい衝撃が腕に伝わった。
剣を受け止めたのだと気づくより先に、手首がひどく痛んだ。
もう一度振り下ろされたら、今度は受けられない。
そう思った時、横から槍が突き出された。
敵兵がよろめき、後ろへ下がる。
護衛の隊長だった。
「奥様、早く!」
エリンは言われるまま、林へ向かって走った。
後ろから兵士たちが続く。
しばらくすると、敵の怒号が遠ざかった。
どうやら、追ってくるのを諦めたらしい。
エリンは木の幹に手をつき、息を整えた。
手が震えている。
剣を握っていた右手は、まだひどく痛んだ。
「……皆、無事?」
問いかけると、隊長が人数を数えた。
負傷者はいたが、幸い、こちらに死者は出なかった。
ただし、敵を倒せたのかどうかも分からない。
エリンには、そんなことを確かめる余裕さえなかった。
「よかった……」
そう呟くと、急に足の力が抜けそうになった。
隊長が慌てて支えてくれる。
エリンは礼を言い、それから苦笑した。
「情けないわね。剣を一度受けただけで、こんなになってしまうなんて」
「奥様、初めての戦いでございます。ご無事だっただけでも何よりです」
「あなたが助けてくれたおかげよ。ありがとう」
隊長は恐縮したように頭を下げた。
エリンは痛む手首を押さえながら、夫のことを思った。
マレートは、こんなことを何度も経験してきたのだ。
それも、今日のような小さな戦いではない。
何百、何千という兵士たちを率い、大勢の人間が命を落とす戦場で。
自分が今日感じた恐ろしさなど、ほんの一部にすぎないのだろう。
あの人は、どれほど苦しかったのだろう。
そして、今もまた戦っている。
エリンは剣を鞘に収めた。
腕の震えが収まるまでには、まだ少し時間がかかりそうだった。
*
夜になって、エリンは屋敷へ戻った。
避難民たちは全員、無事に北の町へ到着したという。
その知らせを聞いて、ようやく安心できた。
ただし、戦いはまだ終わっていない。
南の谷では、副隊長の部隊が後退を始めていた。
敵の本隊が、いよいよ帝国領へ入り込もうとしているらしい。
エリンは書斎に入り、地図を広げた。
南の谷から続く道。
北の砦。
その間にある村々。
避難が済んだとはいえ、敵に自由に進ませるわけにはいかない。
マレートからの知らせは、まだ届いていなかった。
その夜遅く、ようやく夫からの急使が到着した。
エリンは眠る支度をしていたが、すぐに書斎へ向かった。
使者はマレートの部下で、何度か顔を合わせたことのある青年だった。
「奥様、旦那様からのお手紙をお預かりしております」
エリンは急いで封を切った。
――エリンへ。
――南の谷についての知らせ、ありがとう。君の判断は正しかった。北の砦へ向かっていた敵は、やはりこちらを引きつけるための部隊だった。
――私は砦の守りを固め、敵を深追いしないことにした。向こうは、こちらの主力を北へ誘い出したかったらしい。
――南へ向かった敵の本隊に対しては、こちらから兵を回す。私も向かうつもりだ。
――君が村の人々を避難させてくれたおかげで、戦い方を選べるようになった。
――無理をせず、どうか自分の身も大切にしてほしい。
――子供たちにも、父さんは元気だと伝えておくれ。
エリンは最後の一行を、もう一度読み返した。
あの人らしい。
こんな時でも、子供たちのことを忘れない。
手紙を持つ右手が痛んだので、左手に持ち替えた。
今、夫がここにいたら、きっと心配するだろう。
そして、どうして自分で剣を取ったのかと、少し怒るかもしれない。
けれども、エリンは後悔していなかった。
あの街道にいた人々を守れたのだから。
マレートも、きっと同じ気持ちで戦っているのだろう。
「旦那様は、お元気でいらっしゃいますか?」
エリンが尋ねると、使者はうなずいた。
「はい。お疲れではありますが、お元気です。それに、兵たちのことをよく気遣っておいでで」
「そう……」
「先日の戦いでも、敵が退き始めると追撃を控えられました。無用に兵を失うことはない、と」
エリンは顔を上げた。
十年前、マレートは敵を倒すことを当然の務めだと思っていた。
そして、それを突然否定するようになり、深く苦しんだ。
けれども今の彼は、自分で戦い方を選んでいる。
ただ敵を倒すためではなく、守るべきものを守るために。
エリンは嬉しくなった。
あの人は、ちゃんと変わっている。
十年間、ここで暮らしてきたことが、彼の中に残っているのだ。
「ありがとう。どうぞ、今夜はゆっくり休んでいって」
「恐れ入ります。ですが、旦那様へお返事をお持ちしなければなりませんので」
「では、少しだけ待ってちょうだい」
エリンは便箋を取り出した。
何を書こうかと考え、それから、今の状況を簡潔に記した。
避難民は全員無事であること。
南の谷から敵の本隊が進んできていること。
こちらの守備隊は後退しながら、領内の守りを固めていること。
そして、自分も無事であること。
書き終えると、少しだけ迷った。
本当は、もっと伝えたいことがある。
十年前の初夜に話してくれたことを、今なら理解できるのだと。
自分も同じように、もう一人の自分を思い出したのだと。
そして、あの人を愛していること。
これからも、ずっと一緒にいたいと思っていること。
けれども、それを手紙で伝えるのは、何だか違う気がした。
あの人の顔を見て、直接話したい。
夫がどんな顔をするのか、ちゃんと見たいのだ。
エリンは最後に、一行だけ付け加えた。
――あなたが帰ってくるのを、楽しみにしています。今度は私も、一緒に考えたいことがあります。
それから封をして、使者に託した。
使者が退出すると、エリンは窓の外を見た。
夜空には星が出ている。
雨はすっかりやんでいた。
明日は、きっと晴れるだろう。
*
翌朝、南の谷から新たな報告が届いた。
敵の本隊が国境を越え、領内へ進軍を始めたという。
副隊長の部隊は予定どおり後退し、北へ続く街道の守りに入っていた。
エリンは地図を広げ、敵の進路を確かめた。
南の谷を抜けた敵が向かっているのは、ローバー領の中心部だった。
このまま進めば、やがて屋敷の近くまで来るだろう。
しかし、エリンには一つ、気になっていることがあった。
敵の指揮官。
あの人物は、確かにこの道を使う。
けれども、正面から攻めてくるだけではないはずだ。
何か、もう一つ。
別の狙いがある。
エリンは記憶を探った。
頭の中に、あちらの世界で見た情報が浮かびかける。
仮想空間。
反乱軍。
指揮官の行動。
その一つ一つが、何かと結びつこうとしていた。
そして、ふと気づいた。
「……そういうこと?」
敵は、こちらの兵を北へ集めようとしている。
それは分かっていた。
けれども、南の谷から侵入した本隊もまた、何かを引きつけるためのものではないだろうか。
もしそうなら、本当に狙っている場所は別にある。
エリンは地図の上に指を滑らせた。
そして、ある一点で手を止めた。
北の町。
避難民たちを受け入れた、あの町である。
そこには今、娘と息子もいる。
「……まさか」
エリンは立ち上がった。
まだ確証はない。
けれども、もし自分の考えが正しければ、急がなければならない。
エリンは家令を呼んだ。
「すぐに使者を出して。マレートへ、至急伝えたいことがあるの」
家令が驚いたように顔を上げた。
「また、何かお分かりになったのですか?」
「ええ。まだ確かではないけれど……敵は、北の町を狙っているかもしれないわ」
エリンは地図を指さした。
「避難民が集まっているあの町よ。もし敵がそこを襲えば、私たちは何があっても守りに向かわなければならないでしょう?」
家令の顔色が変わった。
エリンはペンを取り、新しい書状を書き始めた。




