第7話 守るための剣
南の村々へ避難命令を出したものの、すべての住民がすぐに動いてくれるとは限らなかった。
家畜を置いていけないという者もいれば、畑を荒らされるくらいなら残るという者もいる。
エリンには、その気持ちがよく分かった。
領民たちにとって、畑も家畜も大切な財産なのだ。家を離れて、いつ戻れるかも分からないとなれば、ためらうのも無理はない。
だからといって、敵が来るまで待つわけにはいかなかった。
「家畜は可能な限り連れていきましょう。収穫した作物も、運べるだけ運んで。それから、避難先で困らないよう、村ごとに人数を確認してちょうだい」
エリンは集まった村の代表たちに説明した。
領内の北側には、比較的大きな町がある。そこへ住民を移し、教会や集会所に分宿させるつもりだった。
ただ、問題は移動に使う馬車の数である。
「奥様、うちの村には荷馬車が二台しかございません。年寄りも多いので、全員を運ぶとなると……」
南の村の代表が困り果てた顔で訴えた。
「足りない分はこちらで手配するわ。北の村からも馬車を借りましょう」
「しかし、あちらも農作業の準備が」
「ええ。だから、借りる期間はできるだけ短くするつもりよ。それに、向こうの村長にも話をしてあるわ」
エリンがそう答えると、男はほっとしたように頭を下げた。
こういう時、十年間の付き合いはありがたい。
どの村に馬車が何台あるか、どこの村長が頼りになるか、誰に頼めば人手が集まるか。
エリンは、ほとんど頭に入っていた。
それでも、すべてを自分一人で動かすことはできない。
家令や村長たちに仕事を割り振り、北の町にも受け入れの準備を頼んだ。
そして、何よりも大切なのは、避難する人々を守る兵士たちだった。
*
守備隊の副隊長が屋敷へやってきたのは、その日の昼過ぎだった。
四十代半ばの、日に焼けた顔をした男である。
先代辺境伯の頃から仕えており、マレートが来る前から領内の守りを任されていた。
「奥様、南の谷へ出した斥候から、さらに報告が入りました」
「敵を見つけたの?」
「はい。まだ国境の向こうですが、まとまった数の騎兵が動いているようです」
エリンは地図を広げた。
「こちらへ来るのね」
「その可能性が高いかと。ただし、谷を抜けるには時間がかかります。今のうちに道を塞いでおけば、進軍を遅らせることはできましょう」
副隊長は地図の一点を指さした。
「ここです。古い炭焼き小屋の跡がございます。両側を崖に挟まれた場所で、道幅が狭くなっております」
「そこなら、大人数では通れない?」
「騎兵も一列になるでしょう。倒木でも置いておけば、簡単には抜けられません」
「では、お願いするわ」
副隊長はうなずいたが、少しためらってから口を開いた。
「ただ、奥様。旦那様が率いていかれた部隊から、兵を呼び戻すべきではありませんか?」
「……それは、できれば避けたいの」
エリンは北の砦を指さした。
マレートが向かった先では、すでに敵との小競り合いが始まっている。
こちらへ兵を戻せば、あちらの守りが薄くなる。
「南の谷は、こちらの兵で何とか持ちこたえてほしいの。もちろん、危なくなったら無理に戦わず、退いてちょうだい。今は避難の時間を稼げればいいわ」
「承知いたしました」
副隊長は深く頭を下げた。
その顔を見て、エリンはふと思い出した。
以前、マレートがこの男について話していたことがある。
「彼はよい指揮官だよ。兵の命を無駄にしない。戦場では、そういう人間が一番頼りになる」
あの時、夫は本当に嬉しそうだった。
自分が教えた兵士たちが強くなっていくのを見るのが、何より楽しいのだと言っていた。
エリンは副隊長を見つめた。
「あなたたちなら、きっと大丈夫ね」
「旦那様には、ずいぶん鍛えていただきましたからな」
男は少し笑った。
「それに、守るべきものがございます。わしらの家族も、ここで暮らしているのですから」
エリンは大きくうなずいた。
*
話し合いを終えて広間へ行くと、妹が子供たちと一緒に待っていた。
妹は今、屋敷から離れた町で暮らしているが、エリンからの知らせを受けて駆けつけてくれたのだった。
「姉様、子供たちは私が連れていくわ」
「ええ。お願いね」
「姉様も一緒に来てくれればいいのに」
「そういうわけにはいかないでしょう。まだこちらでやることがあるもの」
妹は不満そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
エリンが昔から、一度決めたことはなかなか曲げない性格だと知っているのだ。
「でも、危なくなったら必ず逃げてね」
「もちろんよ。私だって、死ぬつもりはないわ」
そう言うと、妹は少し安心したようだった。
娘と息子は、母親の顔をじっと見つめている。
エリンは二人の前にしゃがんだ。
「あなたたちは、おば様と一緒に北の町へ行くのよ。向こうでいい子にしていてね」
「かあさまは?」
「お仕事があるから、あとから行くわ」
「とうさまは?」
息子が尋ねた。
エリンは少し考えてから答えた。
「とうさまも、お仕事が終わったら帰ってくるわ」
「じゃあ、みんなでお菓子作る?」
「ええ。今度こそ、柔らかいのをね」
息子は嬉しそうに笑った。
娘はまだ不安そうだったが、やがて母親に抱きついてきた。
「かあさま、約束よ」
「ええ。約束」
エリンは娘の背中を撫で、それから息子も抱きしめた。
この子たちを守りたい。
そう思うのは、母親なら当然のことだろう。
けれども、今のエリンには、もう一つの思いがあった。
この子たちは、仮想空間の中で生まれた。
あちらの世界には、もしかしたら存在しないのかもしれない。
そんなことを考えると、どうしようもなく恐ろしくなる。
だからこそ、今は目の前にいる二人を守る。
この子たちが笑って暮らせるように。
夫が帰ってきた時、家族全員で迎えられるように。
*
避難が始まったのは、その翌朝だった。
荷馬車が何台も連なり、北へ向かって進んでいく。
家畜を引く者、荷物を背負って歩く者、幼い子供の手を引く者。
皆、不安そうな顔をしていた。
エリンは街道沿いに立ち、一行を見送った。
領内の守備兵たちが、馬車の前後についている。
その中には、マレートから剣を教わった若い兵士たちもいた。
「奥様、ご安心ください。必ず皆を無事にお連れします」
そう言って頭を下げた青年を、エリンは覚えていた。
以前、訓練場でマレートに何度も転ばされていた兵士である。
あの頃はまだ頼りない顔をしていたが、今では立派な騎士のように見えた。
「お願いね。でも、あなたたちも無理をしないで」
「はい!」
青年は元気よく答え、馬へ飛び乗った。
エリンはその背中を見送りながら、夫のことを思った。
マレートがこの領地へ来てから、十年。
彼が教えてきたことが、今、こうして領民たちを守ろうとしている。
剣の振り方だけではない。
危険な時にはどう動けばよいか。
仲間をどう守ればよいか。
彼は兵士たちに、何度も教えてきたのだろう。
エリンはそのことを、嬉しく思った。
*
その日の夕方、南の谷から急報が届いた。
敵の先遣隊が、ついに国境を越えたという。
副隊長は予定どおり道を塞ぎ、進軍を食い止めていた。
しかし、敵の数は予想より多いらしい。
「奥様、このままでは、長くは持ちません」
報告に来た兵士は、泥だらけだった。
エリンはすぐに地図を広げた。
「今、どこまで来ているの?」
「炭焼き小屋の手前でございます。こちらは木を倒して道を塞ぎ、弓兵を配置しておりますが、敵も歩兵を出して障害物を取り除こうとしております」
「副隊長は?」
「まだ持ちこたえると。ただ、避難が終わり次第、後退したいとのことです」
エリンはうなずいた。
それでいい。
今は敵を倒すことより、住民を逃がすことが大切だった。
「南の村の避難は?」
「最後の一隊が、今朝出発したとのことです」
「それなら、もう少しね。北の村へ着くまで、何とか持ちこたえてほしいわ」
そう言ってから、エリンはふと気づいた。
敵は、本当にこの道だけを通ってくるのだろうか。
頭の中に、また別の記憶が浮かびかける。
反乱軍の指揮官――その人物が好む戦い方――敵を正面から引きつけ、別の部隊を迂回させる。
そんな戦術を、あの男は何度も使っていたはずだ。
エリンは地図に顔を近づけた。
南の谷には、もう一本、細い道がある。
古い炭焼きの人々が使っていた、獣道のようなものだ。
今はほとんど人が通らない。
けれども、少人数なら抜けられる。
そして、その道は、避難民が通る街道の近くへ続いていた。
「……まずいわ」
エリンは顔を上げた。
「この道を調べて。少人数でも敵が入り込めば、避難民が危ないわ」
「承知いたしました!」
兵士が駆け出していく。
エリンは地図を見つめたまま、しばらく考えた。
マレートなら、どうするだろう。
きっと、敵の動きを予測しながら、味方の兵を動かすのだろう。
けれども、自分にはそんな軍才はない。
分かっていることを、分かっている範囲で伝えるしかない。
それでも、今の自分にはできることがある。
「家令を呼んでちょうだい。それから、屋敷に残っている兵士たちも」
エリンは壁に掛けられていた剣に目を向けた。
父が使っていたものだった。
領主として、いつか必要になるかもしれないと、手入れだけは欠かさずにいた。
剣の扱いについては、マレートから少し教わったことがある。
もちろん、彼のように戦えるわけではない。
それでも、何もしないでいるつもりはなかった。
エリンは剣を取り、鞘ごと腰に下げた。
ずしりと重い。
こんなものを振り回して、よく戦えるものだと改めて思った。
マレートは、これを手にして幾度も戦場へ向かったのだ。
そして、今も。
エリンは剣の柄に手を置いた。
十年前、彼が初めてこの屋敷へ来た時には、こんな日が来るとは思わなかった。
けれども、もう逃げるつもりはない。
自分はローバー辺境伯なのだから。
この土地を守る責任がある。
やがて家令が入ってきた。
「お嬢様、お呼びでしょうか」
「ええ。街道へ向かうわ。避難民が無事に通れるよう、最後まで確認したいの」
「しかし、お嬢様ご自身が?」
「もちろん、兵士たちと一緒によ。私一人で行っても、何の役にも立たないもの」
そう答えると、家令は少しだけ笑った。
「旦那様がいらしたら、きっと同じことを仰るでしょうな」
「そうかしら」
「ええ。奥様はご自分の仕事をなさればよい、と」
エリンも笑った。
確かに、マレートならそう言うかもしれない。
そして、きっと心配もするだろう。
帰ってきたら叱られるかもしれないが、それはその時のことだ。
「では、行きましょう」
エリンは外套を羽織り、屋敷を出た。
西の空には、夕陽が差している。
街道の向こうには、まだ何台もの荷馬車が見えた。
あの人たちを無事に送り届けなければならない。
エリンは馬車に乗り込み、御者に出発を命じた。
その後ろを、護衛の兵士たちが馬で続く。
やがて街道の先から、一騎の伝令が駆けてきた。
馬は汗だくで、乗っている兵士もひどく慌てた様子だった。
「奥様! 南の細道に、敵兵を確認しました!」
エリンは馬車を止めさせた。
「何人?」
「十数名ほどです! こちらの斥候を追い払って、街道へ向かっている模様です!」
エリンは御者に、馬車を街道脇へ寄せるよう命じた。
ここから先には、まだ逃げ遅れた住民たちがいる。
そして、自分の後ろには、屋敷から連れてきた護衛の兵士たちがいた。
「避難民を先に行かせて。私たちはここで待つわ」
兵士たちがうなずき、馬を進めた。
エリンは馬車から降り、街道の先を見つめた。
遠くから、馬の蹄の音が聞こえてきた。




