第6話 この十年は、私のもの
自分は、別の世界から来た人間だった。
その事実を思い出してから、エリンは何度も、自分の手を見つめるようになった。
十年前、マレートも同じことをしていた。
初夜の晩、彼は自分の両手を見下ろしながら、もう一人の自分が目覚めたのだと話していた。
あの時は、戦場でひどい経験をしたために、心が疲れているのだろうと思った。
今なら分かる。
彼は突然、自分の知らない記憶を与えられたのだ。
それまで当然だと思っていた世界が、ある日を境に、まるで違うものになってしまった。
しかも、彼の場合はもっと残酷だった。
マレートは軍人として生き、敵を倒し、兵士たちを率いてきた。その行為を、突然目覚めたもう一人の自分が非難し始めたのである。
彼には、どちらも自分だったのだろう。
それまで正しいと信じていたことを否定され、しかも否定しているのが自分自身なのだから、逃げ場がない。
どれほど苦しかっただろう。
エリンは思わず、目を閉じた。
今なら、少しだけ分かる。
けれども、あの時の自分には知りようがなかった。
それでも彼の話を聞き、ここで一緒に暮らしていこうと言った。
マレートは、その言葉を受け入れてくれた。
そして十年間、夫婦として暮らしてきたのである。
エリンは書斎の椅子に深く腰掛けた。
頭の中には、まだ別の記憶があった。
あちらの世界での自分。
仕事。
仲間たち。
マレートを救い出すための計画。
仮想空間に生じた重大な欠陥。
すべてを思い出したわけではないが、自分が何のためにここへ来たのかは、もう分かっていた。
彼を連れ戻すためだった。
救出しなければならない人間がいる。
そのために、自分はこの世界へ入った。
それなのに、いつの間にか使命を忘れ、エリン・ローバーとして生きていた。
両親を亡くし、妹を守り、辺境伯家を継いだ。
領地のことで悩み、婿を探し、第五皇子を迎えた。
そして、恋をした。
夫を愛し、子供を産み、育てた。
あちらの世界の自分には、こんな人生はなかった。
それでは、こちらの自分は何なのだろう。
仮想空間。
作られた世界。
その言葉の意味は理解できる。
ここにあるものが、あちらの世界と同じ形で存在しているわけではないことも。
けれども、だからといって、自分が生きてきた三十三年間を、なかったことにはできなかった。
ましてや、この十年間は。
*
その夜、エリンは子供たちと夕食をとった。
いつもならマレートが座っている席が空いている。
娘は何度もそちらを見ていたが、やがて思い切ったように尋ねた。
「かあさま、とうさまからお手紙は?」
「まだよ。国境まで行くのにも時間がかかるもの」
「そう……」
娘は少しがっかりした様子で、皿の野菜を口へ運んだ。
息子は、そんな姉の顔を眺めてから言った。
「とうさまが帰ってきたら、またお菓子作る?」
「そうね。きっと作ってくれるわ」
「こんどは、かたくないのがいいな」
エリンは思わず笑った。
「まあ。あのお菓子、そんなに固かった?」
「うん。でも、おいしかった!」
息子は得意そうに答えた。
娘も笑った。
「とうさま、粉を入れすぎたんですって。料理長がそう言ってたわ」
「じゃあ、今度はちゃんと教えてもらわなくちゃね」
そう言うと、二人は嬉しそうにうなずいた。
エリンも笑いながら、ふと考えた。
この子たちは、どうなるのだろう。
自分が元の世界へ帰ることになったら。
マレートを連れて、ここから出ていくことになったら。
その時、この子たちはどうなる?
あちらの世界には、この子たちがいるのだろうか。
それとも、ここにしか存在しないのだろうか。
思い出した知識を探ってみたが、答えは見つからなかった。
分からない。
それだけが、ひどく恐ろしかった。
「かあさま?」
娘が心配そうに顔を覗き込んできた。
「どうしたの?」
「……何でもないわ。ちょっと考え事をしていたの」
娘はしばらく母親を見つめ、それから小さな声で尋ねた。
「とうさま、帰ってくるよね?」
エリンは娘の手を取った。
「ええ。とうさまは、帰ってくると約束してくださったわ」
「うん」
娘は安心したようにうなずいた。
その小さな手は、温かかった。
指先には、木剣の稽古でできた小さなまめがある。
マレートが毎日、楽しそうに剣を教えていたのを思い出した。
息子はすでに食事を終え、眠そうに目をこすっている。
もうすぐ乳母が迎えに来るだろう。
エリンは娘の手を握ったまま、もう一度考えた。
この温かさは、何なのだろう。
仮想空間の中で感じているものだから、本物ではないのだろうか。
そんなはずがない。
この子を産んだ時の苦しさも、初めて抱いた時の喜びも、夜泣きに悩まされたことも、全部覚えている。
熱を出して寝込んだ時には、マレートと交代で看病した。
初めて一人で歩いた時には、夫と二人で手を叩いて喜んだ。
それが、ただ作られた世界の出来事だったからといって、何だというのだろう。
娘はエリンの顔を見上げ、にっこり笑った。
「かあさま、大好き」
「……私もよ」
エリンは娘を抱き寄せた。
息子も抱っこしてほしがったので、二人まとめて抱きしめることになった。
五歳になった息子は、もうずいぶん重かった。
*
子供たちを寝かしつけたあと、エリンは夫婦の寝室へ戻った。
大きな寝台に、一人で入る。
マレートがいない夜は、結婚以来、何度かあった。
領内の視察や、皇宮への訪問などで、数日離れて過ごしたこともある。
けれども、今夜は何だか落ち着かなかった。
隣に夫がいないことが、ひどく寂しい。
エリンは枕に顔を埋め、それから小さく笑った。
十年前には、こんな気持ちになるとは思わなかった。
ただ家を守るために、婿を探していただけだったのに。
あの人が来てくれて、本当によかった。
マレートは、エリンのことを大切にしてくれた。
仕事で疲れていれば、休むように言ってくれた。
領地のことで困っていれば、一緒に考えてくれた。
子供たちが生まれれば、誰よりも喜んでくれた。
そして、エリンが何かに悩んでいる時には、いつも話を聞いてくれた。
自分があれほど苦しんでいたのに。
十年前の初夜、エリンは彼の苦しみを理解できなかった。
けれども、それはマレートも同じだったのかもしれない。
自分とはまるで違う世界の人間でありながら、彼はエリンを愛してくれた。
エリンとして生きている自分を。
何も知らないまま、一生懸命に領地を守り、子供たちを育てている自分を。
彼は十年間、ずっと愛してくれたのだ。
そのことが、今になって、どうしようもなく嬉しかった。
「……マレート」
声に出してみる。
返事はなかった。
いつもなら、眠たそうな声で何だい、と答えてくれるのに。
エリンは掛布を引き寄せた。
早く帰ってきてほしい。
もう一度、あの人の顔が見たい。
そして、今度こそ話を聞きたい。
十年前には理解できなかったことを。
自分も同じように、すべてを思い出したのだと伝えたい。
けれども、それを話したら、マレートは何と言うだろう。
彼は、元の世界へ帰りたいのだろうか。
それとも、ここで暮らし続けたいのだろうか。
十年前の彼ならば、きっと帰りたかっただろう。
あれほど苦しんでいたのだから。
でも、今の彼は。
娘を抱き上げ、息子に剣を教え、エリンに笑いかけるあの人は、どう思うのだろう。
エリンには分からなかった。
それなら、本人に聞くしかない。
自分一人で決めることではないのだ。
ただ、一つだけ決めていることがあった。
子供たちを置いて帰るつもりはない。
マレートだけを連れ戻して、それで救出が終わったことにするつもりもない。
あちらの世界へ戻る方法があるのなら、家族のことも考えなくてはならない。
そのために何ができるのか、まだ分からないけれど。
それに、領地の人々もいる。
ここで暮らしてきた人たちを、突然見捨てることなどできない。
父から受け継ぎ、マレートとともに守ってきた土地なのだ。
仮想空間であろうと、作られた世界であろうと、エリンにとっては故郷だった。
エリンは、エリン・ローバーなのだから。
そして、もう一人の自分でもある。
どちらかを選んで、片方を捨てる必要があるのだろうか。
少なくとも、今すぐに答えを出す必要はないはずだった。
マレートが帰ってきたら、二人で考えよう。
十年間、そうしてきたように。
*
翌朝、エリンは早くから書斎に入った。
国境からの報告は、夜の間にも届いていた。
夫の率いる部隊は予定どおり進軍し、北の砦へ向かっているという。
エリンはその知らせに安堵し、続いて南の谷へ向かわせた斥候の報告を求めた。
家令は、少し険しい顔で書状を差し出した。
「お嬢様。昨日お調べになるよう命じられた谷ですが、やはり道があったそうです」
「……そう」
「古い道が、山の向こうまで続いていると。しかも、最近、何者かが通った形跡があるとのことです」
エリンは書状を受け取り、目を通した。
馬の蹄の跡。
踏み荒らされた草。
枝を払った跡。
間違いない。
敵はこちらへ来る。
それも、そう遠くないうちに。
エリンは地図を広げ、南の谷から領内へ続く道を確かめた。
その先には、小さな村がいくつもある。
家族を抱え、畑を耕し、家畜を育てて暮らしている人々。
何も知らずに朝を迎えている人たちがいる。
「南の村々へ、避難の準備を命じてちょうだい。老人と子供たちから先に移すわ」
「承知いたしました」
「それから、マレートへも急使を。敵が南の谷を通ってくる可能性が高いと伝えて」
家令がうなずき、部屋を出ていく。
エリンは窓の外を見た。
昨日の雨が嘘のように、よく晴れている。
庭では使用人たちが働いていた。
その向こうには、マレートが子供たちと遊んだ芝生が広がっている。
夫が帰ってきたら、またここで遊んでもらおう。
娘は新しい剣の型を覚えたと言っていたし、息子は今度こそ父親に勝つつもりでいるらしい。
エリンは窓から離れ、もう一度地図へ目を戻した。
まずは、皆を無事に避難させなければならない。
今の自分には、そのためにできることがある。
エリンは新しい紙を取り出し、各村へ送る指示を書き始めた。




