第5話 思い出してしまった
エリンは地図をもう一度広げた。
国境の向こう側には、隣国の都市や街道、砦の位置が記されている。
それらは以前から見慣れたものだった。辺境伯領を治める以上、隣国の地理についても、ある程度は知っておかなければならない。
けれども、今、エリンの頭に浮かんでいるのは、そんな知識とはまるで違うものだった。
「……どうして?」
思わず声が出た。
国境を越えてきた反乱軍は、北の砦へ向かっている。
報告にはそう書かれていた。
しかし、違う。
本隊はそちらへ向かわない。
砦の守備兵を引きつけておいて、南の谷から別の部隊が侵入する。
それが分かる。
なぜ分かるのか、自分でも分からないのに。
「お嬢様?」
家令が心配そうに声をかけてきた。
「何でもないわ。……いえ、ちょっと待って」
エリンは地図を指さした。
「こちらの谷、今はどうなっているの?」
「南の谷でございますか? 以前は炭焼きの者が使っておりましたが、今はほとんど人が通りません」
「馬は通れる?」
「場所によっては通れましょうが、大勢の兵を動かすには不向きかと」
「……そうよね」
それなのに、そこを通ってくる。
エリンには確信があった。
谷の途中には、地図に記されていない道がある。
ずっと以前に使われていた、古い道。
そこから抜ければ、ローバー領の南側へ出られる。
どうして、そんなことまで知っているのだろう。
「申し訳ないけれど、守備隊から数名を出して、こちらを調べさせてちょうだい。それから、南の村々にも警戒するよう知らせて」
「しかし、そちらへ敵が向かうという報告は……」
「分かっているわ。でも、念のためよ。もし何もなければ、それでいいの」
家令はうなずき、急いで部屋を出ていった。
エリンは再び地図に目を落とした。
その時、奇妙な名前が頭に浮かんだ。
隣国の反乱軍を率いている指揮官の名前だった。
まだその人物についての報告は届いていない。
けれども、エリンは知っている。
名前だけではない。どのような戦い方をするのか、どういう経歴を持つのか、まるで以前から調べていたように知っていた。
そして、その名前を心の中で繰り返した瞬間。
何かが、弾けた。
*
見たこともない光景が、次々と頭の中に浮かんできた。
いや、違う。
見たことがある。
自分は、そこにいた。
空に届きそうな建物。
夜になっても明るい街。
馬も引かずに走る乗り物。
文字や図形が、光る板の上にいくつも並んでいる。
その前に座っているのは、自分だった。
ただし、エリン・ローバーではない。
別の名前を持ち、別の人生を送っていた自分。
誰かが何かを説明している。
重大な欠陥。
プログラム。
仮想空間。
意識の分離。
サルベージ。
次々と、知らないはずの言葉が浮かび上がってくる。
いや。
全部、知っている。
分かる。
その言葉が何を意味するのか、自分は知っていた。
そして、あの人。
マレート。
彼は、あそこから出られなくなっていた。
「……あ」
エリンはテーブルに手をついた。
足元がふらつく。
椅子に腰を下ろそうとして、うまくいかず、そのまま膝をついた。
息が苦しい。
頭の中に、あまりにも多くの情報が流れ込んでくる。
自分がここへ来た理由。
この世界が作られた目的。
何かが正常に動かなくなったこと。
誰かが、それを修復しようとしていたこと。
そして、自分が送り込まれたこと。
彼を救い出すために。
マレートを、この世界から連れ戻すために。
そうだった。
自分は、そのためにここへ来たのだ。
けれども。
それでは、エリン・ローバーは何なのだろう。
父は。
母は。
妹は。
そして、マレートとの十年間は。
娘が生まれた日のことが浮かんだ。
赤ん坊を抱いて泣いていた夫。
初めて歩いた娘を、嬉しそうに抱き上げた姿。
息子が生まれた時、今度は上手に抱けると得意になっていたこと。
寒い夜に、暖炉の前で並んで座ったこと。
庭の薔薇。
雪解けの川。
春の祭り。
娘と息子の笑い声。
マレートが焼いた、少し固い林檎の菓子。
あれも、全部。
「……違う」
エリンは口に出していた。
何が違うのか、自分でもよく分からない。
けれども、頭の中へ入ってくる知識は、ここで暮らした十年間を、まるで別のものとして扱おうとしていた。
そんなことを、今すぐ受け入れられるはずがない。
さらに何かが浮かびかけた。
帰還するための手順。
意識を切り離す方法。
この世界から離れるために必要なこと。
それを理解しようとする自分がいる。
早く整理しなければ。
何が起きたのか、確認しなければ。
マレートを救い出すには、何をすればいいのか。
けれども。
今はそれじゃない。
エリンは強く目を閉じた。
今、国境では戦争が始まろうとしている。
マレートが戦場へ向かおうとしている。
娘と息子は屋敷にいる。
領民たちは、何が起きるかも知らずに暮らしている。
そちらが先だ。
自分が何者であったかを考えるのは、あとでいい。
エリンはテーブルの縁をつかみ、どうにか立ち上がった。
額に汗が浮かんでいる。
心臓がひどく速く打っていたが、少しずつ息が整ってきた。
目の前には、先ほどまでと変わらない書斎がある。
父から受け継いだ机。
窓際に置かれた花瓶。
棚に並んだ帳簿や書類。
十年間、夫と何度も広げてきた地図。
何も変わっていない。
少なくとも、今、エリンの目に見えるものは。
扉が叩かれた。
「お嬢様、よろしいでしょうか」
家令の声だった。
エリンは椅子に腰を下ろし、どうにか返事をした。
「ええ。入って」
家令は新しい報告書を手にしていた。
「国境からの続報でございます。反乱軍の一部が、北の砦へ向かっているとのことです」
「……ええ」
「また、南の谷へ向かわせる斥候の手配もできました」
エリンは報告書を受け取った。
そこには、敵の部隊についての記述があった。
黒地に銀の線が入った旗。
兵士たちの装備。
指揮官と思われる人物の特徴。
その一つ一つが、記憶の中にあるものと一致していた。
エリンはしばらく報告書を見つめ、それから顔を上げた。
「この部隊、北の砦を攻めるつもりはないと思うわ」
「と、申しますと?」
「砦へ向かっているのは、こちらの兵を引きつけるためよ。本当に警戒しなければならないのは、南の谷なの」
家令は驚いた顔をした。
「何か、根拠がおありですか?」
「……説明するのは難しいわ。でも、可能性はあるでしょう?」
家令は少し考え、うなずいた。
「確かに、砦の守備兵を動かすための陽動ということは考えられます」
「だったら、その可能性も考えて準備しましょう。斥候には、谷の奥まで調べるよう伝えて。それから、マレートにも知らせたいの」
「承知いたしました」
エリンは便箋を一枚取り出した。
夫へ、何と書けばよいのだろう。
自分が突然、知らないはずのことを思い出したと?
この世界が本当は別のものだと?
あなたを救い出すために、私はここへ来たのだと?
そんなことを今、伝えられるはずがない。
それに、マレートはまだ、自分が何者なのかも分かっていないのだろう。
十年前の初夜の言葉が、ふと頭に浮かんだ。
――もう一人の自分が目覚めた。
――それまで当たり前に行ってきたことが、突然、耐え難くなってしまった。
ああ。
そうだったのか。
あの時、彼は何を訴えていたのか。
今なら分かる。
自分の知っている世界が、突然、違うものになってしまった。
自分が自分であることさえ、分からなくなった。
それでも彼は、エリンと結婚し、子供たちを愛し、この土地で十年間暮らしてきたのだ。
エリンはペンを取った。
今は、夫に伝えるべきことがある。
南の谷を警戒すること。
敵の動きが、報告とは違う可能性があること。
自分は領内で準備を進めるから、安心してほしいこと。
書き終えると、最後に一行だけ付け加えた。
――子供たちも私も、あなたが帰ってくるのを待っています。
封をして、家令に渡した。
「できるだけ早く、マレートに届けてちょうだい」
「かしこまりました」
家令が退出すると、エリンは大きく息を吐いた。
まだ、頭の中はひどく混乱している。
けれども、やるべきことは決まっていた。
まず、領内の村々を守る。
戦いがこちらへ及ぶなら、住民を避難させなければならない。
食糧や馬車の手配も必要になる。
妹にも、子供たちのことを頼まなくては。
エリンは立ち上がり、窓を開けた。
午前中から降っていた雨は、いつの間にかやんでいた。
雲の切れ間から、明るい陽射しが庭へ差し込んでいる。
薔薇の葉には、まだ雨粒が残っていた。
夫が初めてこの屋敷へ来た日も、こんな天気だった。
雨上がりの庭を見て、きれいだと言ってくれた。
あれから十年。
自分は、あの人を愛している。
それだけは、何が起ころうと変わらない。
エリンは窓を閉め、家令を呼ぶためのベルを鳴らした。




