第4話 十年後の戦雲
結婚から十年が過ぎた春、ローバー辺境伯家の朝は、相変わらず賑やかだった。
娘は八歳、息子は五歳になっていた。
娘は最近、母親の仕事に興味を持ち始め、時折書斎へやってきては、帳簿や地図を覗き込んでいる。
一方、息子の関心はもっぱら父親の剣だった。
「とうさま、ぼくも稽古に行きたい!」
「まだ早いよ」
「姉さまは行ってるのに!」
「姉さまは君より三つも年上だろう?」
マレートがそう言うと、息子は不満そうに頬を膨らませた。
もっとも、娘が持っているのも子供用の木剣である。
父親の真似をして訓練場へ通い始めた娘は、近頃では簡単な型を覚えるようになっていた。
「とうさま、わたし、昨日教わったの、もうできるわよ」
「それは楽しみだ。あとで見せておくれ」
「じゃあ、ぼくも!」
「君はまず、転ばずに走れるようになろうね」
息子がむくれると、娘は得意そうに胸を張った。
エリンは朝食をとりながら、そんな親子のやり取りを眺めていた。
マレートはよく笑うようになった。
結婚したばかりの頃には、笑顔を見られただけで嬉しかったというのに、今では家族の誰かが冗談を言えば、真っ先に笑う。
朝食の席で新聞を読み、子供たちの話を聞き、エリンの予定を確かめる。
そんな毎日が、もう十年ほど続いていた。
「今日は北の村まで行くんだったね」
「ええ。橋の点検が終わったそうなの」
「あの橋も、ずいぶん長持ちしているな」
「あなたのおかげよ。橋脚を補強しておいてよかったわ」
マレートは照れくさそうに笑った。
「君が最初に修繕を決めていたからだよ。私は少し手を加えただけだ」
「相変わらず謙虚なのねえ」
エリンがそう言うと、娘が口を挟んだ。
「とうさま、すごいのよ。昨日、兵士の人が三人でかかっても勝てなかったんですって」
「まあ、そうなの?」
「訓練だからね。三人とも、ずいぶん腕を上げているよ」
そう答える夫の顔には、以前のような苦悩は見られなかった。
エリンはそれが何より嬉しかった。
*
隣国で反乱が起きたという知らせが届いたのは、その十日ほど後だった。
最初は、よくある地方領主の反抗だと思われていた。
ところが、反乱軍は予想以上に勢力を広げ、国境に近い都市まで陥落させたという。
エリンは書状を読み、すぐにマレートを呼んだ。
「これ、どう思う?」
「……よくないな」
マレートは地図を広げ、国境の向こう側を指さした。
「この都市が落ちたのなら、次はこちらへ向かう可能性がある」
「こちらって、帝国領へ?」
「ああ。反乱軍がそのまま進めば、正規軍と衝突する。その前に、食糧や物資を求めて国境を越えるかもしれない」
「そんなことをすれば、帝国との戦争になるわ」
「だからこそ、普通なら避ける。だが、反乱軍の指揮官がどこまで統制できているか分からない」
その説明には、軍人としての経験があった。
エリンも領主として、国境の守りを考えなければならなかった。
幸い、ローバー領の守備隊はマレートの指導によって以前より強くなっている。
それでも、戦争となれば話は別だった。
「陛下へ報告しましょう。こちらでも準備を始めるわ」
「そうだね。私も兵たちと話しておこう」
マレートは落ち着いて答えた。
ただ、その夜、彼は久しぶりに眠れなかった。
*
エリンが目を覚ますと、隣の寝台は空になっていた。
窓辺に、マレートが座っている。
月明かりの中で、彼はじっと自分の両手を見つめていた。
十年前にも、同じようなことがあった。
あの頃、彼は何度もそうして、自分の手を見ていたのだ。
「マレート?」
声をかけると、彼は顔を上げた。
「起こしてしまったね。すまない」
「また、眠れないの?」
「……ああ」
エリンは寝台を降り、夫の隣へ腰を下ろした。
マレートはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「また戦争になるかもしれない」
「ええ」
「私は、もう戦いたくないんだ」
その言葉を聞いて、エリンは夫の手を取った。
冷えきっている。
彼は自分の手を握り返し、苦しそうに続けた。
「十年前、私は戦場から逃げるようにこちらへ来た。君と出会って、子供たちが生まれて……本当に幸せだった」
「私もよ」
「もう、あの頃の自分には戻りたくない」
マレートはエリンを見た。
「だが、もし敵が攻めてきたら、私は剣を取らなければならない。君も、子供たちも、領民たちも守りたいから」
「……そうね」
「それなのに、怖いんだ。剣を握った途端、またあの頃の自分に戻ってしまうのではないかと」
エリンは返事に迷った。
彼がどれほど戦争を恐れているかは、十年間ずっと見てきた。
けれども、領主としては、夫に戦ってもらわなければならないかもしれない。
そのことが、ひどく申し訳なかった。
「マレート。私は、あなたに戦ってほしくないわ」
「エリン……」
「でも、もし攻めてこられたら、あなたを頼ると思う。私だけでは、領地を守れないかもしれないもの」
マレートは静かにうなずいた。
「分かっているよ」
「ごめんなさい」
「謝らないでくれ。私だって、この土地を守りたいんだ」
彼はエリンの手を両手で包んだ。
「十年間、ここで暮らしてきた。君と、子供たちと、皆と。私も、ここが好きなんだ」
「……ええ」
「だから、戦うことになれば戦うよ。ただ……」
言葉が途切れた。
エリンは夫の顔を見つめ、そっと肩に寄り添った。
この人は、まだ苦しんでいる。
十年も経ったのに、戦場で何があったのか、今も自分には分からない。
それでも、彼がこの家をどれほど大切に思っているかは知っている。
子供たちが生まれた時のことも、庭で遊んでいた時のことも、一緒に橋を直したことも。
あの頃とは違う。
今の彼には、守りたいものがたくさんあるのだ。
「マレート」
「何だい?」
「もし戦うことになっても、必ず帰ってきてね」
「……ああ」
「約束よ」
彼はエリンを抱き寄せた。
「約束する」
その夜、二人はしばらく窓辺に座っていた。
やがてマレートが寝台へ戻ろうと言い、エリンの肩に掛け布をかけてくれた。
彼の手がまだ冷たいことを気にしながら、エリンは夫とともに寝台へ戻った。
*
それから数日後、国境の守備隊から急報が届いた。
隣国の反乱軍がさらに勢力を広げ、国境付近の村々では住民が逃げ始めているという。
すでに一部の避難民が帝国領へ入ってきていた。
エリンは屋敷の広間に家令と守備隊の幹部を集め、受け入れの手配を命じた。
食糧と寝具を用意し、領内の教会にも協力を求める。
マレートは軍の配置を確認し、国境に近い砦へ兵を増やすよう提案した。
「戦争になると思う?」
「まだ分からない。だが、備えておいたほうがいい」
そう答える彼の表情は、以前の軍人のものに近づいていた。
エリンは胸が痛んだ。
ようやく笑えるようになった人なのに。
どうして、またこんなことになってしまうのだろう。
その日の午後、娘が書斎へやってきた。
「かあさま、とうさまは戦争に行くの?」
「……どうして?」
「兵士の人たちが話していたの。隣の国で戦争が始まったって」
エリンは娘を抱き寄せた。
「まだ決まったわけではないわ。でも、もし戦争になったら、とうさまは皆を守るために行かなければならないかもしれない」
「とうさま、強いんでしょう?」
「ええ。とても強いわ」
「じゃあ、大丈夫よね?」
娘はまっすぐに母親を見上げていた。
エリンは、すぐには答えられなかった。
強い人でも、戦場では命を落とすことがある。
父も母も、もういない。
人がいなくなるということを、エリンはよく知っていた。
「……とうさまは、きっと頑張ってくれるわ」
「うん!」
娘は安心したように笑った。
エリンはその髪を撫でながら、窓の外を眺めた。
午前中から降っていた雨は、昼を過ぎてもやむ気配がない。
書斎の窓を細かな雨粒が叩いている。
そこへ、扉を叩く音がした。
家令が入ってきて、一通の書状を差し出す。
「国境の砦から、至急の知らせでございます」
エリンは娘を乳母に託し、封を切った。
読み進めるうちに、思わず息を呑む。
反乱軍の一部が国境を越え、帝国側の村へ侵入したという。
砦の守備隊はすでに迎撃態勢に入っていた。
マレートが書斎へやってきたのは、ちょうどその時だった。
「エリン、知らせは?」
「ええ。今、読んだところよ」
彼は書状を受け取り、目を通した。
そして、静かに顔を上げた。
「……私が行く」
「マレート」
「ここから先は、私の仕事だ。兵を率いて、国境へ向かう」
エリンは何か言おうとした。
けれども、彼の顔を見て、言葉を飲み込んだ。
怖がっているのが分かった。
それでも、彼は行くつもりなのだ。
エリンは立ち上がり、夫の手を取った。
「分かったわ。こちらのことは任せて」
「ありがとう」
マレートはエリンを抱きしめた。
その腕に、いつもより強く力がこもっていた。
「必ず帰ってくる」
「ええ。待っているわ」
夫が部屋を出ていったあと、エリンはしばらく窓辺に立っていた。
雨はまだ降り続いている。
やがて庭の向こうから、兵士たちを集める鐘の音が聞こえてきた。
エリンは窓を閉め、家令を呼んだ。
夫が国境へ向かうなら、自分は屋敷と領地を守らなければならない。
避難民の受け入れも、食糧の備蓄も、まだやるべきことが山ほどあった。
「各村の代表を集めてちょうだい。それから、妹にも連絡を」
「かしこまりました」
エリンは地図を広げた。
国境の向こうには、反乱軍がいる。
その位置を示す報告書に目を落とした時、ふと妙な感覚に襲われた。
聞いたこともないはずの地名が、ひどく懐かしい。
それどころか、まだ報告されていない部隊の動きまで、知っているような気がした。
エリンは地図に顔を近づけた。
なぜ、こんなことを知っているのだろう。
その疑問に答える間もなく、廊下から家令の声が聞こえてきた。
エリンはひとまず地図を閉じ、急ぎ足で書斎を出た。




