第3話 あなたが笑うまで
結婚して最初の冬、エリンは夫が意外に寒がりだということを知った。
北方の戦場を駆け回っていた人だから、寒さには強いものと思っていたのだが、暖炉の前に陣取って動かなくなる姿を見ていると、どうもそうではないらしい。
「マレート、そんなに寒いの?」
「……寒い」
「軍にいらした頃は、どうしていたの?」
「我慢していた」
「まあ!」
あまりにも真面目に答えるので、エリンは笑ってしまった。
マレートも少し笑って、暖炉へ薪を一本足した。
「この地方の冬は長いと聞いていたが、これほどとは思わなかった」
「まだ序の口よ。来月にはもっと寒くなるわ」
「……本当かい?」
心底困ったような顔をする。
エリンは、これは厚手の部屋着を用意してあげなくては、と思った。
その年の冬、マレートは妻が仕立てさせた毛織物の上着をたいそう気に入り、屋敷の中ではほとんどそれを着て過ごした。
*
夫婦としての暮らしは、思いのほか穏やかだった。
マレートは軍務については頼りになるが、領地の経営に関しては、分からないことも多かった。
エリンが農地の賃借や商人との取引について説明すると、熱心に耳を傾ける。
その一方で、道路の整備や輸送については彼のほうが詳しい。軍隊を動かすには、そうした知識が欠かせないのだという。
二人で地図を広げ、ああでもない、こうでもないと話し合うことが増えた。
時には意見が食い違うこともある。
ある年、北の村へ通じる橋の修繕費をめぐって、二人はずいぶん長いこと議論した。
「こちらの道を使えば、費用は抑えられると思うんだが」
「でも、それでは村の人たちが遠回りになるわ」
「荷車を通すなら、むしろ安全だよ」
「冬はいいけれど、春になればぬかるむのよ、そこは」
エリンが指さすと、マレートはしばらく地図を眺め、それから笑った。
「なるほど。実際に暮らしている人間には敵わないな」
「あなたこそ、私が考えもしなかったことを教えてくれるじゃない」
結局、橋の修繕は当初の予定どおり行うことになった。
ただし、マレートの提案で、橋脚を補強する工事も加えられた。
翌年の雪解け水にも橋はびくともせず、エリンは夫に感謝した。
「あなたがいてくれて、助かったわ」
「私もだよ。君がいなければ、あの道を通せばよいと思ったままだった」
そんなことが、少しずつ増えていった。
エリンはいつの間にか、一人で何もかも決めようとしなくなっていた。
*
結婚して二年目の夏、娘が生まれた。
難産というほどではなかったが、初めてのお産はやはり大変で、エリンは生まれたばかりの赤ん坊を抱く頃には、すっかり疲れ果てていた。
その傍らで、マレートは泣いていた。
「……マレート?」
「すまない。嬉しくて」
戦場の鬼神が、赤ん坊を前にして涙を流している。
エリンは驚いたものの、その顔があまりにも幸せそうだったので、何も言わずに微笑んだ。
「抱いてみる?」
「いいのかい?」
「もちろん。あなたの娘よ」
助産婦に手伝ってもらいながら、マレートはおっかなびっくり娘を抱いた。
剣を握れば敵将を恐れさせる手が、小さな頭を支えるために、ひどく慎重に動いている。
「……小さいな」
「赤ん坊だもの」
「本当に、小さい」
同じことを二度も繰り返している。
エリンは笑いながら、夫と娘を眺めていた。
しばらくすると、マレートが不思議そうに尋ねた。
「この子は、こんなに小さくて大丈夫なのだろうか」
「大丈夫よ。助産婦さんも元気な子だって言っていたわ」
「そうか。……そうか」
マレートは何度もうなずき、それから娘に向かって、ひどく真面目に挨拶した。
「初めまして。父さんだよ」
赤ん坊は、何とも言えない顔をして大きなあくびをした。
エリンはとうとう声を上げて笑ってしまった。
*
娘が生まれてから、屋敷の暮らしは一変した。
マレートは娘をかわいがり、時間があれば顔を見に行った。
赤ん坊が泣けば真っ先に駆けつけ、どうしたらよいのか分からず乳母に助けを求める。
エリンが書斎で仕事をしていると、娘を抱いた夫がそっと顔を出すこともあった。
「エリン、少しいいかな」
「どうしたの?」
「この子が、どうしても寝なくて」
「まあ。さっきまで眠っていたのに」
エリンが抱き取ると、娘はしばらくぐずっていたものの、やがてすやすやと眠り始める。
マレートは感心したようにその様子を見ていた。
「君はすごいな」
「私だって、いつもうまくいくわけじゃないわよ」
そう言いながらも、エリンは少し得意だった。
もっとも、その後すぐに娘が目を覚まして大泣きし、二人で乳母を呼ぶことになったのだが。
娘が歩き始めた頃には、マレートはすっかりよい父親になっていた。
庭で転べば抱き起こし、花を摘めば一緒に眺める。
仕事から戻ってきた父親を見つけると、娘は小さな足で駆け寄っていくようになった。
「とうさま!」
その声が聞こえると、マレートは必ず足を止めた。
どんなに疲れていても、娘を抱き上げる時には嬉しそうに笑う。
エリンは、その様子を見るのが好きだった。
*
結婚して五年目には、息子が生まれた。
今度はマレートも少し慣れたもので、娘が赤ん坊だった頃の失敗談を持ち出しては、エリンを笑わせた。
やがて息子も歩き始め、屋敷はますます賑やかになった。
ある日のこと、庭から子供たちの歓声が聞こえてきた。
何事かと思って窓から覗くと、マレートが四つん這いになり、背中に娘を乗せている。
その後ろを、まだ小さな息子がよちよちと追いかけていた。
「もっと、もっと!」
「はいはい、お嬢様。お馬さんはもう疲れましたよ」
「だめ! まだ!」
鬼神と呼ばれた男が、娘に馬役を命じられている。
エリンはおかしくなって、窓を開けた。
「マレート! お馬さんが潰れてしまうわよ!」
「助けてくれ、エリン。どうやら降ろしていただけないらしい」
情けない声で訴えてくる。
娘は母親を見つけると、得意げに手を振った。
「かあさま! とうさま、はやいの!」
「まあ、そうなの。じゃあ、あと一周だけね」
夫が恨めしそうにこちらを見たので、エリンは笑いながら手を振り返した。
*
もちろん、マレートの苦しみがすっかり消えたわけではなかった。
時折、夜中に目を覚まして、窓辺に座っていることがある。
そんな時、エリンは隣に座り、彼が話し始めるのを待った。
もう一人の自分については、結婚当初ほど口にしなくなっていたが、時々、思い出したように妙なことを言った。
「エリン。もし、今まで生きてきた場所が、本当は違うものだったとしたら、どう思う?」
「違うもの?」
「ああ。うまく説明できないんだが……すべてが、何か別の仕組みで動いているような気がすることがある」
エリンには、やはりよく分からなかった。
ただ、そういうことを考える夜には、夫がひどく寂しそうになるのは知っていた。
「私には、ここが私の生まれ育った場所だわ」
「……そうだね」
「あなたも今は、ここにいるでしょう?」
「ああ」
エリンは彼の手を取った。
「だったら、今はそれでいいじゃない。考えても分からないことなら、無理に答えを出さなくても」
「……君は、強いな」
「そうかしら。私はただ、目の前のことで手いっぱいなだけよ」
マレートは少し笑い、エリンの手を握り返した。
彼が何に苦しんでいるのか、今も全部は分からない。
けれども、以前はそんな夜が何日も続いていたのに、近頃では、翌朝にはいつもの夫に戻っている。
子供たちの声を聞けば起き上がり、朝食の席では娘の話に耳を傾け、息子がパンを落とせば拾ってやる。
エリンはそれを喜んでいた。
*
十度目の冬が終わろうとしていた。
娘はすっかりおしゃまになり、息子も父親の真似をして木剣を振り回すようになっていた。
屋敷の使用人たちは、マレートを皇子殿下というより、すっかりローバー家の旦那様として扱っている。
エリンもまた、夫のいない暮らしなど考えられなくなっていた。
あの日、皇宮から届いた書状を三度も読み返したのが、ずいぶん昔のことに思える。
鬼神が婿にやってくると聞いて、あんなに驚いたのに。
今ではその鬼神が、休日になると子供たちの遊び相手を務め、時には厨房へ入り込んで菓子作りを手伝っている。
「マレート、それ、粉を入れすぎじゃない?」
「……そうだろうか」
「どう見ても多いわよ」
「料理長は、このくらいだと言っていたんだが」
エリンが覗き込むと、ボウルの中には妙に固そうな生地ができていた。
マレートは真剣な顔でそれを混ぜている。
傍らでは娘が林檎を並べ、息子は小麦粉のついた指を舐めようとして、姉に叱られていた。
「とうさま、まちがえたの?」
「どうやらそうらしい」
「とうさま、へたくそ!」
「うん。困ったものだね」
マレートが笑ったので、子供たちも笑った。
エリンはその様子を眺めながら、ふと思った。
初めて会った頃、夫はいつも申し訳なさそうな顔をしていた。
笑う時でさえ、どこか遠慮がちだった。
それが今では、こんなふうに子供たちと大声で笑っている。
随分と変わったものだ。
もちろん、エリン自身も。
あの頃は領地のことばかり考えていて、こんな賑やかな家庭を持つとは想像もしていなかった。
「エリン、ちょっと味を見てくれないか」
マレートが生地を差し出してきた。
エリンは覗き込んで、首を振った。
「焼いてからにしましょうよ」
「それもそうだね」
彼は素直にうなずき、それから何を思ったのか、エリンの頬に軽く口づけた。
「いつもありがとう」
「まあ、急にどうしたの?」
「いや。何となく、言いたくなって」
エリンは少し照れて、それでも嬉しくなったので、夫の頬に口づけを返した。
すると、娘が大きな声を上げた。
「ずるい! わたしも!」
マレートが娘を抱き上げると、今度は息子まで両手を伸ばして騒ぎ出した。
とうとう菓子作りは中断となり、料理長が困った顔で生地を引き取ることになった。
その日の夕食には、少々形の悪い林檎の焼き菓子が並んだ。
マレートは自分の皿に載った菓子をしばらく眺めていたが、一口食べると、たいそう満足そうに笑った。
「うん。おいしい」
「本当?」
「ああ。とても」
その言い方があまりにも嬉しそうだったので、エリンも一口食べてみた。
少々固かった。
けれども、林檎の甘酸っぱさがよく合っていて、悪い出来ではない。
エリンがそう言うと、マレートは来週も作ろうと言い出した。
娘は大喜びし、息子も真似をして手を叩く。
料理長だけが、少し困った顔をしていた。




