第2話 噂とは違う夫
結婚翌日の朝、エリンが目を覚ますと、夫はすでに起きていた。
窓辺に立ち、庭を眺めている。
昨夜はあれほど疲れた様子だったのに、軍人の習慣というものは簡単には抜けないらしい。
「おはようございます、マレート様」
「ああ、おはようございます。起こしてしまいましたか?」
「いいえ。いつもこのくらいですわ」
実際には、もう少し遅い。結婚式の翌日くらい、ゆっくり眠っていてもよかったのだが。
マレートは窓の外を指さした。
「昨日のお庭を、もう少し拝見してもよろしいですか?」
「ええ。よろしければ、朝食のあとにでも」
「楽しみにしております」
そう言って微笑む顔は、昨夜よりいくらか明るかった。
エリンはそれだけで、何となく嬉しくなった。
*
庭は、父が若い頃から手を入れていたものだった。
屋敷の南側には薔薇が植えられ、その奥には小さな果樹園がある。
雨上がりの朝、石畳はまだ濡れていたが、陽射しは暖かかった。
「こちらが父の好きだった薔薇です。毎年、春になると楽しみにしていました」
「見事ですね。ずいぶん種類が多い」
「ええ。でも、私は名前を全部覚えられなくて」
そう言って笑うと、マレートは薔薇に顔を近づけ、香りを確かめた。
「母が薔薇を好きなのです。宮殿にも小さな庭を持っておりまして」
「まあ。では、お詳しいのですか?」
「いえ、母の話を聞くくらいで。私はもっぱら、枝を切る手伝いをさせられておりました」
意外な話だった。
戦場の鬼神が、母親に命じられて庭仕事をしている。
その姿を想像すると、少しおかしかった。
「マレート様のお母様は、お元気でいらっしゃいますか?」
「はい。私がこちらへ来ることを、たいそう喜んでおりました。これで少しは落ち着いて暮らせるだろうと」
そう話す時のマレートは、いくらか照れくさそうだった。
家族のことを大切にしている人なのだろう。
エリンは、皇帝や側室がこの結婚を決めた理由を、改めて理解した気がした。
*
婿入りしたマレートには、辺境伯家の軍務を補佐してもらうことになっていた。
ただし、最初から仕事を詰め込むつもりはない。
エリンはしばらく屋敷で休養してもらおうと考えていたのだが、本人は三日もすると、何か仕事はないかと尋ねてきた。
「せっかくこちらへ迎えていただいたのですから、何もせずにいるのは申し訳なくて」
「ですが、まだお疲れでしょう?」
「身体はもう大丈夫です。それに、少し動いていたほうが落ち着きます」
それならばと、エリンは守備隊の訓練を見てもらうことにした。
領内の兵士たちは、鬼神と呼ばれた第五皇子が来たとあって、ひどく緊張していたらしい。
ところが、実際に訓練が始まると、マレートは少しも恐ろしい指導者ではなかった。
「今の踏み込みはよかった。ただ、足が開きすぎている。もう一度やってみよう」
木剣を手に、若い兵士の姿勢を直している。
相手が失敗しても怒鳴ったりしない。何度も手本を見せ、うまくできれば素直に褒める。
エリンが訓練場を訪れた時には、兵士たちはすっかり打ち解けていた。
「殿下、もう一度お願いいたします!」
「ああ、構わない。今度は私が受けるから、遠慮せずに打ち込んでみなさい」
若い兵士が勢いよく踏み込んだ。
次の瞬間、その木剣はあっさりと弾かれ、兵士自身も地面に尻餅をついていた。
「足の運びを覚えれば、もっとよくなる。腕の力だけで打とうとしないことだ」
マレートが手を差し出すと、兵士は照れ笑いを浮かべながら立ち上がった。
周囲からも笑い声が上がる。
なるほど、強いことは間違いないらしい。
それも、エリンが想像していたよりはるかに。
「ずいぶん楽しそうですね」
訓練が一段落したところで声をかけると、マレートは少し驚いたようだった。
「エリン殿。いらしていたのですか」
「ええ。皆がどんな様子か、気になりまして」
「よい兵士たちです。皆、熱心で」
「それは、指導なさる方がよいからでしょう」
そう言うと、彼は恐縮してしまった。
どうにも褒められることに慣れていないらしい。
これで戦場では敵を震え上がらせていたというのだから、人というのは分からないものである。
*
それから幾月かが過ぎた。
マレートは少しずつ領地の暮らしに馴染んでいった。
朝はエリンと食事をとり、昼間は兵士たちの訓練を見たり、領内を視察したりする。
農村を訪ねれば、畑の様子を尋ね、収穫の話に耳を傾けた。
最初は皇子殿下ということで身構えていた領民たちも、彼が気さくに話しかけてくれると分かると、次第に親しみを持つようになった。
ある日など、村から帰ってきたマレートが、大きな籠を抱えていたことがある。
「これは、どうなさったのです?」
「農家の方が持たせてくださいまして。私たちの結婚祝いだそうです」
「まあ、林檎がこんなに」
「断ったのですが、ぜひ持っていってくれと。困りました」
困ったと言いながら、どこか嬉しそうだった。
エリンは早速、厨房へ林檎を運ばせた。
その日の夕食には林檎の焼き菓子が出され、マレートはたいそう喜んだ。
食後には、村で聞いた話をあれこれとエリンに聞かせてくれた。
「そういえば、北の村の橋ですが、あれは修繕したほうがよいのではありませんか?」
「ええ。来年には手を入れるつもりです」
「春の雪解けまでに、せめて欄干だけでも直せないでしょうか。荷車が通るには少々危ないようです」
エリンは驚いた。
軍人ならば、橋を見れば兵の移動や防備を考えるものだと思っていた。
ところが彼が心配したのは、村人の荷車だったのである。
「分かりました。職人に見積もりを出させます」
「ありがとうございます」
自分のことでもないのに、マレートは嬉しそうに礼を言った。
その様子を見て、エリンは思った。
この人を夫に迎えて、よかったのかもしれない。
*
もっとも、すべてが順調というわけでもなかった。
マレートは時折、ひどく落ち込むことがあった。
夜中にうなされて目を覚ましたり、何かを思い出したように考え込んだりする。
そんな時、エリンは無理に話を聞き出そうとはしなかった。
ただ、眠れない夜には一緒に起きて、お茶を飲んだ。
「申し訳ありません。いつもご迷惑をおかけして」
「夫婦なんですから、そんなに謝らなくても」
「……そうですね」
マレートは苦笑した。
「エリン殿は、いつもそう仰いますね」
「だって、本当のことですもの」
エリンは少し考えてから、彼の手に自分の手を重ねた。
「私も、領地のことで悩むことがあります。そんな時には、マレート様にお話ししてもよろしいですか?」
「もちろんです」
「では、おあいこですね」
マレートはしばらくエリンを見つめ、それから手を握り返した。
「……あなたと結婚できて、私は幸運でした」
「まあ。まだ一年も経っておりませんのに」
「それでも、です」
その言葉が、妙に嬉しかった。
エリンは自分の頬が熱くなるのを感じ、少し困ってしまった。
こんな気持ちになるとは思っていなかったのだ。
ただ家を守るために婿を探していたはずなのに、今では、彼が夕食に帰ってくるのを楽しみにしている。
仕事の合間に顔を見れば安心するし、何か面白いことがあれば、真っ先に話したくなる。
それがいつからなのか、エリン自身にもよく分からなかった。
「ところで、マレート様」
「はい?」
「そろそろ、エリン殿というのはやめませんか?」
「……と、申しますと」
「夫婦なんですもの。エリン、と呼んでくださればいいのに」
マレートは目を丸くした。
それから、ひどく真面目な顔で考え込んでしまう。
「……エリン」
「はい」
返事をすると、彼は何とも言えない顔で笑った。
嬉しそうで、少し照れくさそうで。
エリンもつられて笑ってしまう。
「では私も、マレートとお呼びしてよろしい?」
「もちろんです」
エリンは握っていた手に少し力を込めた。
「マレート」
「はい、エリン」
互いの名前を呼んだだけなのに、何だかおかしくて、二人で笑った。
その夜、マレートは久しぶりに、朝までぐっすりと眠った。




