第1話 鬼神の花婿
婿を探していたら、戦場の鬼神がやってくることになった。
エリン・ローバーは皇宮から届いた書状を三度読み返し、それから傍らに控えていた家令に尋ねた。
「これ、本当にうち宛てよね?」
「間違いございません、お嬢様」
「第五皇子殿下って、あの第五皇子殿下?」
「ほかに第五皇子殿下はおられません」
それはそうだ。
エリンは書状をテーブルに置き、窓の外を眺めた。
朝から降り続いていた雨が、ようやく小降りになっている。今日の午後には晴れるという話だったが、どうやらその予報は当たりそうだった。
それにしても、いったいどうしてこうなったのだろう。
ローバー辺境伯家は、帝国の北西部に広大な領地を持つ名門である。
ただし、名門だからといって懐具合が豊かなわけではない。国境に近い土地柄、軍備には金がかかるし、春先には川が氾濫する。冬の備蓄も欠かせない。
おまけに三年前、父が亡くなった翌年には母まで病で失った。
それ以来、エリンは家督を継ぎ、妹の面倒を見ながら、領地をどうにか切り盛りしてきた。
二十三歳になった今、いい加減に結婚を考えなければならない。
もちろん、恋愛をしている暇などなかった。欲しかったのは、家をともに支えてくれる誠実な夫である。
幸い、ローバー辺境伯家は女系継承も認められている。
そこで思いついたのが皇室への打診だった。
皇子や皇族の中に、継承順位が低く、地方で暮らしても構わないという男性がいればありがたい。そんなつもりで申し入れたのである。
まさか第五皇子マレートが選ばれるとは、夢にも思わなかった。
「……鬼神、なのよねえ」
「はい。先の戦では、わずかな手勢で敵軍を撃破なさったとか」
「敵将の首を三つ取ったって話もあるわね」
「五つという噂もございます」
「増えてるじゃないの」
ともかく、そんな恐ろしい武人を婿に迎えて、果たしてうまく暮らしていけるのだろうか。
もっとも、皇帝直々の申し出である。今さら断るわけにもいかなかった。
*
その第五皇子がやってきたのは、それからひと月ほど後のことだった。
前日から続いていた雨は昼前にやみ、午後には雲の間から青空が覗いていた。
エリンは屋敷の玄関前で、一行を出迎えた。
立派な馬車と護衛の騎士たち。その中から降りてきた男性を見て、少々拍子抜けする。
マレートは二十八歳と聞いていた。
背が高く、肩幅も広い。黒髪に灰色の瞳をした、いかにも軍人らしい体格の青年だった。
けれども、その顔には疲労の色が濃かった。
頬は少しこけ、目の下には隈がある。何よりも、ひどく遠慮がちな表情をしていた。
「エリン・ローバー辺境伯殿でいらっしゃいますね。マレートと申します。このたびは、どうぞよろしくお願いいたします」
丁寧に頭を下げられて、エリンは慌てた。
こちらは辺境伯とはいえ、相手は皇子である。
「こちらこそ、遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます。どうぞお顔をお上げください」
「お世話になります。至らぬところも多いと思いますが、できる限りお役に立てればと」
「いえ、そんな。こちらこそ、まだまだ未熟な領主ですから」
どうやら、お互いに恐縮してしまったらしい。
しばらく妙な具合に頭を下げ合ってから、エリンはようやく屋敷へ案内した。
道中、彼は庭の植え込みを眺め、馬小屋の位置を尋ね、屋敷の古い石壁に目を留めた。
軍人だから防備が気になるのだろう。
ところが、エリンがそう尋ねると、マレートは困ったように笑った。
「いえ。ずいぶん大切に手入れされていると思いまして」
「父が気に入っていた庭なんです」
「そうでしたか。よい庭ですね」
それだけの会話だったが、エリンは少し安心した。
少なくとも、庭を眺めて穏やかに笑うことのできる人らしい。
*
婚礼は、領内の教会で執り行われた。
皇帝の名代として宮廷から使者が訪れ、マレートの母君からは美しい宝石の首飾りが贈られた。
華やかな式だったが、新郎は終始緊張している様子だった。
もっとも、エリンも緊張していたのだから、人のことは言えない。
やがて祝宴が終わり、夜になった。
夫婦の寝室に案内されたマレートは、部屋に入ってからも、どうにも落ち着かない様子である。
エリンはどうしたものかと考えた末、まず椅子を勧めた。
「少しお話ししませんか。私たち、まだ互いのことをほとんど知りませんもの」
「……そうですね」
マレートはほっとしたように腰を下ろした。
エリンも向かいに座る。
結婚したばかりの男女が初夜に向かい合って座っているというのも妙な光景だが、彼があまりに思い詰めた顔をしているので、何か事情があるのだろうと思った。
そして、その予感は当たっていた。
「エリン殿。実は、先にお伝えしておかなければならないことがあります」
「何でしょう?」
「私は……少し、おかしいのです」
エリンは首をかしげた。
マレートは自分の両手を見下ろしている。
「戦場で、ある日突然、自分の中に別の誰かがいるような気がするようになりました」
「別の誰か、ですか?」
「はい。もう一人の自分、と言えばいいのでしょうか。それまで当たり前に行ってきたことを、ひどく恐ろしいことだと責めるのです」
彼はそこで言葉を切った。
何から話せばよいのか、迷っているらしい。
「私は軍人です。敵を倒すことも、兵を率いて戦うことも、当然の務めだと思っていました。けれども、ある戦いの最中、突然……何をしているのだ、お前は、と」
「誰かに言われたのですか?」
「いいえ。誰の声でもありません。ただ、私自身が、そう思ったのです。それまで何の疑問も抱かなかったことが、突然、耐え難くなってしまった」
エリンは黙って聞いていた。
戦場で人を殺すことが恐ろしくなった。
それなら理解できる。
しかし、もう一人の自分が目覚めたというのは、どういうことなのだろう。
「その時から、時折、自分が自分でないような気がするのです。知るはずのないことを知っている気がしたり、見たこともない場所が頭に浮かんだり……」
「それは、いつ頃から?」
「最後の戦が始まって間もなくです。最初は疲れているのだろうと思いました。ですが、戦が終わっても変わりませんでした」
マレートは顔を上げた。
「私はもう、戦いたくありません。剣を握れば、また以前のように戦えてしまうのでしょう。それが恐ろしいのです」
最後の言葉は、ひどく苦しそうだった。
エリンは目の前の青年を見つめた。
これが、敵軍を震え上がらせたという鬼神なのか。
自分には、どう見ても、心底疲れ果てた人間にしか思えなかった。
「……陛下には、お話しになったのですか?」
「はい。父上にも、母上にも。お二人とも、ずいぶん心配してくださいました」
「それで、こちらへ?」
「父上は、しばらく戦場から離れたほうがよいと。こちらなら、私にもお役に立てることがあるだろうと仰せでした」
ああ、なるほど。
つまり皇帝は、息子を休ませたかったのだ。
同時に、辺境の守りも任せられる。皇帝にしてみれば、悪くない縁組だったのだろう。
エリンとしても、領地を守るために優れた軍人が来てくれるのはありがたい。
ただ、本人がここまで悩んでいるとは思わなかった。
「マレート様」
「はい」
「私は戦場を知りません。ですから、あなたのお気持ちをすべて理解することはできないと思います」
マレートの肩がわずかに落ちた。
エリンは慌てて続けた。
「でも、お話を聞くことはできます」
「……え?」
「その、もう一人のご自分というのは、私にはよく分かりません。でも、マレート様がずっと苦しんでいらしたことは分かります。でしたら、これからもお話しください。私にできることがあれば、いたしますから」
彼は驚いたようにエリンを見つめた。
「……私を、恐ろしくは思われないのですか?」
「今のお話を聞いた限りでは、特に」
「しかし、私は多くの人を殺しました」
「戦争でしたのでしょう?」
エリンは少し考えた。
「もちろん、だから何をしてもよかったとは思いません。でも、私には戦場で何があったかも分かりませんし、マレート様がどんな方なのかも、まだよく知りません。ですから、これから知っていけばいいと思うんです」
マレートはしばらく返事をしなかった。
やがて、大きく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「お礼を言われるほどのことではありませんわ。私たち、今日から夫婦なんですもの」
そう言ってから、エリンは少し恥ずかしくなった。
夫婦という言葉が、まだ自分のものになっていない。
するとマレートも、ほんの少し頬を赤くした。
「そう、ですね。夫婦、なのですね」
「ええ。ですから、まずはゆっくりお休みになってください。お顔の色が、あまりよくありませんもの」
「……初夜だというのに、申し訳ありません」
「まあ」
エリンは思わず笑ってしまった。
「これから先、いくらでも機会はありますでしょう?」
「それは……そうですが」
真面目な顔で考え込むので、ますますおかしくなってしまう。
マレートもつられたのか、かすかに笑った。
初めて見る、少しだけ無防備な笑顔だった。
その夜、二人は並んで眠った。
マレートが眠りについたあとも、エリンはしばらく天井を眺めていた。
戦場で人を恐れさせてきた人が、あんなふうに怯えている。
よほどつらい経験をしたのだろう。
エリンには彼の話をすべて理解することはできなかったし、どうすればよいのかも分からなかった。
ただ、これから毎晩、あんな顔で眠りにつくのでは気の毒だと思う。
せめて、この家で暮らすうちに、少しは元気になってくれればいい。
隣から、穏やかな寝息が聞こえてくる。
エリンは掛布の端を夫の肩まで引き上げ、それから自分も目を閉じた。
明日は晴れるという。
天気がよければ、父の好きだった庭をもう少し案内してあげよう。




