第3話 誰も覚えていない理由
放課後のチャイムが鳴った瞬間、胸の奥がざわついた。
今日も澪の声が聞こえるかもしれない。
でも、聞こえなかったら、その可能性が怖かった。
俺は誰よりも早く席を立ち、教室を出た。
廊下には部活へ向かう生徒たちが流れていく。
そのざわめきの中で、俺だけが別の世界にいるような気がした。
階段を降りる途中、耳の奥がじわりと熱くなる。
昨日と同じ感覚。
俺は立ち止まった。
「……ゆうと……」
微かに。
本当に微かに。
澪の声が聞こえた。
「澪……いるのか」
「うん……ここにいるよ……でも……今日は、昨日より……ずっと弱いの……」
声は、昨日よりもさらに薄かった。
風の音に紛れたら、きっと気づけないほどの弱さ。
俺は階段の踊り場に立ち、周囲を見渡した。
誰もいない。
でも、澪は確かに“近く”にいる。
「どこにいるんだ」
「ゆうとの……すぐ後ろ……でも、見えないよ……もう……ほとんど形がないから……」
その言葉は、昨日よりもずっと現実味があった。
「昨日より……薄くなってるのか」
「うん……今日、誰も……私のことを思い出さなかったから……世界が……私を忘れようとしてるの……」
胸が痛くなった。
「誰も……?」
「うん……ゆうと以外、誰も……私の名前も、顔も、声も……全部、忘れてる……」
澪の声は震えていた。
昨日よりもずっと不安定で、途切れそうだった。
俺は息を吸った。
胸の奥が熱くなる。
「……澪。君は……この学校の生徒だったのか?」
少し間があって。
「うん……そうだよ……でも、もう……名簿にも……写真にも……どこにも、私の痕跡はないの……」
「そんなこと……あり得ないだろ」
「あり得るんだよ……だって、私は……消えかけてるから……」
澪の声は、まるで自分の存在を確かめるように震えていた。
俺は階段の手すりを握った。
指先が白くなる。
「……澪。君は……本当に存在してたんだよな」
「うん……ゆうとと……話したこともある……笑ったことも……名前を呼んでもらったことも……全部、本当にあったこと……」
「でも……俺は覚えてない」
「ゆうとのせいじゃないよ……私が薄れてるから……ゆうとの記憶の中の“私”も……少しずつ消えてるの……」
胸が締めつけられた。
「……澪。俺は……君のことを思い出したい」
「思い出してほしい……でも……思い出すほど……ゆうとの中の何かが……削れていく……」
「それでもいい」
「だめだよ……ゆうとまで……消えちゃうかもしれない……」
その言葉は、昨日よりもずっと重かった。
澪は本気で心配している。
自分が消えることよりも、俺が消えることを。
「……澪。君は、俺に何をしてほしいんだ」
少し間があって、澪の声は、かすかに震えながら答えた。
「ゆうと……私を……見つけて……消える前に……もう一度、ちゃんと……見つけてほしい……」
その言葉は、昨日よりもずっと切実だった。
俺はゆっくりと息を吐いた。
「……分かった。絶対に見つける。澪が消える前に」
澪の声は、少しだけ強くなった。
「ありがとう……ゆうと……でも……気をつけて……私を探すと……ゆうとの記憶が……少しずつ……削れるから……」
「それでもいい」
「……ゆうと……優しいね……でも……怖いよ……ゆうとがいなくなるの……」
澪の声は、昨日よりもずっと弱くなった。
まるで、言葉を発するたびに消耗しているようだった。
俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「澪。放課後……もっと話せる場所に行こう。人が少ないところなら……声が強くなるんだろ?」
「うん……ゆうとが……そうしてくれるなら……少しだけ……話せると思う……」
「じゃあ……屋上に行こう」
「……うん……屋上なら……風が強いけど……人がいないから……少しだけ……楽かもしれない……」
「行こう。澪の声が……ちゃんと聞こえる場所へ」
「……ありがとう……ゆうと……放課後……屋上で……待ってる……」
その声は、昨日よりもずっと弱かった。
でも、確かにそこにいた。
俺は階段を降りながら、胸の奥を押さえた。
澪は消えかけている。
でも、まだ消えていない。
そして、俺だけが、澪を覚えている。
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
廊下の蛍光灯が白く光り、足音だけが響く。
俺は屋上へ向かう階段を上りながら、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じていた。
澪の声が聞こえるかもしれない。
でも、聞こえなかったら、その可能性が怖かった。
屋上の扉を押し開けると、夕方の風が一気に吹き込んできた。
少し冷たい風。
でも、その冷たさが心地よかった。
誰もいない屋上。
フェンスの向こうに広がる空。
校庭のざわめきが遠くに聞こえる。
俺はゆっくりと歩き出した。
「……澪」
名前を呼んだ瞬間。
「……ゆうと……」
風に紛れそうなほど弱い声が、耳の奥に触れた。
昨日よりも、今日の昼よりも、ずっと弱い。
「澪……ここにいるのか」
「うん……ゆうとの……すぐ近くに……でも……風が強いから……声が……流れちゃう……」
声が震えている。
風に押されて、消えそうなほど弱い。
俺は風を避けるように、屋上の隅へ移動した。
フェンスの影が落ちて、少しだけ風が弱まる。
「ここなら……少しは話せるか?」
「うん……ありがとう……ゆうと……少しだけ……楽になった……」
澪の声が、ほんの少しだけ強くなった。
でも、その強さは長く続かなかった。
「ゆうと……今日ね……誰かが私の名前を呼んだ気がしたの……でも……違った……私じゃなかった……」
「……誰が?」
「わからない……でも……その瞬間、少しだけ……世界に戻れた気がした……ほんの一瞬だけ……“存在してる”って感じがしたの……」
胸が痛くなった。
「澪……君は……本当に消えかけてるんだな」
「うん……でも……ゆうとが呼んでくれるから……まだ、ここにいられる……ゆうとが……最後のひとりだから……」
「最後のひとり……」
その言葉は、昨日よりもずっと重く響いた。
俺はフェンスに手を置き、風を感じながら澪の声を待った。
「ゆうと……ねえ……ひとつ、聞いてもいい……?」
「なんだよ」
「今日……誰かに……私のこと、聞いてみた……?」
俺は少し考えてから答えた。
「……佐伯に、少しだけ。“誰か探してるみたいだ”って言われたから……澪のことを……言いかけた」
「言いかけた……?」
「でも……言えなかった。澪のことなんて……誰も信じないと思ったから」
少し間があって。
「……ありがとう……ゆうと……言わなくて、よかった……もし言ってたら……その人の中の“私”が……完全に消えてた……」
「どういうことだよ」
「ゆうと以外の人が……私の名前を聞いたら……“知らない名前”として処理される……その瞬間……私の存在は……その人の世界から完全に消える……もう二度と……戻れなくなる……」
胸が冷たくなった。
「じゃあ……澪のことを誰かに話したら……澪はもっと消えるってことか」
「うん……だから……ゆうとだけが……私を覚えていてくれればいい……ゆうとだけが……私の世界……」
その言葉は、風よりも冷たく、でもどこか温かかった。
俺は息を吸った。
胸の奥が熱くなる。
「澪……俺は……君を忘れない。絶対に」
「ゆうと……ありがとう……でも……ゆうとの記憶が……少しずつ……削れてるの……わかる……?」
「……削れてる?」
「今日……ゆうと、階段で……誰かの名前を思い出せなかったよね……それ……私のせい……」
胸が跳ねた。
確かに、階段で、誰かの名前が出てこなかった。
誰だったかも思い出せない。
「……澪。俺の記憶が……なくなってるのか」
「うん……私がここにいるために……ゆうとの記憶を……少しだけ借りてる……ほんの少しだけ……でも……それが積み重なると……ゆうとが……危ない……」
「危ないって……」
「ゆうとまで……世界から薄れてしまうかもしれない……私みたいに……」
風が強く吹き、澪の声が一瞬途切れた。
俺は胸の奥を押さえた。
痛い。
怖い。
でも。
「……澪。それでも……俺は君を探す。君が消える前に……絶対に見つける」
「ゆうと……どうして……そこまで……」
「分からない。でも……君の声が消えるのが……嫌なんだ」
風が少し弱まり、澪の声がかすかに戻ってきた。
「ゆうと……ありがとう……でも……もう少しだけ……時間がほしい……私……ゆうとに……言わなきゃいけないことがあるの……でも……まだ言えない……声が弱すぎて……」
「じゃあ……明日も屋上で話そう」
「うん……明日……もし……まだ声が残ってたら……話す……ゆうとに……全部……」
その声は、今日いちばん弱かった。
そして、風に溶けるように消えた。
俺はしばらく動けなかった。
澪は消えかけている。
でも、まだ消えていない。
そして、明日、澪は“全部”話すと言った。
胸の奥が熱くなる。
怖い。
でも、聞きたい。
「……澪。明日、絶対に来いよ」
返事はない。
でも、胸の奥で微かに響いた気がした。
面白いと思ったら、ページ下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援お願いします!




