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君の声が消える前に  作者: 一ノ瀬 律
一章

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3/5

第2話 消えた声の余韻

 澪の声が消えてから、どれくらい時間が経ったのか分からなかった。


 教室の時計は、いつも通りカチカチと音を刻んでいる。

でも、その音がやけに遠く聞こえた。

自分がそこにいるのに、少しだけ世界から浮いているような感覚。


 俺は机に手をついた。

指先が冷たい。

夕陽が消えた教室は、思った以上に暗かった。


「……澪」


 名前を呼んでみる。

返事はない。

当たり前だ。


 それでも、胸の奥がざわつく。

さっきまで確かに聞こえていた声が、耳の奥に残っている。


 まるで、誰かがすぐ後ろで囁いたような感覚だけが消えない。


 俺は深く息を吸った。

教室の空気は少し埃っぽくて、夕方の匂いがした。


「……帰るか」


 そう言ってみたものの、足がすぐには動かなかった。

教室の隅に視線が吸い寄せられる。

澪が立っていたような気がして、何度も目を凝らした。


 もちろん、誰もいない。


 それでも、影の形が妙に気になった。

夕陽が消えた後の影は、どれも同じはずなのに、ひとつだけ“人の形”に見える瞬間があった。


 俺は首を振った。


「……疲れてるだけだろ」


 そう言い聞かせて、教室を出た。


 廊下は薄暗く、蛍光灯がちらちらと明滅していた。

その光の揺れ方が、妙に不安を煽る。


 階段を降りる途中、ふと背中がぞくりとした。


 誰かに見られている気がした。


 振り返る。

誰もいない。


 でも、胸の奥がざわつく。

澪の声が消えた瞬間の、あの冷たい感覚が蘇る。


「……澪」


 小さく呟いた。

返事はない。


 それでも、名前を呼ぶと少しだけ落ち着いた。

まるで、名前そのものが“繋がり”みたいに感じられた。


 校門を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。

街灯が点いて、道路に淡い光が落ちている。


 俺は家までの道を歩きながら、何度も振り返った。

誰もいないのに、誰かがついてきているような気がした。


 それが怖いわけじゃない。

むしろ、期待していた。


 澪の声が、また聞こえるんじゃないかと。


 でも、最後まで何も聞こえなかった。


 翌朝。

学校へ向かう道は、いつも通りだった。


 コンビニの前で友達が騒いでいて、自転車のベルが鳴って、犬の散歩をしているおばさんが挨拶してくる。


 全部いつも通りなのに、俺だけが“昨日の続き”に取り残されているような気がした。


 教室に入ると、クラスメイトが何人か話していた。


「悠斗、おはよー」


「おはよう」


 返事をしながら、教室を見渡す。


 澪がいた気がする場所。

澪の声が響いた気がする空気。

澪の名前を呼んだときの胸の痛み。


 全部、昨日の教室に置いてきたはずなのに、ここにも残っている気がした。


 席に座ると、隣の席の佐伯が話しかけてきた。


「なんか眠そうじゃね?昨日遅かった?」


「いや……まあ、ちょっと」


 曖昧に返す。

澪のことなんて言えるわけがない。


 佐伯は笑って肩をすくめた。


「お前ってさ、たまに変なとこ見てるよな。今も、なんか……誰か探してるみたいだったぞ」


 心臓が跳ねた。


「……別に」


「まあいいけどさ。なんかあったら言えよ?」


 佐伯は軽く手を振って、前を向いた。


 俺は窓の外を見た。

朝の光が校庭に落ちている。

その光の中で、ふと胸が締めつけられた。


――澪。


 名前を呼びたくなる。

呼べば、また声が返ってくる気がする。


 でも、呼べなかった。

周りに人がいるからじゃない。

ただ、怖かった。


 もし呼んでも返事がなかったら、澪が本当に消えてしまったみたいで。


 そのときだった。


 耳の奥が、じわりと熱くなった。


 昨日と同じ感覚。


 俺は息を止めた。


 教室の空気が、少しだけ揺れた気がした。


「……ゆうと……」


 微かに。

本当に微かに。


 澪の声が聞こえた。


 その声は、昨日よりもずっと弱かった。

耳の奥に触れるというより、胸の内側にそっと落ちてくるような響きだった。


 俺は息を止めたまま、ゆっくりと周囲を見渡した。


 教室はいつも通りだ。

佐伯が前の席でノートをめくっていて、後ろの方では女子たちが小声で笑っている。


 誰も、澪の声に反応していない。


 昨日と同じだ。

俺にしか聞こえていない。


「……澪?」


 小さく呼んだ。

声が震えたのは、驚きのせいか、期待のせいか分からない。


「……ここにいるよ……」


 その返事は、まるで風の音に紛れてしまいそうなほど弱かった。


「どこ……?」


「……ゆうとの、すぐ近く……」


 すぐ近く。

そう言われても、姿は見えない。

気配も感じない。


 ただ、声だけがある。


 俺は机の下、窓際、教室の隅、いろんな場所に視線を向けた。


 でも、どこにも澪はいない。


「……本当に、見えないんだな」


「うん……もう、ほとんど……形がないの」


 その言葉は、昨日よりもずっと現実味を帯びていた。


 澪は本当に“薄れている”。

存在そのものが、世界から剥がれ落ちているような感覚。


「昨日より……声が弱い」


「そうだね……昨日より、少し……消えちゃったから」


 胸が痛くなった。


「なんで……そんなことになるんだよ」


「わからない……でも、誰も私を思い出せないから……世界が、私をいらないって思ってるのかもしれない」


 その言葉は、冗談みたいに軽く言われたのに、内容はあまりにも重かった。


 俺は思わず机の端を握った。

指先が白くなる。


「……そんなの、あるわけないだろ」


「あるんだよ……だって、ゆうと以外、誰も……私の名前を知らない」


 澪の声が少し震えた。

昨日よりもずっと弱く、ずっと不安定だ。


「昨日……名前を教えてくれたよな。澪って」


「うん……ゆうとが呼んでくれたとき……少しだけ、嬉しかった」


 その言葉は、かすかに笑っているように聞こえた。

でも、すぐにその笑いは消えた。


「でも……呼ばれても、強くはなれなかった……たぶん、もう……限界が近いの」


「限界って……」


「声が消えたら……私は、本当にいなくなる」


 その瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛んだ。


 昨日も聞いた言葉だ。

でも、今日のほうがずっと現実味がある。


 澪の声は、昨日よりも弱い。

昨日よりも途切れやすい。

昨日よりも、消えそうだ。


「……澪」


 名前を呼ぶと、少しだけ声が強くなった。


「ゆうと……ありがとう……呼んでくれると……少しだけ、ここにいられる」


「なら、何度でも呼ぶよ」


「……でも……ゆうとが呼んでくれると……ゆうとの中の何かが、少しずつ……削れてる気がするの」


「削れる……?」


「うまく言えないけど……私がここにいるために……ゆうとの記憶を、少しだけ……借りてるみたいな……」


 胸が冷たくなった。


「俺の記憶が……なくなるってことか?」


「全部じゃないよ……ほんの少し……でも、ゆうとが私を呼ぶたびに……ゆうとの中の“何か”が、私のほうへ流れてくるの」


「それ……危ないんじゃないか」


「うん……だから、本当は……呼ばないほうがいいのかもしれない」


 澪の声は、少しだけ悲しそうだった。


「でも……呼んでほしい……ゆうとに、忘れられたくない……」


 その言葉は、昨日よりもずっと切実だった。


 俺は息を吸った。

胸の奥が熱くなる。

怖いのに、痛いのに、でも。


「……忘れないよ」


「ゆうと……」


「忘れない。絶対に。澪のことを忘れたくない」


「……ありがとう……ゆうと……」


 声が少しだけ強くなった。

昨日の澪に近い響きだった。


 でも、その強さは長く続かなかった。


「……ゆうと……もうすぐ……授業が始まるね……」


「分かるのか?」


「うん……ゆうとの周りの音で……なんとなく」


「澪は……どうするんだ」


「ここにいるよ……ゆうとの近くに……でも、たぶん……授業中は、ほとんど声を出せない……」


「なんで」


「人が多いと……私の声、もっと薄くなるから……みんなの“存在”が強すぎて……私が押し出されちゃうの」


 胸が痛くなった。


 澪は本当に、世界から消えかけている。


「……じゃあ、また放課後に」


「うん……放課後なら……少しだけ……話せると思う……」


「待ってる」


「……ありがとう……ゆうと……」


 その声は、昨日と同じようにふっと消えた。


 でも、昨日とは違う。


 胸の奥に残った澪の気配は、昨日よりもずっと弱かった。


 それでも、確かに、そこにいた。


 俺はゆっくりと息を吐いた。


「……放課後、絶対に話すからな」


 返事はない。


 でも、胸の奥で微かに響いた気がした。

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