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君の声が消える前に  作者: 一ノ瀬 律
一章

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第4話 記憶の断片

 翌朝、目が覚めた瞬間、胸の奥がざわついた。


 昨日、屋上で澪が言った言葉が頭の中で反響している。


――“ゆうとに、全部話す”


 その「全部」が何なのか、想像するだけで胸が締めつけられた。

怖い。

でも、聞きたい。

聞かなきゃいけない気がした。


 布団から起き上がると、妙な違和感があった。


 部屋の中はいつも通りなのに、何かが“抜け落ちている”ような感覚。


 机の上の教科書を見ても、昨日の授業内容がすぐに思い出せない。


「……あれ?」


 自分でも驚いた。

昨日は普通に授業を受けていたはずなのに、黒板の文字も、先生の声も、クラスメイトの顔も、全部ぼんやりしている。


 まるで、薄い霧がかかっているみたいだった。


 胸の奥が冷たくなる。


――澪のせいなのか?


 昨日、澪は言った。


「ゆうとの記憶を……少しだけ借りてる」


 その「少し」が、どれくらいなのか分からない。

でも、確かに何かが削れている。


 俺は深く息を吸った。


「……大丈夫だ。まだ大丈夫」


 そう言い聞かせて、家を出た。


 学校へ向かう道は、いつも通りだった。

コンビニの前で友達が騒いでいて、自転車のベルが鳴って、犬の散歩をしているおばさんが挨拶してくる。


 全部いつも通りなのに、俺だけが“昨日の続き”に取り残されているような気がした。


 教室に入ると、佐伯が手を振ってきた。


「おはよー悠斗。今日も眠そうだな」


「……まあ、ちょっとな」


 曖昧に返事をしながら席に座る。


 佐伯が何か話している。

でも、その声が妙に遠い。

昨日よりも、さらに遠い。


 まるで、世界そのものが少しずつ薄くなっているみたいだった。


 俺は窓の外を見た。

朝の光が校庭に落ちている。

その光の中で、胸が締めつけられた。


――澪。


 名前を呼びたくなる。

呼べば、また声が返ってくる気がする。


 でも、呼べなかった。

周りに人がいるからじゃない。

ただ、怖かった。


 もし呼んでも返事がなかったら、澪が本当に消えてしまったみたいで。


 そのときだった。


 耳の奥が、じわりと熱くなった。


 昨日と同じ感覚。


 俺は息を止めた。


 教室の空気が、少しだけ揺れた気がした。


「……ゆうと……」


 微かに。

本当に微かに。


 澪の声が聞こえた。


 昨日よりも、さらに弱い。

風に紛れたら気づけないほどの弱さ。


「澪……いるのか」


 声を押し殺して呟く。


「……うん……でも……今日は……昨日より……ずっと……弱い……」


 声が震えている。

昨日よりも、さらに途切れそうだった。


「大丈夫なのか」


「……わからない……でも……ゆうとに……言わなきゃいけないことがあるの……今日……全部……話す……」


 胸が跳ねた。


「……放課後、屋上で?」


「……うん……屋上で……ゆうとに……全部……」


 その声は、今日いちばん弱かった。


 でも、確かにそこにいた。


 俺は胸の奥を押さえた。


 澪は消えかけている。

でも、まだ消えていない。


 そして、今日、澪は“全部”話す。


 その「全部」が何なのか、胸の奥が熱くなるほど怖かった。


 でも、聞かなきゃいけない。


 澪が消える前に。


 放課後のチャイムが鳴った瞬間、胸の奥が跳ねた。

今日、澪は“全部話す”と言った。

その「全部」が何なのか、怖いけれど、聞かなきゃいけない。


 俺は誰よりも早く席を立ち、屋上へ向かった。


 階段を上るたびに、耳の奥がじわりと熱くなる。

昨日と同じ感覚。

澪が近くにいるときの、あの独特の熱さ。


 屋上の扉を押し開けると、夕方の風が吹き抜けた。

昨日より少し冷たい風。

でも、その冷たさが妙に落ち着く。


 誰もいない屋上。

フェンスの向こうに広がる空。

校庭のざわめきが遠くに聞こえる。


 俺はゆっくりと歩き出した。


「……澪」


 名前を呼んだ瞬間。


「……ゆうと……」


 昨日よりも弱い声が、風の中に落ちてきた。


「澪……ここにいるのか」


「うん……でも……今日は……昨日より……ずっと弱い……声が……すぐに消えちゃう……」


 声が震えている。

昨日よりも、さらに途切れそうだった。


 俺は風を避けるように、屋上の隅へ移動した。

フェンスの影が落ちて、少しだけ風が弱まる。


「ここなら……話せるか?」


「うん……ゆうと……今日ね……少しだけ……思い出したの……自分のこと……」


 胸が跳ねた。


「澪の……記憶か?」


「うん……ほんの少しだけ……でも……大事なこと……」


 澪の声は弱いのに、その言葉だけははっきりしていた。


 俺は息を呑んだ。


「……聞かせてくれ」


「ゆうと……覚えてる……?夏の日……海に行ったこと……」


 胸が締めつけられた。


 夏の海。

白いワンピース。

笑っていた誰かの横顔。

手を伸ばして呼ぶ声。


 昨日から何度も浮かんでくる記憶の断片。


 でも、顔が思い出せない。


「……行った気がする。でも……誰と行ったのか……思い出せない」


「それ……私だよ……ゆうとと……一緒に行ったの……海で……ゆうとが……私の名前を呼んだ……何度も……何度も……」


 胸の奥が熱くなる。

痛いほど懐かしいのに、思い出せない。


「……澪。俺……本当に忘れてるのか」


「ゆうとのせいじゃないよ……私が薄れてるから……ゆうとの記憶の中の“私”も……少しずつ消えてる……でも……海の記憶だけは……まだ残ってる……ゆうとの中に……私の声が……残ってるから……」


 澪の声は、風に押されて揺れながら続けた。


「ゆうと……あの日……私……ゆうとに……言ったんだよ……“また会おうね”って……でも……そのあと……私は……消え始めた……」


「なんで……」


「わからない……でも……誰も私を思い出せなくなって……世界が……私を忘れようとして……ゆうとだけが……最後まで……私を覚えてた……」


 胸が痛くなった。


「……澪。俺は……君を忘れたくない」


「ゆうと……ありがとう……でも……ゆうとの記憶……今日も少し……削れたよ……わかる……?」


 胸が跳ねた。


 確かに、今日の授業内容が思い出せなかった。

誰かの名前も出てこなかった。


「……澪。俺の記憶が……なくなってるのか」


「うん……私がここにいるために……ゆうとの記憶を……少しだけ借りてる……ほんの少しだけ……でも……それが積み重なると……ゆうとが……危ない……」


「危ないって……」


「ゆうとまで……世界から薄れてしまうかもしれない……私みたいに……」


 風が強く吹き、澪の声が一瞬途切れた。


 俺は胸の奥を押さえた。

痛い。

怖い。

でも。


「……澪。それでも……俺は君を探す。君が消える前に……絶対に見つける」


「ゆうと……どうして……そこまで……」


「分からない。でも……君の声が消えるのが……嫌なんだ」


 風が少し弱まり、澪の声がかすかに戻ってきた。


「ゆうと……ありがとう……でも……もう少しだけ……時間がほしい……私……ゆうとに……言わなきゃいけないことがあるの……でも……まだ言えない……声が弱すぎて……」


「じゃあ……また明日も屋上で話そう」


「うん……また明日……もし……まだ声が残ってたら……話す……ゆうとに……全部……」


 その声は、今日いちばん弱かった。


 そして、風に溶けるように消えた。


 俺はしばらく動けなかった。


 澪は消えかけている。

でも、まだ消えていない。


 そして、また明日、澪は“全部”話すと言った。


 胸の奥が熱くなる。

怖い。

でも、聞きたい。


 澪の声が消える前に。

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