第4話 記憶の断片
翌朝、目が覚めた瞬間、胸の奥がざわついた。
昨日、屋上で澪が言った言葉が頭の中で反響している。
――“ゆうとに、全部話す”
その「全部」が何なのか、想像するだけで胸が締めつけられた。
怖い。
でも、聞きたい。
聞かなきゃいけない気がした。
布団から起き上がると、妙な違和感があった。
部屋の中はいつも通りなのに、何かが“抜け落ちている”ような感覚。
机の上の教科書を見ても、昨日の授業内容がすぐに思い出せない。
「……あれ?」
自分でも驚いた。
昨日は普通に授業を受けていたはずなのに、黒板の文字も、先生の声も、クラスメイトの顔も、全部ぼんやりしている。
まるで、薄い霧がかかっているみたいだった。
胸の奥が冷たくなる。
――澪のせいなのか?
昨日、澪は言った。
「ゆうとの記憶を……少しだけ借りてる」
その「少し」が、どれくらいなのか分からない。
でも、確かに何かが削れている。
俺は深く息を吸った。
「……大丈夫だ。まだ大丈夫」
そう言い聞かせて、家を出た。
学校へ向かう道は、いつも通りだった。
コンビニの前で友達が騒いでいて、自転車のベルが鳴って、犬の散歩をしているおばさんが挨拶してくる。
全部いつも通りなのに、俺だけが“昨日の続き”に取り残されているような気がした。
教室に入ると、佐伯が手を振ってきた。
「おはよー悠斗。今日も眠そうだな」
「……まあ、ちょっとな」
曖昧に返事をしながら席に座る。
佐伯が何か話している。
でも、その声が妙に遠い。
昨日よりも、さらに遠い。
まるで、世界そのものが少しずつ薄くなっているみたいだった。
俺は窓の外を見た。
朝の光が校庭に落ちている。
その光の中で、胸が締めつけられた。
――澪。
名前を呼びたくなる。
呼べば、また声が返ってくる気がする。
でも、呼べなかった。
周りに人がいるからじゃない。
ただ、怖かった。
もし呼んでも返事がなかったら、澪が本当に消えてしまったみたいで。
そのときだった。
耳の奥が、じわりと熱くなった。
昨日と同じ感覚。
俺は息を止めた。
教室の空気が、少しだけ揺れた気がした。
「……ゆうと……」
微かに。
本当に微かに。
澪の声が聞こえた。
昨日よりも、さらに弱い。
風に紛れたら気づけないほどの弱さ。
「澪……いるのか」
声を押し殺して呟く。
「……うん……でも……今日は……昨日より……ずっと……弱い……」
声が震えている。
昨日よりも、さらに途切れそうだった。
「大丈夫なのか」
「……わからない……でも……ゆうとに……言わなきゃいけないことがあるの……今日……全部……話す……」
胸が跳ねた。
「……放課後、屋上で?」
「……うん……屋上で……ゆうとに……全部……」
その声は、今日いちばん弱かった。
でも、確かにそこにいた。
俺は胸の奥を押さえた。
澪は消えかけている。
でも、まだ消えていない。
そして、今日、澪は“全部”話す。
その「全部」が何なのか、胸の奥が熱くなるほど怖かった。
でも、聞かなきゃいけない。
澪が消える前に。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、胸の奥が跳ねた。
今日、澪は“全部話す”と言った。
その「全部」が何なのか、怖いけれど、聞かなきゃいけない。
俺は誰よりも早く席を立ち、屋上へ向かった。
階段を上るたびに、耳の奥がじわりと熱くなる。
昨日と同じ感覚。
澪が近くにいるときの、あの独特の熱さ。
屋上の扉を押し開けると、夕方の風が吹き抜けた。
昨日より少し冷たい風。
でも、その冷たさが妙に落ち着く。
誰もいない屋上。
フェンスの向こうに広がる空。
校庭のざわめきが遠くに聞こえる。
俺はゆっくりと歩き出した。
「……澪」
名前を呼んだ瞬間。
「……ゆうと……」
昨日よりも弱い声が、風の中に落ちてきた。
「澪……ここにいるのか」
「うん……でも……今日は……昨日より……ずっと弱い……声が……すぐに消えちゃう……」
声が震えている。
昨日よりも、さらに途切れそうだった。
俺は風を避けるように、屋上の隅へ移動した。
フェンスの影が落ちて、少しだけ風が弱まる。
「ここなら……話せるか?」
「うん……ゆうと……今日ね……少しだけ……思い出したの……自分のこと……」
胸が跳ねた。
「澪の……記憶か?」
「うん……ほんの少しだけ……でも……大事なこと……」
澪の声は弱いのに、その言葉だけははっきりしていた。
俺は息を呑んだ。
「……聞かせてくれ」
「ゆうと……覚えてる……?夏の日……海に行ったこと……」
胸が締めつけられた。
夏の海。
白いワンピース。
笑っていた誰かの横顔。
手を伸ばして呼ぶ声。
昨日から何度も浮かんでくる記憶の断片。
でも、顔が思い出せない。
「……行った気がする。でも……誰と行ったのか……思い出せない」
「それ……私だよ……ゆうとと……一緒に行ったの……海で……ゆうとが……私の名前を呼んだ……何度も……何度も……」
胸の奥が熱くなる。
痛いほど懐かしいのに、思い出せない。
「……澪。俺……本当に忘れてるのか」
「ゆうとのせいじゃないよ……私が薄れてるから……ゆうとの記憶の中の“私”も……少しずつ消えてる……でも……海の記憶だけは……まだ残ってる……ゆうとの中に……私の声が……残ってるから……」
澪の声は、風に押されて揺れながら続けた。
「ゆうと……あの日……私……ゆうとに……言ったんだよ……“また会おうね”って……でも……そのあと……私は……消え始めた……」
「なんで……」
「わからない……でも……誰も私を思い出せなくなって……世界が……私を忘れようとして……ゆうとだけが……最後まで……私を覚えてた……」
胸が痛くなった。
「……澪。俺は……君を忘れたくない」
「ゆうと……ありがとう……でも……ゆうとの記憶……今日も少し……削れたよ……わかる……?」
胸が跳ねた。
確かに、今日の授業内容が思い出せなかった。
誰かの名前も出てこなかった。
「……澪。俺の記憶が……なくなってるのか」
「うん……私がここにいるために……ゆうとの記憶を……少しだけ借りてる……ほんの少しだけ……でも……それが積み重なると……ゆうとが……危ない……」
「危ないって……」
「ゆうとまで……世界から薄れてしまうかもしれない……私みたいに……」
風が強く吹き、澪の声が一瞬途切れた。
俺は胸の奥を押さえた。
痛い。
怖い。
でも。
「……澪。それでも……俺は君を探す。君が消える前に……絶対に見つける」
「ゆうと……どうして……そこまで……」
「分からない。でも……君の声が消えるのが……嫌なんだ」
風が少し弱まり、澪の声がかすかに戻ってきた。
「ゆうと……ありがとう……でも……もう少しだけ……時間がほしい……私……ゆうとに……言わなきゃいけないことがあるの……でも……まだ言えない……声が弱すぎて……」
「じゃあ……また明日も屋上で話そう」
「うん……また明日……もし……まだ声が残ってたら……話す……ゆうとに……全部……」
その声は、今日いちばん弱かった。
そして、風に溶けるように消えた。
俺はしばらく動けなかった。
澪は消えかけている。
でも、まだ消えていない。
そして、また明日、澪は“全部”話すと言った。
胸の奥が熱くなる。
怖い。
でも、聞きたい。
澪の声が消える前に。
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