第百八話 「焔」
それから四年の月日が流れた。甲玄は以前にも増して栄えていた。城下には人が溢れ、市場は朝から晩まで賑わっている。
誰もがこの国の未来を信じていた。それはゼンベエが、甲玄を豊かで強大な国へと成長させていたからである。
そして更に、人々には大きな希望があった。「甲玄にはホムラ様がいる」人々はそう口にした。十八歳となったホムラは、もはや甲玄の未来そのものであった。病弱な身体のせいで戦には出られなかったが、その知略は諸国の軍師達を唸らせ、剣を握ればもはやリン斎すら敵わなかった。誰もが、煬王ゼンベエの後もホムラがいるから甲玄は安心と疑わなかった。
そして妹のカガリも十四歳になり、幼かった少女は、今や城下中で評判の美しい娘へと成長していた。
しかし本人は相変わらずだった。兵達を相手に木刀を振り回し、喧嘩し、笑い、毎日のように叱られていた。
そんなある日、隣国の麟東から当代の将軍が、息子を連れて甲玄へやって来る。その息子の名は“ヨルヨシ“。まだ十六歳ながら文武両道の才人であった。更にとても美しい顔立ちをしており、行く先々で女性に囲まれ、許嫁も既に二人いた。そんないけ好かない男だった。
その日もヨルヨシは気楽な足取りで、甲玄の大館を見学していた。
すると廊下の向こうから、女中を連れた少女が歩いてきた。燃えるような緋色の髪、真っ直ぐな瞳、凛とした立ち姿。
思わずヨルヨシは足を止める。一目惚れだった。
「・・・失礼。お名前を伺っても?」
ヨルヨシに話しかけられると、カガリも立ち止まる。
「・・・カガリです」
「カガリ姫。・・・美しい姫だ。もしよければ、この館を案内してくれないか?」
ヨルヨシは爽やかに微笑む。今まで数え切れぬ女性を落としてきた笑顔だった。
だが。
「では」
「え・・・?」
カガリはそのまま通り過ぎていった。振り返りもしない。ヨルヨシは呆然と立ち尽くす。ここまで見事に相手にされなかったのは、生まれて初めてだった。
一方、カガリは何事もなかったように兄の部屋へ向かう。
「兄様!」
部屋の奥ではホムラが布団へ横になっている。顔立ちはさらに端正になり、少女でも見紛うほどの美しさを持つ青年へ成長していた。しかし病弱な身体だけは昔と変わらず、苦しそうな咳を漏らしながら、それでも穏やかに微笑む。
「お帰り。カガリ」
途端にカガリの顔が綻ぶ。
「聞いてよ兄様! さっき変な男がいた!」
ホムラは笑う。
「変な男?」
「いきなり口説いてきた!」
「ふふっ。そうか」
咳をしながらも楽しそうに肩を揺らす。カガリはその横へ座り、今日あったことを延々と話し続けた。ホムラは最後まで聞いてくれる。どんな些細な話でも、どれだけくだらない話でも。
だからカガリは兄が大好きだった。強くて、賢くて、優しい兄が。彼女が男に興味を持たない最大の理由は、この兄だった。
それからヨルヨシは、何度も甲玄を訪れるようになる。当然、理由はカガリだった。だが結果は変わらない。
「カガリちゃん! 今日も可愛い!」
「はいはい」
しかしヨルヨシは懲りなかった。その代わり、次第に周囲と仲良くなっていく。ゼンベエ、リン斎、カガリの弟分であるブジ、そしてホムラ。特にホムラへの尊敬は日増しに大きくなっていった。
やがてヨルヨシは、ホムラを兄のように慕うようになる。ホムラもまた、そんなヨルヨシを弟のように可愛がっていた。
しかし一人だけ、それを面白く思わない男がいた。カエンである。
「また来たのか、女たらし」
顔を合わせる度に嫌味を飛ばす。しかしヨルヨシも負けていない。
「そう嫉妬するなよ」
「何ぃ!?」
二人は会う度にそんなやり取りを繰り返した。だがカエンは気付いていた。ヨルヨシがカガリへ向ける想いが本物であること、ホムラを心から慕っていること、そして家柄や国の違いなど気にせず分け隔てなく接していることを。気に食わない。だからこそカエンは、何度もヨルヨシを試した。剣を交え、将棋を交え、花魁に誘惑させたりもした。その度にヨルヨシは真っ向から向き合った。
そしていつしか二人は、互いを親友と思うようになっていた。もっとも本人達は、口では最後まで認めなかったが。
完全に甲玄に馴染んでいたヨルヨシに、カガリもまた少しずつ心を開いていった。
*
だが、運命は残酷だった。それから三年後、ホムラは二十一歳という若さで息を引き取る。あまりに早すぎる死だった。民も兵も、甲玄中の皆が涙を流した。それほどまでに愛されていたのだ。
カエンは人目も憚らず泣き崩れ、ブジは何日も食事を喉へ通さなかった。父のゼンベエは何も言わなくなった。ホムラに対し、誰よりも将来へ期待し、誰よりも大きな夢を抱いていたのだ。その喪失は計り知れなかった。
そして最も壊れてしまったのはカガリだった。笑わず話さず泣きもせず、ただ兄の部屋へ座り続けていた。魂だけがどこかへ行ってしまったようだった。
そんな彼女を支えたのがヨルヨシだった。彼もまた悲しかった。ホムラを心から尊敬し、本当の兄のように慕っていた。
だが彼は、悲しみに沈むことを選ばなかった。何度も何度も甲玄へ足を運び、カガリへ話しかける。返事がなくても、怒鳴られても。そこに下心など無く、ただ兄を失った友を救いたかった。
そんなある日。
「・・・兄様なら」
不意にカガリが口を開いた。ヨルヨシは驚いて顔を上げる。
「・・・こんな時、兄様なら・・・どうしたかな」
弱々しくかすれた声だった。ヨルヨシは少し考え、静かに答える。
「笑ってるだろうな」
「・・・?」
ヨルヨシは外を見る。城下では、人々が俯きながら生活していた。
「だってホムラ兄は、皆に笑っていてほしい人だったろ?」
カガリの瞳から涙が溢れた。兄が死んでから初めて流した涙だった。まるで子供のように声をあげて泣いた。ヨルヨシは何も言わず、その隣にずっと座り続けた。
*
そうして長い月日が流れ、カガリは笑うようになった。城下へ出ては兵達を励まし、民達に笑いかけ、決まってこう言った。
「そんな顔をしてたら兄様が悲しむ」
その言葉は甲玄中へ広がり、沈んでいた人々も少しずつ前を向き始める。ホムラを失った悲しみは消えないが、立ち止まることもまた、ホムラは望まない。皆がそう思えるようになった。
そして、最も救われたのはゼンベエだった。城下で笑う娘の姿を見た時、ゼンベエはようやく前を向くことができたのである。
かつて甲玄を照らした一つの焔は消えたかに思われたが、その火は兄から妹へ、確かに受け継がれていたのである。
完




