第百七話 「しゃらくの母」
翌朝、甲玄の城下は、朝早くから慌ただしかった。麟東へ戻る一行のために、兵達が荷を馬へ積み込み、武具を運び、忙しなく走り回っている。
「急げ急げ! その箱は最後だ! それはあっちへ回せ!」
威勢の良い声が飛び交う中、大館の縁側ではその喧騒とは反対に穏やかな時間が流れており、ゼンベエは胡座をかき、庭を眺めている。
すると近くを通りかかったしゃらくを見つけ、ゼンベエが手招きする。しゃらくは振り向き、そのままゼンベエの隣へ腰を下ろした。
二人はしばし無言で兵たちを眺めた。荷車の軋む音、馬の嘶き、兵たちの掛け声。それらが静かに耳へ届く。
やがてゼンベエが口を開いた。
「もう行くのか? お前はここに残っても良いのだぞ?」
しゃらくが顔を向ける。ゼンベエは微笑んだ。
「仲間達も大歓迎だ」
だが、しゃらくは少し困ったように笑った。
「残りたいけどさ、おれは兄貴に会いに麟東へ戻るよ」
ゼンベエは黙って続きを待った。
「まだ話したいこともあるし」
しゃらくは庭へ視線を向ける。少し離れた場所ではコシトキが兵たちに囲まれながら荷の確認をしていた。
「あいつも送ってやらねェと」
ゼンベエは小さく頷く。そしてどこか寂しそうに微笑んだ。
「そうか」
「それに、ここは爺ちゃんがいるから心配ねェだろ?」
ニッと笑う。ゼンベエもつられるように笑った。
少しだけ沈黙。風が二人の頬を撫でる。
すると、ゼンベエの表情がふいに変わる。どこか遠くを見るような目。やがて低く呟く。
「・・・お前の母の話をしたか?」
しゃらくが瞬きをした。そして首を横に振る。
「そうか。・・・お前には知る権利がある」
しゃらくの喉がごくりと鳴る。ゼンベエの横顔には、懐かしさと後悔が滲んでいた。
*
時は二十八年前へ遡る。まだ建てられて間もない甲玄の大館。その広い庭では、元気いっぱいの少女の声が響いていた。
「やぁぁぁぁッ!!」
バシィッ!! 竹刀が唸る。
「うえぇぇぇぇん!!」
大柄な男の子が頭を抱えて泣き出した。頭には見事なタンコブ。その前には、緋色の髪を揺らした少女が胸を張って立っている。
「またアタシの勝ちー!」
屈託なく笑う少女。それが幼き日のしゃらくの母、“カガリ“である。まだ十歳だが既にその瞳には、甲玄を支える強さが宿っている。
傍らでは若き日のリン斎が困り顔を浮かべていた。
「これこれ姫様。手加減してあげてください」
今より随分若いリン斎の声はまだ小さいが、何を言っているかは聞こえる。
するとカガリは耳へ手を当てた。
「え!? リンさん声が小さくて聞こえないよ! ワハハ!」
リン斎は肩を落とした。その隣では頭を押さえた少年が泣いている。まだ五歳のブジである。だというのに身長は大人ほどあり、リン斎にも迫る巨体である。
すると縁側から怒声が飛ぶ。
「これカガリ! あまりブジを虐めるな!」
振り返ると縁側で腕を組む父、ゼンベエ。しかし顰めっ面で睨む父に対し、カガリはベーと舌を出した。
「こんのクソガキ!!」
顔を真っ赤にするゼンベエ。リン斎が慌てて止める。だがカガリは既に興味を失っていた。ひょいと縁側へ上がリ、ゼンベエの脇をすり抜け、館の一室へ飛び込んだ。
「兄様ぁ!」
部屋の奥、敷かれた布団に一人の少年が寝ており、その脇でまだ十歳のカエンが胡座をかいている。
「兄様! また勝ったよ! これで三百連勝!」
カエンとは逆側の布団脇に嬉しそうに駆け寄るカガリ。するとカエンが呆れた顔をする。
「五歳も年下のやつに勝って嬉しいか?」
「うるっさいなカエン! あんたにも勝ったし!」
「馬鹿言え! 勝たせてやったんだ!」
二人が布団越しに睨み合う。そんな二人を見て、少年が穏やかに笑った。少年の名はホムラ。ゼンベエの息子で、カガリの兄である。しかし二人とは対称に、病弱な体に生まれた為、一日のほとんどを布団の上で過ごしている。歳は十四。痩せた体に青白い顔。しかし、その眼差しだけは不思議なほど力強かった。
「こらカガリ。あまりブジを虐めてはいけないよ」
優しい声。途端、カガリの肩が縮こまる。
「はーい・・・」
素直に返事する。あれほど暴れ回る少女が、兄の言葉だけは聞く。
その様子を見ていたゼンベエが後ろで叫ぶ。
「こらカガリ!! 父には舌を出すのに、ホムラの言うことは聞くのか!?」
「お館様、まあまあ」
リン斎が止める。しかしカガリは再び振り向き、べーと舌を出す。
「このガキャァァァ!!」
ゼンベエが顔を真っ赤にする。まさに茹蛸である。
するとホムラが布団から上体を起こし、手を伸ばす。ぺちん。カガリの額を軽く叩いた。
「こらカガリ。父上にそんなことをしてはいけないよ」
「・・・ごめんなさ〜い」
ぺこりと頭を下げる。ホムラは満足そうに頷いた。そして今度は父へ向く。
「父上。カガリも反省していますので、お許しください」
ホムラがゆっくりと頭を下げる。ゼンベエは顔を逸らす。
「・・・チッ。ホムラがいなきゃ拳骨だ! 兄に感謝しろ!」
そう言って部屋を出ていく。リン斎も一礼して続いた。
残された三人。するとカエンが身を乗り出した。
「ホムラ兄! また兵法を教えてくれよ!」
「ダメ! 兄様はアタシに剣術を教えるの!」
「ホムラ兄は寝てなきゃいけねぇんだ! 剣術ならリンさんに教えてもらえよ!」
「ヤダ! それにアタシの兄様なんだけど!」
再び睨み合い。火花が散る。ホムラは苦笑する。
「こらこら。順番だ。まずはカエン。それからカガリ。いいね?」
優しい声で二人の頭を撫でる。つい今し方まで睨み合っていた二人が、嘘のように大人しくなる。
ホムラはまさしく“天才“であった。まだ十四歳という若さで、当時の軍師を凌ぐ頭脳。また剣術においても、甲玄最高の剣士であるリン斎を何度か打ち負かすほどである。
そんなホムラの名は瞬く間に国内外へ広まり、人々は口々に彼を「“天下一の才“」と称えた。
その名の通り、彼はまさしく甲玄を照らす“焔”そのものであった。
完




