第百二話 「試し酒」
襖の前に立つカエンの後ろには、数人の花魁達が静かに並んでいる。艶やかな着物。丁寧に結い上げられた髪。鈴のような微笑み。男達の視線が自然と向く。
「気が利くじゃねェか! ガッハッハ!」
真っ先に反応したのはバゲンだった。花魁達は優雅に頭を下げると、それぞれ客人の元へ散っていき、盃へ酒を注いでいく。
だが反応は様々だった。バゲンは豪快に笑いながら盃を差し出す。ウンケイは少し照れくさそうに頭を掻き、スイメイは穏やかに笑みを返す。
「・・・寄るな」
シカだけは露骨だった。盃を花魁から遠ざける。更に隣で料理を頬張っていたブンブクを抱き上げ、自分の膝へ乗せる。花魁が手を伸ばそうとした瞬間、ギロリ。シカの目が光り、白い歯が覗く。まるで縄張りを守る獣である。花魁も思わず苦笑いする。だが当のブンブクは違い、人懐っこく花魁へ両手を伸ばしている。
「へへへへへ・・・」
一方、すっかり酒の回ったコシトキは別の意味で酷かった。花魁へ向かって身を乗り出し、だらしなく鼻の下を伸ばして、ただただ幸せそうに笑っている。
「コシトキ殿、お酒がお強いのですね」
「へへへ・・・いえいえ・・・そんなぁ・・・」
全く会話になっていない。ウンケイとスイメイが苦笑する。
しかし、意外だったのはしゃらくだった。花魁が隣へ座り、普段なら真っ先に、コシトキ同様顔を真っ赤にして騒ぐはずだった。
「どうも」
しゃらくは笑顔だった。それはいつもの気色の悪い笑顔ではなく、落ち着いた笑顔である。そして花魁と自然に話している。
「・・・珍しいな」
バゲンが小声で呟く。
「ええ」
スイメイも頷く。ウンケイも同意した。
そんな様子を、カエンは遠くから静かに眺めている。やがて立ち上がると、しゃらくの前へ歩いていく。そのまま胡座をかき、黙って瓢箪を差し出す。しゃらくは首を傾げながら盃を出す。トクトクと酒が注がれる。
「気に入りませんでしたか? 別の女を付かせましょうか?」
しゃらくは目を丸くする。
「いいよそんなの。こんな綺麗な人見たことねェよ」
しゃらくは自分の徳利を持ち上げ、花魁の盃へ酒を注ぐ。それを見たカエンの眉が僅かに動く。
「気に入っていただけたなら。では、もう何人か付かせましょう」
「やめてくれ。おれは充分だって」
しゃらくは苦笑し、頭を掻く。
「・・・ごめん。ちょっと便所」
立ち上がったしゃらくは花魁へ笑顔を向ける。予想外だった。カエンだけでなく、皆が呆然としている。
やがてカエンが振り向き、近くにいたウンケイとスイメイを見る。
「・・・女は好かんのか?」
二人は首が飛びそうな勢いで横へ振る。カエンは更に眉を上げる。
「あいつは大の女好きです。が、あいつは毎度真剣に恋に落ちる男なので、普通の女好きとは少し違うかもしれませんね。ははは」
スイメイが笑う。カエンはしばらく沈黙し、そしてニヤリと笑う。
「おいカエン。わしの大事な孫をいじめるなよ」
後ろからゼンベエが声を掛ける。カエンは笑顔で振り返る。
「あい、すいやせん」
少しして、しゃらくが戻ってくると、再びカエンがやって来て、今度はしゃらくの前へ正座する。
「先ほどは大変失礼をいたしました。しゃらく殿。お見逸れいたしました」
カエンが深く頭を下げる。しゃらくは完全に混乱していた。
「え? え? 何が?」
そしてカエンは顔を上げ、パン。パン。二度手を叩く。すると花魁達が一斉に立ち上がり、静かに頭を下げ、広間を去っていく。
「あっ・・・」
コシトキが伸ばした手は空を切る。今にも寄りかかろうとしていた体がそのまま前へ倒れる。
「花魁さぁぁん!」
広間は笑いに包まれる。
その後、ブジの隣へ腰を下ろしたカエンは、ずっと楽しそうにニヤニヤしている。しゃらくだけが訳も分からず首を傾げていた。
「しゃらく。ちとこっちへ来てくれんか?」
ゼンベエが手招きする。一瞬でしゃらくの身体が固まった。横を見ると、ウンケイ、スイメイ、バゲンの三人が黙って頷いた。しゃらくは唾を飲み込む。そしてゼンベエとリン斎の間へ正座した。
「私も厠へ」
すると、リン斎が静かに立ち上がる。二人きりになる。しゃらくの背筋がぴんと伸びる。ゼンベエはそんな様子を見て笑う。
「飯は足りておるか? 飯も酒もまだまだあるぞ?」
しゃらくは慌てて首を横に振る。
「そうか。遠慮なく言えよ? ここはお前の家だ」
しゃらくは黙ったまま頷く。するとゼンベエは酒を一口飲む。
「お前の旅の話を聞かせてくれんか? わしはお前が赤子の頃に何度か抱いたことがあるが、その後を知らんのだ。・・・お前がどんな人生を送ってきたか。嫌でなければ聞かせてくれぬか?」
しゃらくは少しだけ考え、それから照れくさそうに笑う。
「・・・うん」
その晩、しゃらくは初めて、自分の人生を誰かに長く語った。そしてゼンベエは、一度も話を遮らなかった。料理が下がっても、酒宴が終わっても、皆が広間を去っても、ただ静かに聞き続けた。
やがて二人は縁側へ移る。夜空には大きな月、虫の声、手には酒。旅の話が途切れた頃、ゼンベエが呟く。
「今の旅は楽しいようだな」
「あァ」
しゃらくが笑う。
「そうか」
ゼンベエも笑う。そして月を見上げながら言った。
「お前の志は立派だ。・・・だが今はまだ、仲間と過ごすこの旅を楽しんでも良いのだ。わしやお前の父、そしてお前の兄のように家督に縛られんお前は自由だ。・・・世の平穏を願う心は見上げたものだ。だが、お前の人生だ。お前のために生きろ」
しゃらくはゼンベエを見た。そして答える。
「でもおれはやりたいんだ。おれ、色んな国を見てきたし、色んな奴に会ってきた。笑ってる奴もいれば、泣いてる奴もいる」
しゃらくは月を見上げる。
「だからさ、みんなが笑って暮らせる世の中にしたいんだ。そんで爺ちゃんの国を見て歩いて、やっぱりおれが目指してることは間違ってないって思った」
ゼンベエは目を丸くした。そして微笑む。
「そうか。わしは、お前がどうなろうとお前の味方だ」
その言葉に、しゃらくは少しだけ鼻の奥が熱くなるのを感じた。
「・・・ありがと」
遠く離れた国で生きてきた。違う景色を見て、違う道を歩いて、違う立場を背負って。
月は静かに甲玄の空へ輝き続ける。祖父と孫は酒を酌み交わしながら、ただ並んでその月を見上げている。
完




