第9話:「……忙しくなりそうじゃな」
エンデの花園。
死者の魂が最初に迎えられる場所だと言われている。
幾千もの朱色の鳥居を渡るたびに、光は柔らかく屈折し、かすかな花の香りが漂った。空気は澄み渡り静かに清らかになる。
風はどこまでも柔らかい。花々は四季を忘れたように咲き誇り、花弁が風に揺れていた。迷い込んだ魂は、この場所で初めて安らぎを知るのだという。
天界エンデの一角にあるその庭は、豊穣神ケルレイ自らが手入れをしており、実り豊かな木々と花々が魂を温かく迎える――と、人々には伝えられている。
その花園で、桃色の小さな象を模ったジョウロを使い、小さく儚い花に愛おしく水を与える神が一柱いた。
丸太の様に太い指で器用に取手をつまみ、静かに水を注ぐ。蛸のようであり、蛸ではない頭部から悍ましい触手がゆらゆらと揺れていた。
冒涜的なその神の姿は――邪神ン・ゴであった。
それが目なのか、ただの窪みなのかわからない。だがそこから、涙のようなものが流れていた。
まるで静かに泣いているような背中だった。
「おいたわしいわ」
両手を口元で合わせるその姿は、花園の主――豊穣神ケルレイである。
大輪の花の花飾りを頭に付け、背中は雄大な大地を背負っているかの如く逞しい。身体は男神、心は女神。そんな彼女――豊穣神ケルレイは心配そうに邪神を見つめる。
八十年前。
千年も続いた人魔戦争の果てに、人々はついにヤケを起こした。
そして地上で――邪神召喚が成功してしまう。
当初、ノリノリで召喚に応じたン・ゴだったが、自身の姿を見た生き物が狂い死にしてしまう事にショックを受け、トラウマになってしまう。しばらく引き籠っていたが、医神のカウンセリングによりガーデニングを勧められて花園に通うようになり今に至る。
触手の一本で花弁に触れ、そっと支える。強すぎる力ではすぐに壊れてしまう。小さな命は、あまりにも脆い。
だからこそ――愛おしかった。
邪神は小さく儚い花に心を奪われ、癒されていた。
「ン・ゴの様子はどげんじゃ?」
後ろから、幼児のように甘く――それでいて老人のような嗄声がした。
「あら、鬼八のじっちゃま」
声の主は紅い角を生やした巫女服の幼女。
悪神――鬼八である。
「最近またン・ゴに供物が届くようになった。
魔物と若い男女の首じゃ。
ン・ゴも困っちょいし、アタイも扱いに困っちょる。
現にあんな調子じゃからな」
ン・ゴは黙ったまま、小さな花を摘み眺めている。ため息をついたように見えた。
「こいから、ン・ゴといっぺやろうと思うとよ。
ケルレイちゃんも付き合わんね。
肴に茄子が欲しいんじゃが、頼めるかい?」
「あらまあ、じっちゃま。アタシもお呼ばれしていいの?じっちゃま、お料理上手だから張り切って実らすわよ。……ふん!」
豊穣神はその豊かな胸筋を誇るように、サイドチェストのポーズをとる。白い花を咲かせていた茄子の苗から、まるまると瑞々しい茄子が実をつける。黒紫に輝く茄子を手に、悪神は満足気に笑った。
「あ、おーい。ケルレイ様。鬼八様」
そんな二人に薬神スクナヒメが声を掛けて近寄って来た。
「あらやだ、スクナちゃん。今日も薬草摘み?」
「精が出るのう」
「はい、最近エリクサーの減りが早いもので、お二人は茄子の収穫ですか?」
「じゃが。こいからン・ゴも呼んで、おやっとさあしようと思っちょっと。
スクナちゃんも来んね?
アタイが茄子の肴を作るかい」
「わ、やった。鬼八様のお料理とても美味しいので楽しみです!籠置いたら御神酒持って伺いますね。」
そう言い、スクナヒメは薬草でいっぱいの籠を背負い、工房へとかけて行った。
「……ええ子じゃあ。
そいにしてん、エリクサーが減りが早いとはのう」
「ホントよねぇ。最近、エレキちゃんもイナンナちゃんもずっと胃痛でエリクサー飲んでるらしいわよ?」
「神が胃痛とはのぅ……世も末じゃ。ぐらしかのう……」
「……心配を、かける」
ぬっと、背後から静かな声がした。
振り向けば、いつの間にか花を手にした邪神ン・ゴが立っていた。
「きゃっ! ン・ゴ様、びっくりしちゃった」
「……すま、ない」
「んもう、いいのよ。ン・ゴ様」
「鬼八も、感謝、する」
ン・ゴがぽつりと言った。
「ぬ?供物のことか?よかよか、気にするな」
「……心、配」
「じゃのう。アタイも姉妹神の症状が気になる」
「なら、みんな呼んで宴会にしちゃいましょうよ」
豊穣神がぱあんと両手を合わせる。
「うぬ。それがよかね。ケルレイちゃん野菜をもっともらえるかい?
ン・ゴも手伝ってくいやん」
「……ンゴ」
触手がゆらりと揺れた。
「ええ、わかったわ……ふんぬ!」
豊穣神がフロント・ダブルバイセップスのポーズをすると、たちまちに作物が実り出す。
「ふー。あ、貴方、神々に伝言をお願い。
鬼八様の屋敷で宴会を行うからいらしてって」
そう、梟の精霊に命じ、神々に召集をかけた。
「茄子は焼くかのう……いんや、揚げ浸しもよかなあ」
鬼八は顎に手を当て考える。
「あら、それなら生姜も欲しいわね」
ケルレイが畑に向かいアドミナル・アンド・サイのポーズをとる。大地がむくりと盛り上がり、たちまちに青々とした葉が伸びた。
「……ンゴ」
邪神は静かに頷き、籠を運び始める。
「……忙しくなりそうじゃな」
「……ンゴ」
その時、花園を渡る柔らかな風が吹いた。
色とりどりの花びらがふわりと舞い上がり、空を漂う。まるで、桜吹雪のように、花びらは神々の周りをくるくると回りながら降りていった。
一枚の花びらが、邪神の触手にそっと触れた。
ン・ゴはそれを壊さぬよう、静かに指先で受け止め優しく地面に下ろした。
「……ンゴ」
その夜、神々は悪神の屋敷に集い、酒を酌み交わした。
地上の異変と、姉妹神の不調について語り合うために。
「皆の衆……最近、妙な祈りが届いちょる」
盃が、静かに止まる。
その祈りが届くたびに、女神の姉妹は胃痛がするという。
――そして、女神たちは今日も、エリクサー《酒》をあおるのでした。




